減喩
今朝まで女房がいて(短期間の滞在だった)、数日をまったりすごした。確定申告の書類完成のために来てくれたのだ。それ以外にも女房は諸事で多忙をきわめ、胃をこわしていた。それで胃薬がわりに大根を食べようということになり、かぐや姫の歌ではないが、おでんをつくった。
コンビニにはあるものの、石狩鍋の土地柄だからか北海道全般におでんが浸透していないとおもえる。練り物関連のおでん種がデパートにもあまりないことで、それがわかる。練り物では、小樽の「かま栄」という一大ブランドもあるのだが、あれは「じか喰い」需要なのではないだろうか。なるほど新鮮でぶりぶりして旨いのだが、ほのかに甘く、おでんに使用すると汁が甘くなる。ぼくは神奈川県で育ったので鈴廣好みとおもわれそうだが、おでん種では築地の佃權が贔屓だ。ただし最も好きなのは、佃權のはんぺんを刺身として食べることかもしれない。ねっとりとした山芋の舌触りが癖になる。
女房が傍らにいたので詩作が数日途絶えていたのだが、昨日、研究室に行った折、ふっと詩を書いてしまった。研究室で書く詩は集中の形式がちがうからか、出来がわるい自覚があるのだが、どうだったろうか。
今日は、女房の帰京後、鮎川賞の「受賞のことば」を書いた。400字だから即座に書けてしまう。字数の少なさに煩悶せず、あっさりと書いてしまった。換喩/暗喩の二元性も無難にスルーした。このあたりの詳細は贈呈式で語らされることになるのだろう。
鮎川賞の選考経緯を亀岡さんから教えてもらった。「詩手帖」次号で、北川さんと吉増さんがそれをスリリングにつたえてくれるだろうから、いまここでぼくが喋々することではないが、ひとつだけしるせば、「やはり」貞久秀紀さんの『雲の行方』と拙著との一騎打ちだったようだ。ぼくが選考委員なら貞久さんのほうに一票を投じる。拙著に利点があるとすれば、より多くの詩集を「読ませる」付帯作用のある点くらいだろう。一般論をいえば、透明さに混濁は勝てない。
その貞久さんからは数日前、ぼくの受賞を虚心によろこんでくれる葉書が届いた。いつもどおり、びっしりと小さな字が裏表に書きこまれていて、感動したのだが、貞久さんは拙著のうち、ぼくの提案した「減喩」の重要性を強調なさっていた。
暗喩/換喩――これらに「喩」の字がはいるから、語弊が生じるのだとおもう。修辞を喩えの質で区分することはできないか、できたとしてもさほど意味がない。むしろぼくが詩の叙法でかんがえているのは、ことばの「それじたい」を物質的に裸出させる詩が、同時に「それじたい」から離脱するうごきをみせる点についてだ。それで暗喩にあたるものは、かさなりと奥行をつくり、換喩にあたるものは空間とずれをつくると整理する。いずれにせよ、そうなると叙法で吟味されるべきは「喩え」ではなく「うごき」であって、ならば「喩」とは「うごき」をいうものと、とらえかえすべきなのではないか。さてそうなって「減喩」とはなんだろう。
自分で提唱してみて、その把握がむずかしい。いずれにせよ、散文的説明性を殺ぎ、散文にある諸語諸文の隣接関係を、語や文そのものの隣接関係へと特化し、同時に意味や関係性を消去した箇所に、消去部分そのものの模様を凹状に把握させ、それを余韻へとなげやることなく、消去じたいを物質化するようなことではないかと、とりあえずかんがえてみる。
一見、「あいまい」や「もうろう」と詩法が似てくるのだが、それでも痩身になった語どうしが関係を隣域をも離れてつなぎあうなかに、「虚の面積」のようなものをうかびあがらせる。再読三読がいつもべつの鉱脈を掘り当てられるよう「すくなさ」を厳密に組織しなければならない。その意味でいうと「減喩」からうまれる「うごき」とは、のこったもののすくなさと、消されたもののおおさの拮抗により、のこったことばににじみをあたえるようなものといえるのではないか。
これはまだ理論化できていない。切断ともちがう。切断は学習されてしまうためだ。ただしぼくのすきな詩作者たちも、こうした減喩めいたものを駆使していて、これに注目する貞久さんもむろんそのひとりだとおもう。ぼくも最近は減喩にもとづいた詩作をくりかえしている(と自分ではかんがえている)。いかに一行目から詩篇をゆっくり読ませるか、それでも圧を読者にあたえずにおくかで、たどりついた詩法だった。貞久さんとぼくにちがいがあるとすれば、ぼくのほうが同語の反復をきらう点だろうか。
書きすぎないことがなぜ読者の想像力のはいりこむ容積をつくるのかは、単純なようで、じっさいは一筋縄ではゆかないもんだいだ。減喩は切断とちがい、音韻性と親和する。たとえばこのあたりを視野にいれた石原吉郎論でさえ、まだ登場していないとおもう。しかも「書きすぎない自制」と、「書きながら削り」「削りそのものを書く」創造には、さらなる径庭があると予想がつく。たどりつく場所のひとつに、杉本真維子の詩もあるだろう。
「削りながら書く」と「ずれながら書く」は似ている。とすれば、減喩は換喩の亜種とかんがえられるかもしれない。空無へずれるといってもいいし、部分を空無にすることで加算に空無をはらませるといってもいい。
『換喩詩学』ののちにかんがえるべきなのは、この「減喩」かもしれない。しかしこれがむずかしい。だいいちサンプルが充分ではなく、立論の通用性がよわいと見込まれるためだ。むろん減喩の宝庫は俳句なのだが(切字に拘泥しなければそんな視座がひらける)、詩の俳句素を検証することはできても、俳論そのものを詩論に書くわけにもゆかない。減喩は詩論ではなく、実作での展開のほうに向いている気がする。
そういえば昨夜はおでんも終わり、女房の胃も復調して、すすきの「ポッケ」におもむいた。三角みづ紀、山田航、久石ソナとすこしまえに愉しんだあのジンギスカン屋だ。あのときは旺盛な三人の食欲につられ、火のとおった瞬間のラム肉を次から次へと頬張ったが、女房とは互いに齢で、喰いながら疲れてゆく気配がただよってしまう。それで旨かったが、爆発的な感動がなかった。焼肉系はわかいひとと行くにかぎる。