エドワード・ヤン、恐怖分子 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

エドワード・ヤン、恐怖分子のページです。

エドワード・ヤン、恐怖分子

 
 
【エドワード・ヤン『恐怖分子』】
 
 
エドワード・ヤンの『恐怖分子』がデジタル・リマスター版として今度の土曜(3月14日)から、渋谷シアターイメージフォーラムにて公開される。86年製作のこの台湾映画が最大の引き金になって、ぼくは勃興しつつあったアジアン・ハードボイルドの虜になった。この映画のノワール感覚も、オーソン・ウェルズ『黒い罠』で純粋ジャンルとしてのフィルム・ノワールが終焉したあとの「あたらしいノワール」中、最大価値をしるしている。これほどうつくしい緊迫感にみちた作品はざらにない。未見であるとすれば、おそろしい損失だ。
 
しかもこの映画を観ると、東京国際映画祭に『クーリンチェ少年殺人事件』をひっさげて来日した往年のヤンの、少年的で人懐っこい風貌までおもいだしてしまう(ぼくは彼のインタビューに編集者として立ち会った――そのときもこの『恐怖分子』の話が出た)。怖いのに、この体験によって涙なしには観られない傑作なのだ。
 
ノワール感覚とはなにか。登場人物のだれにも心情的な肩入れをできずに、都市論的な不安がおりなす映画上の価値変転のうごきにこそただ蠱惑されること、とひとまずそういってみる。人物の内在性ではなく、人物間の関係性が、都市景観と不即不離でみるみる拡大、縮小、もつれあうことにこそ、「映画的=魔的な人格」が現れる。脱人間性、語り=騙りの優位、人間への冷笑、残酷趣味、冷徹な洞察力、ペシミズム、視覚性が心情を凌駕すること、異様な要約能力とそれに離反する謎や奥行、空舞台の特権化――そうした倒錯美が映画の進展法則を支配する。
 
フレデリック・ジェイムソンは、この映画の二通りにとらえられる結末、あるいは物語上の入れ子構造を睨み、映画の進展的分岐が、あるいは内/外が最終的に主従を「決定不能」である点に、ポストモダン性があると綴った。ただし細部の増殖によって映画が全体化されないまま、その不安な総体が観客を圧倒してしまうことは、ポストモダンをもちださずとも映画の傑作にはままあることだ。それはひとまずポストモダンというよりフィルム・ノワールの属性としたほうがいいだろう。
 
エドワード・ヤンが『恐怖分子』でしめした鉄則は、画柄細部のもつ主題性と、ストーリー形成の様相とが、不吉に一致しなければならないという厳格・数学的な自己統制だった。かたちとしては矩形が分散したり隣接しあったりする画面上の図像性を、あるかなきかのまま結ばれて破局へとむかってゆく人物群(パーツ)のパズル組み立て的・部分集合的な過程と相即させる点に、ヤンの作家的な野心が傾注された。画面細部はそれで変貌性の予感を湛えることになる。
 
矩形を列挙しておこう。主人公のひとり、薬品会社(だとおもう)に勤務する李立中のいる社屋を戸外から窓越しに捉えるフラッシュ編集の一連にまずそれは印象的に現れる。その後も、建築ラッシュの台北で、強化ガラスの外壁をもつ高層ビル(窓掃除の労働者がいる)、原稿用紙のマス目、李立中と女性作家・郁周芬とが暮らす洒落た間取りのマンションでの浴室への扉の開口部分、その浴室などのタイル、台北の不良たちが賭場を運営していたアジトの窓ガラスと桟(正面構図がくりかえされる)、李立中の勤務先の部長が手にもつスライド写真ファイル、やがて郁の愛人となる男の経営する会社の会議室の調度、整理籠、林立する映画看板などがある。そのなかでカメラ小僧が不良少女の顔を8×5だったかのモザイク細片性のままに巨きく拡大した写真の、不吉な映画性が語り草となっている(吉田喜重『血は乾いてる』での佐田啓二の巨大看板と類縁性をもつ)。
 
前提なく登場人物を語ってしまった。本作では主要な人物は四人いる。薬品会社の社員(課長昇進を画策する)・李立中、その妻である作家・郁周芬、母親にしいられた幽閉生活のなかで「偶然」その郁にいたずら電話をかけ、上述夫婦を破局へと追いやる不良少女、その不良少女が賭場のガサ入れから逃げる過程を撮影して一目惚れしてしまったカメラ少年(金満家の子息とやがて判明する)がそれら四人だ。付帯して李の親友の警部、李の勤め先の人間、さらには郁の往年の恋人で、離婚後、郁と仲を再燃させた会社経営者、不良少女と交友関係のある仲間たち、不良少女の母親、カメラ少年の恋人がいる。不良少女とカメラ少年、さらに警部などには役名があたえられていないが、それは組み立てられるパズルのパーツを無名性が侵食している証左ともなるだろう。
 
