換喩概念の拡張
数日前、ぼくがここ(FB)に書いた「減喩」についての文章のコメント欄で、萩原健次郎さん、一色真理さんおふたりの畏怖する先達から、神山睦美さんの卓見にもふれつつ、ぼくの『換喩詩学』での換喩の概念拡張につき、質問が出て、それにたいするコメントをしたためました。読み返すと、コメント欄という目立たない場所に埋もれているのが惜しい文章という気がして、あらためて下にそれをペーストしておきます(すでにお読みになっているかもしれないけど)。
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萩原さん、一色さんへ
換喩は認知言語学の本では、「鍋が煮えている」などを例文に、対象の空間的なズレをはらむ一種の換言として規定されています。ただしそうした喩法としてのみとらえるなら、詩作とあまり有効な接続ができない。まずぼくがかんがえたのは、文はどんな原理でつながってゆくかということでした。たとえば言語学上の重要な概念のひとつに、「これ」「それ」「あれ」、あるいは代名詞(「かれ」など)のつくりだすシフターという機能があります。これは承前をうんで、文の連続に了解の厚みをおびさせる。このシフターがないと、文はすべて新規化の連続とならざるをえない。
認知言語学はもともと、場の共有によってその場の当事者にどのような了解がうまれているかの分析でもあるのですが、「鍋が煮えている」もまた了解の産物です。この了解があいまいな空間把握を許容している。それどころか空間の連続性そのものの原理ともなっている。強弁するならズレこそが厳密性にたいする救抜ではないか。峻厳化ではなく、空間の緩和。それで換喩を再考したのです。隣接性や部分性によって、自体性や全体性が置き換えられるならば、そのことだけを保証に文を連続させうる。となると、換喩とはひろがりの了解に向けて把握をくりだしてゆく発想そのものの原理ともなるのではないか。ここで換喩と、吉本隆明のいう「自己表出」とが、相似をえがくことになります。
もともとぼくも、暗喩の付帯させる空間的な膠着にたいし、自由に詩が進展できる原理を、「実作者として」模索していました。とりわけ、時枝言語学にいう「辞」の極小なままに照応だけが過剰機能している塚本邦雄の短歌と、アララギ的な「辞」の見事な使用により、空間がうるむようにひろがっている70年代の岡井隆の短歌とのちがいをかんがえて、暗喩vs換喩という対立をもちだしました。岡井隆の短歌は塚本とは異なって暗喩では括れず、しかもそこにやがて日録というかんがえまではいりこんでくる。これも人生という長い全体のなかでの、部分の裸出なのではないか。SNSが隆盛な現状なども勘案すると、実際に創作をうごかしている動機は換喩的なものだとそれでとりあえずは括ってみたのです。ただしぼくのやったことは、事象にたいする喩法の適用ではありません。「自由に書く」処方をしめすために、拡張概念的に換喩へ寄り添ったにすぎない。
詩作の自由をことあげするためには、ほんとうはその芯に存在するだろう倫理について言及する必要があります。ところが倫理を恫喝的に語る愚だけは避けなければならない。というのも、恫喝じたいが反倫理的なのですから。現在の男性の詩論の一部にいまだみられるこの傾向から、神山さんは見事に自由です。たとえば神山さんの中心概念のひとつ、「共苦」。文の連続において「すでにすぎていった」部分は、刻々と死にますが、その死にたいしあらたに書かれる部分が共苦し、この接合により、文を連続させることもできる。神山さんは博覧強記のひとですが、その発想力は換喩的で、ただしその換喩性には「共苦」が作動している。だからその倫理性も閉塞的にはならないのです。神山さんがよく引かれるベンヤミンの《ただ希望なき人々のためにのみ、希望はぼくらにあたえられている》も、換喩的なズレと、共苦の融合した、最適な文例ですね。ところがこのズレは、じっさいは倫理にたいして作動する。
写真はもともと換喩的だとロラン・バルトはくりかえしています。バルトがもんだいにしているのは、写真とくゆうの「うすさ」でしょう。どんなに全体をつかもうとしても、そこには「部分」だけしか写らない。ところがバルトはその限定こそに愛着する。撮りためた写真もまた間隙をはらみつつ「間隙を連続させる」。
映画の編集はさらに別次元の連続です。構図的全体と選択的部分を自由に往還する映画の編集は、文字どおり「空間の編みこみ」を実現させる。このことじたいに、じっさい観客は救抜されている。映画の編集(つなぎ)の多くは身体を基軸にして換喩的なズレを作動させますが、じつは映画で機能性を離れた効果を発揮するのは暗喩的なつなぎのほうだったりする。ブニュエル『アンダルシアの犬』冒頭の、「月と横雲」「女の眼球と剃刀」の連関などがそれにあたります。この次元では換喩と暗喩の峻別があまり意味をもてなくなる。むろん暗喩的なつなぎだけで一本の映画を発想するのは異常事です。換喩が機能性を信頼しつつ自己展覧をみちびく処方なのは、詩においても映画においてもおなじだとおもいます。
つらつら書きましたが、換喩をフィーチャーする利点は、このようなことにあるとかんがえています。もちろんこれは『換喩詩学』での展開を、「その後も」発展させてのものです。