松永大司・トイレのピエタ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

松永大司・トイレのピエタのページです。

松永大司・トイレのピエタ

 
 
【松永大司監督『トイレのピエタ』】
 
 
昨日試写で観た、松永大司監督『トイレのピエタ』がすごく良かった。将来を嘱望された画学生が、美大卒業後、なぜか生きる意欲を失ってビルの窓拭きのアルバイト仕事に甘んじている。すべてが失われたままでいるこの20代の男はさらに余命三か月のスキルス胃癌とさえ診断される。死ぬまでになにをなしうるかにかかわっては、彼と偶然に出会った女子高生が影響をあたえる。けれども鮮烈な生命力をもつその彼女もまた、実際はふかい絶望のなかにいる――。
 
こう書くと、作品が難病物のジャンルに収まらないのは自明だろうが、かといって死の決定した人間がどう幸福な余命を全うするかといったホスピス物でもない(往年この分野には滝田洋二郎監督『病は気から・病院に行こう2』という傑作があった)。この映画は有限性をもつ者が他者のためになにをなしうるかを、真正面から扱っている。といって、黒澤明の『生きる』にも似ない。ひとつは主人公・野田洋次郎と女子高生・杉咲花がどう出会い、その交情が進展するかで「蓋然性」が徹底的に配慮されているためだ。
 
しかも死にざまをみせるという、ひとのなしうる直截なメッセージが、一種の消極性のなかに出現することで、作品のもつ倫理性にも微妙さがくわわる。端的にいうと、この作品ではダイイング・メッセージは「とどくかとどかないかわからない」一過性の閉所にのみしるされる。主人公の死の瞬間は描出されない。となって、杉咲花に、主人公のメッセージの場に立ち会わせる、スケベでノンシャランでいい加減な(しかも彼もまた絶望者だ)リリー・フランキーが、その伝達者の媒介性をもって天使にみえてくる逆転まで用意される。気づくと、この作品には媒介者が数多くいる。というか、すべての登場人物は、主人公もふくめこの作品では媒介者だという見解すら成り立つのだ。寓喩的な映画の傑作を、ひさしぶりに観た気がする。
 
ともあれピエタ(降架と母子哀傷)、天上画、それと主人公・野田洋次郎の、襤褸を着たイエスとの風貌の似通いにより、作品は聖性イメージを、たくらみのない画調のなかにつぎつぎと放出してくる。ところがそういった具体性以上に、宮沢りえまでくわえた「絶望者」のベン図的な集合、その最大重複の中央部分に抽象的な白光をおぼえるのが、作品の「聖画性」だという事後的な結論(判断)まで生じるのだった。ひとつの絶望はそれじたいだが、それが最大限に混ざれば希望に転化する。
 
作品名は明かさないが、その前に試写で観ていたのは満艦飾のギミックに彩られた「盛りすぎ」の作品だった(偶然そこでもイエスの寓意があった)。それに較べ、『トイレのピエタ』は高層ビルでの窓拭き作業にともなう屋上の描写から端的に開始される。道具立ては、ビル屋上の殺風景な詳細、ひとの配置、さらには空しかない。ところがひとの配置と作業場所が変化することで、映画がこれまであまり具体的に描こうとしなかったビルの窓拭き作業の手順が如実につたわってくるのだった。
 
この窓拭き作業に従事するすがたを、ビル内の画廊にいた主人公の元恋人が偶然に認める。窓がひらかれる。そこで「絵は描いていないのか」という問いが主人公へ発せられ、付帯的に主人公の属性がさだまってゆく。自然な経緯によって物語が作動しだすこうした感触は、監督・松永がみずから脚本を書き、俳優群をいかに自然化させるかに腐心した作業蓄積をも間接的につたえるだろう。
 
松永監督の才能は、「うごくもの」への注視により決定されたといっていい。胃癌で余命を明白に限定される主人公・園田=野田洋次郎の画学生時代、画帳やキャンバスにうごく彼の手は、回想シーンという間接性のなかでとりあえずつたえられる。
 
モデルを配した裸婦像の教室内デッサンで野田の画布にえがかれるのは、裸婦自身とともに、それをデッサンする、自分にとって離れた対面位置の画学生さつき(市川紗椰)だった。ひとつの主題が浮上している。絵画にとっての対象選択が本来は決定不能で、描かれる絵はズレを刻印せざるをえない、というものだ。
 