雑誌「カイエ・ジャポン」が正常だった時分(第二号)に、この『恐怖分子』と『クーリンチェ少年殺人事件』を抱きあわせにして長稿を書いたことがあるので、作品の詳細を掘り起こすことはしない。ストーリー上は、写真撮影やいたずら電話によって、通常は結びつかない諸階層の人物が、暴発的かつ一時的な紐帯をしいられ、それで破局が結果されるほど人間の都市生活が脆い、と理解してくれればいい。偶然の支配とさきにしるしたが、事態は「偶然未満」といったほうがいいかもしれない。「偶然未満」とは、必然の揺曳と、偶然にすらなりきれない未定性とが、合わされたまま分離できないということだ。エドワード・ヤンが肉薄しようとしていたのは、そんな「運命の感触」なのだった。
 
この運命の感触を、ヤンは人物描写に投影する。エドワード・ヤンの映画に可視限度より低い暗闇が数多く領することは知られているだろうが、「部分的な暗闇」にも彼は鋭敏なのだった。逆光構図は人物の輪郭をときにコロナ状にひからせたまま人物の内在性を闇に置き換える。あるいは可視限度ぎりぎりのロング構図が人物にたいして採用される。さらには人物の頭部をフレーム外に置く構図も頻繁に反復される。つまり人物描写を残酷な「限度」とふれあわせることにヤンの眼目が置かれている。なぜか。精神では統御できない、人間の物質性を前面化するためだろう。
 
久しぶりに再見して、見のがしていたことに気づいた。作家的なスランプに悩む妻・郁周芬が不良少女のいたずら電話を契機に夫の貞節に疑念をもち、それに拍車をかけられて旧知の編集者の男との仲を再燃させたタイミングで、夫に別れ話を切り出す。このときカメラ目線を繰り返す妻・郁の定位が奇妙なのだが、微温性の継続をもとめる夫にたいし、郁は、仕事がつらくて結婚により新たな生活の開始を試み、次には出産により新たな開始を、さらに流産後は作家生活により新たな開始を必死でもとめてきたと自分の生を総括する。最後にはいま切り出している別れもそうした開始のひとつなのだと夫に通告する。現状に安住できない妻の精神放浪があらわになって痛ましいのだが、ヤンは言外の真実を告げているのではないか。つまり、開始とは不可能なのだと。あらゆる開始はつねにすでに再開にすぎず、そこには倦怠が紛れ込むほかない――こうした哲学をヤンが披瀝しているようにおもえるのだ。むろんこれはポストモダンの文脈におさまる。
 
決定不能性はほかにもある。母親の支配から脱出した不良少女がほうほうの態で、かつての賭場(アジト)に辿りつく。不用心なことにかつて使用していた合鍵がその扉にいまだ適合する。部屋は暗闇。やがて灯りがつくと、悋気から文学好きのステディと別れたカメラ少年が、そこを暗室につくりかえて暮らしている。自分の顔がモザイク状の連鎖となって巨大に引き伸ばされている写真をみて、不良少女は気絶する。少年の看病によって、意識朦朧の少女はほとんどを眠りながら健康を恢復。起きたとき、何日経過したのかを少年に訊ねる。少年はわからないと応える。それどころか現在の時間もわからない。少女が「昼」だというと、少年は黒い紙の覆いの窓をひらく。外は薄明だから「昼ではない」のはたしかだが、ではそれが朝か夕かというと、それが決定不能のままになってしまう。暗喩的な解読ができるかもしれない。
 
この映画は結末が衝撃的だから明かせないが(それが嘔吐シーンであるとだけはいっておこう)、抽象的にいえば、物語の入れ子部分では悪夢的な進展がとまらない。すべて絶望した李立中の暴走によるものだ。その過程で彼は、ラブホテルでの盗みや、恋人との協働による美人局(ドアに貼りつけたチューインガムを目印にする)で味をしめた不良少女の「客」として、ラブホテルに赴く展開となる。このとき彼がいう。それはとりようによっては愛のことばだ。「きみに会ったような気がする」。映画がかたちづくる不安定な人物関係に注視していた観客は、彼が出勤途中のクルマのなかから、横断歩道にたどりつき気絶寸前の不良少女とすれちがったことをおもいだすだろうが、このときは人物を認知する視線など送られてはいない。李と不良少女は映画のメタレベルでこそ邂逅しているのだ。しかもそれが映画のはらむ入れ子内部中の科白だという点を勘案すれば、この愛のことばは、悪夢的発語と分離不能だとも理解されるだろう。
 
それにしても、視覚性だけでも物語の進展を効率的にしるしてしまう、無声映画作家的なヤンの才能はどうだろう。たとえばこんなくだり――
 
【骨折箇所を固めていたギプスを破砕した不良少女がはだかのうつくしい脚にジーンズを履く(頭部欠落構図)】【母親のようすを窺いながら卓上のサングラスとタバコを取る】【不良少女の娘を幽閉管理しているその母親は、暑気にあてられ、扇風機の風のなかで心地よさげに寝ている】【繁華街の路上をゆく不良少女】【いつの間にか夜となり、ものほしげにデパートのエントランスにいるサングラスの不良少女に「客」がつく(少女は男からタバコをもらうが、火付は拒む――この一事から少女はタバコ銭にも事欠き、売春が緊急避難だと知れる)】【ディスコでの(前哨戦的な)デート(80年代的なシンセドラムの鳴る軽薄なダンス音楽と『ナインハーフ』のTV画像を横目に、男をまえに気のないようすで踊る少女)】
 