このシーンがあるから、園田とさつきの相愛成立がとつぜんしめされても説得力が生ずる。性愛行為の翌朝。園田=野田はベッドにまだ眠ったままの恋人さつき=市川の裸身をデッサンしている。やがてさつきが目覚める。さつきは裸身を描かれる恥じらいとともに、ふたたびの性愛を所望するのか「(デッサンを中断して)こっちへ来て」と懇願し、それを拒む園田に一種の悋気をしめす。裸身をシーツで覆い、「絵と私と、どっちが大事なの」という凡庸な問いまで発してしまう。
 
絵画の対象が心情をもち、その存在性が「移る」とき、絵画は瞬間を描くべきなのか移行を描くべきなのか。本来ならフランシス・ベーコンのように「移行の瞬間」もしくは「瞬間の移行」、あるいは「瞬間のなかの移行」を描くことで、肉の反転や溶出までもが把握できるはずなのだが、この時点での園田=野田はそうかんがえない。ただし観客は絵画が必須化する過程=つまり「描写」にたいし、野田が深甚な意気阻喪をおぼえた気配を間接的に察するだろう。いずれにせよ、作品は「画学生」にたいする「禁則」をちりばめ、それはこの後も作劇に点在してゆく。
 
画布にみずからの身体運動の痕跡を加算的にのこす絵画創作の営為にたいし、根源的な疑念をかかえてしまったこの主人公はなんの暗喩なのか。潜勢力と虚無の重複、その暗喩だろう。さらに描写がすべて自動性と自明性に支配されるべきだと彼が考えたのなら、じつはそれを実現しているのは、この主人公の存在しているこの映画自体のほうなのだ。すると彼は多くの芸術家映画(たとえばリヴェット『美しき諍い女』やエリセ『マルメロの陽光』など)の立脚とは正反対に、自分の存在する映画のなかで敗北者のおもかげをたたえていることにもなる。
 
観客はすぐに気づく。じつは窓拭きはローラーによる洗剤の塗布と、布による乾拭きが基本だが、それはそのまま画筆を画布に展開してゆくうごきと相同で、しかも結果が、定着と消去というふうに真逆なのだと。「拭く」「浄める」という動作で、絵画の実ではなく、窓のかがやきにむけて虚をえがくということ。そうなると窓拭き洗剤とはイエスを浄めたマグダラのマリアの香油とかようものなのではないか。余命告知され、即入院となった園田=野田洋次郎が、病院を脱出、深夜の商店街の、商店のガラス窓を、ローラーと布で「無償に」浄める痛々しいくだりがある(「商店」と「昇天」の同音)。園田はいったん帰った実家の窓をも浄める。彼はなにも有形をのこしていないが、画筆をうごかすような動作だけは継続させているのだった。
 
なんでもない動作に象徴性を付与すること。たとえば手のうごきに、虚実の双対性をおびさせること。窓拭きに終始する手のうごきによって、絵をえがく手のうごきが作品のクライマックスまで封印される。けれどもこうした「出し入れ」なら、作劇の計測から配剤できる。もんだいは、この水準の離反性におさまらない、「自明性」「自動性」による全身のうごきが作品内の別系統として展開されつづける点なのだった。これを受けもつのが、躍動感と絶望を「ともに負う」女子高生「真衣」杉咲花だった。
 
以下は俳優名で書く。とつぜん倒れた野田洋次郎の診断告知の際、野田は肉親の同伴を条件づけられる。ところが実際の肉親を呼ぶのが億劫な野田は、肉親の代役をかんがえる。それで元恋人・市川紗椰に頼み込んだ(野田は市川の個展にさそわれて一時期の連絡断絶を解いていた)。ところが医師によばれるまえに、市川と野田は待合室で口論となり、姉としていつわるはずの市川が病院を立ち去ってしまう。
 