【ラブホテル内、オフで浴室での男の鼻唄とシャワー音が聴こえ、少女が男の脱ぎ散らした衣服から札入れと札束を引き出すと、音声は相手のフェイクで、男が少女の挙動を監視していたとわかる】【男は着衣のままだった。ズボンからベルトをひき抜き、少女を恫喝する気配。余裕でタバコに火をつけた隙に、少女に刺されるが、殺傷動作、部位、血はみえない】【暗闇の戸外、ナイフについた血を新聞紙でぬぐう少女。そのナイフがワーキング・ジーンズの脛横のポケットにしまわれて凶器の出処が事後的に判明する】
 
【雨のなか、クルマが激しく往き来する幹線の、中央分離帯に立つ少女(またもや頭部欠落構図で開始される)】【歩道橋をのぼる少女。その見た目らしい気色で、台湾特有の丈高い街路樹が風で妖魔のようにゆれている】【深夜のバス車庫内、運転を待機中のバスに不法侵入した少女が咳と発熱に苦しんでいる(雨に打たれたのが原因。外は大雨のまま)】【朝になり、バスの運転が開始されている(後部座席にいる少女のジーンズの脚だけが部分的に見えている――運転手が気づいているのかどうかは決定不能)】【やがてかつての賭場アジトのそばを蹌踉とあるく少女が映される】
 
不良少女(劇中、「ハーフ」とされる)を演じた女優は、姿態は伸びやかで、いつも上に白をまとい、遠目には美少女の典型なのだが、微細にみれば視線がよどんでいる。そこからうかぶのは、自己保存の本能を形成できない、ぞっとさせるような無気力と魯鈍だ。だから動作個々がきらめいても、「好きにはなれない=感情移入ができない」。ところがヤンはその彼女に「流謫」の高貴をあたえる。骨折した足をひきずり、横断歩道で気絶した冒頭ちかくの彼女のすぐかたわらをクルマなどが無慈悲に通過してゆくし、いま起こした一連でも車庫のバスという絶好の居場所があたえられる。つまり「好きにはなれない」類型に、愛着が誘導されるのだ。このことが人物の感触を「決定不能」にする。
 
俳優でいえば李立中を演じた男が出色だった。その後の台湾映画でも李立中の俳優名で幾度か目にした男優だが、アジア的な無表情、陰謀の底意、存在の不吉さが、この作品のくらいタッチを最終的に決定づけている。むろん親友の同僚を踏み台に出世を画策するこの虚言癖の男(しかも彼は自分の理科系を理由に妻の書く小説に当初、興味をまったくしめさない)をもまた、観客は愛することができない。できないのに、たとえば画面にしめされた彼のさいごの姿は惻隠の念をもって、彼への愛着を誘導し、それで彼の存在の肌理も決定不能に陥ってしまう。ヤンの演出のすごさはこういう点に現れるのだった。
 
風の描写、「煙が目にしめる」の音楽使用などにみられるズリ上げ、ズリ下げの音処理など、ほんとうにヤンの才気のあふれる一作だ。
 
最後に、映画進展中、悪夢の入れ子となるパーツが、作家・郁周芬のしるした小説の具現化で、そのパーツと、その外側にしるされた描写との主従が決定不能になるというフレデリック・ジェイムソンの見解には瑕疵がある、と指摘しておこう。大袈裟で後知恵的だということ。まずカメラ少年の恋人の語る小説の梗概では郁は李に殺害されることになっているが、入れ子部分ではそうはならない。それとジェイムソンは映画の進展にしたがって観客が認知を重ねてゆく機微にも無頓着だ。つまり、小説の内容とずれる破局的悪夢が、映画の自動性として滑りだし、このことを映画じたいが不気味に自己体感している――そんなメタ的な衝撃こそを観客が味わわされるととらえたほうが良いだろう。
 
なお、『恐怖分子』上映中の午前には、ヤンの処女短篇「指望」をふくむ台湾ニューウェイヴの金字塔オムニバス『光陰的故事』も上映される。これも滅多にスクリーンで観られない作品で、ぼくじしん、NHK教育でOAされたものしか観ていない。ヤンのパートは、少年のかなしみがロボット的な動作へと転化する傑作だ。むろんヤン自身の幼年期の台北の空気を見事につたえている。
 
 

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2015年03月12日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

『光陰的故事』の第4話は李立中さんが主演してますね。

2015年03月17日 チバ URL 編集

ああ、そうでしたか。忘れていました

2015年03月17日 阿部嘉昭 URL 編集












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