このときサラリーマンと声をはりあげて口論を演じている女子高生・杉咲(彼女は制服が破れた代償金をサラリーマンにもとめている)を利用しようと思い立つ。杉咲にかかわる悶着を金銭で切り上げ(しかし要求の一万円にたいし千円が払われようとしたたけだ)、ともあれ杉咲はその見返りに急ごしらえの野田の「妹」となった。そうしてはいった診察室で、「杉咲とともに」野田は、医師・古舘寛治から余命三か月を告げられる。死の急迫。これがうごかしえない事実だとして、その事実に直面させられたのは、野田とともに杉咲だというこの作劇条件が見事だ。つまり野田と杉咲は相互にたいしての媒介者なのだった。
 
一過性の出会いだったはずのこのふたりに再会がおとずれるとき、計測されているのが、「これならば再会がありうる」という蓋然性だ。経緯を簡単に説明しよう。癌病棟には小児癌の児童たちもいる。彼らは注射の綿密な形態模写にたがいに興じるなど、振舞は無邪気だ。死の急迫をうまく了解できないでいる野田は、頭髪を抗癌剤投与で失っている子供たちの場違いなあかるさに馴染めない。ところが子供たちは野田になぜか一目を置く。うちのひとりが伝達者=媒介者のおももちで、病床の野田へ「宝物」をはこんでくる。ひとつは戦隊物のイラスト。もうひとつはショートケーキ。ところが渡し終わって子供が帰ったあと、野田は絵=イラストと絵以外=ケーキをひとまとめにして、病床脇のゴミ箱に廃棄してしまう。
 
ところが子供が「わたすべきイラストを間違えた」と部屋にもどってくる。ゴミ箱から拾いあげたことを子供に気づかれないようにしながら一旦もらったイラスト画をさしだすと、生クリームで汚れている。野田は微妙な言い訳をする。「ケーキで汚しちゃったから…」(だからゴミ箱にイラストを棄てた)と口ごもると、子供は微妙な言い回しで、野田の「罪」を救う。「相手先をまちがえたイラストを渡し」「しかもそれをケーキと一緒にあげた」ぼくがわるかったと。この救済の微妙さに野田はたぶん打たれた。むろん子供の無償性も浮上している。
 
子供への謝罪を行為としてしめそうにも、野田は病室を出られない。それで杉咲が再利用される(杉咲は取りそびれた制服弁償代を野田に払わせようと、ケータイ番号の交換をしていた)。杉咲が買わされたのは画帳と、その戦隊物のキャラクターデザイン集。杉咲は野田からの妙な依頼に不満を隠さないが、このときの再会がきっかけで、野田を「生の力」で挑発するようになる。エロスの誇示、罵倒しつつも野田を励起させようとする複雑な態度。しかも彼女の家庭では祖母が認知症をわずらい、母親が家事放棄をし、学校でも友達ができず浮いている惨状がかたられる。
 
野田が子供への謝罪をどうしめしたかをしるしておこう。彼はキャラクターデザイン集をそのままわたすのではなく、それに躍動感を加えて画帳に次々に創造的に転記、その完成物を渡して子供の歓心を買ったのだった(ところが画筆のはこびの描写は、回想シーン以外はクライマックスまで絵画行為をとらえないこの映画の法則のなかで、割愛されている)。子供の母親宮沢りえが野田の画力に驚嘆する。以後、宮沢も野田の精神に何事かをくわえる媒介者になろうとした。それで子供とともに野田をキリスト教会に連れてゆく。そこでピエタの彫刻があらわれる。
 
宮沢と野田との結末をしるしておくと、その宮沢の子は亡くなる。それで宮沢は野田からみた自分の子(の記憶)を絵に描いてほしいと所望する。このときも野田は「無理です」と拒み、本格的な絵画創作の再開にはいたらない。
 
野田にダイイング・メッセージとしての絵画創作をみちびいたのは杉咲花だった。それも「結果的にのみ」しるされ、ことばで説明されることがない。非礼ともいえる挑発的な言辞を、しかも怒鳴り声をまくしたてて全身でぶつけてくる杉咲は、その圧倒性を欠落が裏打ちしているとは一目でわかる。けれども作品は、情緒的にそれを当事者どうしに語らせる愚もおかさない。杉咲のしめす身体的なうごきのみによって、野田がゆるやかに表現をうながされる経緯を積み重ねてゆくのだ。このとき強調されるのが、「自転車を漕ぐ」「学校のプールで泳ぐ」、このふたつのうごきだった。
 
気づくとこれらのうごきには、「自明性」と「自動性」の双方が刻印されている。これらは三浦哲哉が『映画とは何か』で、アンドレ・バザンの再把握にもちいた鍵語だが、この映画ではそれが杉咲に適用されているのだ。「背の低い子にキスする時はどうするの」など、もともと杉咲はみずからの身体を「素材に」、ロリータ・コンプレックスがあると見込んだ野田を挑発していた。この段階では野田の消極性、無気力、無視をきめこんだ対応が画面に不思議な倫理性を刻印していた。ところが杉咲の「暴走」はとまらない。
 
白眉のくだりはふたつある。絶望と無精に染まった野田を、杉咲は熱帯魚店につれだし、野田が保証した制服弁償代金をまきあげて、その全額で野田が「これがいちばん好き」と語った何の変哲もない金魚を大量買いする。それを学校のプールに放ち、スカートの下につけているものだけ脱いで自らも着衣のままプールにはいり、「金魚とともに」泳ぐ。「死の急迫」を「ともにしめされた」杉咲は、「金魚の生のうごきとともに」水を回遊する恰好で、画面はよろこびに躍動する。むろんスカートのなかにあるものが泳ぎ「とともに」露見する気配をも、泳ぎのなかで野田に挑発している。
 
ただしこのときの映像のながれで注意されるべきなのは、記録映画の編集のようにカットが連接されていて、その連接法則にこそ、「自明性」「自動性」が揺曳しているという点だろう。それこそが余命を限定された野田の絵画創作が目指すもののはずだ。いわば野田はアンドレ・バザンに真に伏在する圏域に導かれて、芸術映画の主人公としての賦活に向かっているのだった。二元性を破壊された絵画/映画の双対性。結果、ラストまでゆるやかにこの作品は、『美しき諍い女』や『マルメロの陽光』の境地へ巡礼することになる。
 
映画がうごきのままに絵画になること。さらなる端的な例は、プールに金魚を放ったことが露見した杉咲を、ひとりの男子水泳部員が海パンだけの姿で追いかけるくだりだろう。町なかにはいってもふたりは自転車でデッドヒートを演じていて、それを教会から帰る途中の、宮沢りえ、その子供、野田が車窓にみることになる。懸命さが可笑しい名シーンなのだが、子供も笑う。このあとに子供の死がしめされるのだから、それは子供が眼にやきつけた外界の最後の光景だったはずだ。視覚が恩寵となること、しかもそれが人界のバカらしさを漂わせていること――これらの「意義」はふかい。この作品ではすべての登場人物が「媒介者」だとしるしたが、視覚もまたこの世の媒介物だという端的な真実がふかいレベルで語られていたのだ。
 
隠されている主題が「共苦」だろう。キスを挑発していた杉咲だが、実際に野田と杉咲のあいだにキスが交わされたとき、杉咲はなんといったのだったか。初キスを捧げたのだから、勝手に、なんの対抗策もなく死ぬのは許せない――そういったとして、それは「すべての営為は共苦の共同性へこそ接続される」という形而上学にまで換言できる。だからここでのキスは神学的なものかもしれない。たとえばイエスにくちづけたユダのそれのように。
 
具体的にはしるさないが、こうした共苦の昇華(昇天)として、この作品の圧倒的なクライマックスがある。そこでは画筆が躍動しまくる。しかも、「この世の最奥」といった場所で。その場所に、杉咲が赴けるかどうかは野田のあずかり知るところではない。ところが「その地へのおもむき」を、前言したようにリリー・フランキーが「媒介」した。媒介や隣接性を信ずることはそのままに信仰や祈りだとおもう。そうした心情は描かれないが、死ぬ直前の野田に確実にあったはずだ。もうひとつ付け加えるべきなのは、この作品のリリー・フランキーは、これまでの彼の出演作のなかでも最高の部類に入る、ということだ。
 
主人公・園田役の野田洋次郎は俳優ではない。画家でもない。ミュージシャンだ。ロックバンドRADWIMPSのヴォーカル&ギター&コンポーザーで、演技者としてではなく存在者として画面に空気と最終的な力動をあたえている。いわばブレッソン的な「モデル」使用なのだった。この起用にも「自明性」「自動性」が息づいているのは、いうまでもない。
 
六月六日よりロードショー公開。
 
 

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2015年03月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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