クリント・イーストウッド、アメリカン・スナイパー
【クリント・イーストウッド監督『アメリカン・スナイパー』】
撮影時に84歳だったはずのクリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』は、またもやイーストウッド映画特有の「奇蹟」にいろどられていた。「9.11」同時多発テロを契機に、イラク攻撃を開始したアメリカの偽りの大義。そんなイラクの戦場を舞台に、ネイビー・シールズ史上最多、160人の狙撃殺害記録を打ちたてた「伝説」のスナイパー、クリス・カイルを主人公に、一種の伝記映画をもくろんだのだから、この映画が戦争賛美、イラク攻撃の正当性誇示、ムスリム蔑視などを内包した反動作品だと非難を浴びるのも容易に理解される。むろんそうした批判は映画とはなにかに想像が及ばない短絡にすぎない。
まず確認しておこう。イーストウッドの「位置」は変わらない。保守反動、南部的迷妄につらぬかれた男に照準をあて、「アメリカ人たること」の詳細を描出する。とりわけ『許されざる者』以来うかんでくるのは、いつでも「悔恨」だ。このイーストウッド的な「位置」を理解するのに有効なのが、たとえばランディ・ニューマンの佳曲「セイル・アウェイ」だろう。
ポップソングの王道をゆくドリーミーな楽曲と聴こえるこのシンガーソングライターの歌には仕掛けがある。アメリカにはなんでもある、そこは楽園だ、われわれはそこを目指すために大海を渡るのだと使嗾するこの曲は、シチュエーションをかんがえた途端に、暗然とした悔恨をはらむことになる。それは奴隷船を舞台に、奴隷商人が奴隷に語る=騙る擬似ロマンスを唄っているのだ。結果、「悔恨」はアメリカ人の身体を具体化しながら、内在的に炎上する。イーストウッド映画にあるのも、終始この機微なのだった。
この映画では敵でも味方でも、戦争(の武器)暴力による腕・脚の身体欠損が頻出する。腕などが途中で欠損しているイラク人にたいし、アメリカでは退役軍人たちの義手・義足の描写が連続する。欠損に精緻な人工物が連接すること、これはなにか。たぶんイーストウッドの視野では、それが「物語」なのだ。
冒頭、反米ムスリム勢力が不気味に点在伏在する、戦火でぼろぼろになったイラクの街に、海兵隊が進軍してくる。その援護をネイビー・シールズがうけもつ。ビル屋上の高所に、銃座を設営するクリス・カイルとその戦友。やがて建物から母子が出てくる。ふつうの人間は、子ども、さらにはその子どもとともにいる母親を撃てない。ところが母親が対戦車手榴弾を子どもに手渡すのをクリスの眼が照準器ごしにとらえる。撃てるのか撃てないのか――この葛藤のさなかに、クリスの前史・形成史を展覧させようと、映画はおおきなフラッシュ・バックをこころみる。
えがかれてゆく「物語」はシンプルで、その理解の容易さがほとんど人工的と映る。テキサス出身のクリスが、父親から狩猟の手ほどきを受ける。ひ弱な弟をいじめた相手にたいし、兄クリスがおこなった容赦のない報復を、父親が男の勲章とたたえる。カウボーイにあこがれるクリスがロデオ会場で暴れ馬への優秀な馬術を披露する(ここに一瞬、往年の『ブロンコ・ビリー』の影がはしる)。クリスの恋人の浮気。クリスのあらたな得恋。その相手が「9.11」での災厄映像に衝撃と悲嘆の声をあげ、「短絡的に」クリスは海兵隊に志願、やがて新兵訓練(ここでは『ハートブレイク・リッジ』の影がはしる)のなか、狙撃の腕前で、ネイビー・シールズの一員に抜擢される。
クリスの自己形成は如上嘘のように円滑にすすむが、それこそが「欠損」への義手義足=人工物との連接と等価なのだ。そこでは喪失の瞬間の痛みが不在の中心にただよっている。やがてクリスの狙撃銃を構える訓練中の動作が、そのおなじ動作つなぎで、ムスリムの母子へ銃を構える瞬間へと編成しなおされ、時制が冒頭へと復帰する。映画が手放すことのできない「信憑」にシニカルな貶価まであたえられる、この「物語じたいの呼吸」を見逃すわけにはゆかない。
最初の回想シーンで、注意喚起したいちいさなディテールがある。ロデオ会場から弟と帰宅する車中で、その車窓のながめがほぼ暗闇をかたどっているのだが、そこにうっすら、クルマと併走する「ありえない」黒馬の影がかたどられるのだ。回想シーンにおける物語進展の平叙性とは次元のことなる、いわばメタレベルから侵入してくる「ほんとうの実在」の影。おそらくはCGによるこの「無駄な画面付加」で、この映画の次元のたかさを確信してしまった。
回想シーンのもつ多義性は平叙さのなかにあって素晴らしい。たとえばクリスの弟へのいじめの挿話では、父親が人間=アメリカ人を三種類に分別する。「羊」「狼」「番犬」だ。自己への攻撃に無策な羊は単純な敗者、攻撃願望のみにとらわれた狼も倫理的な指弾をうける。すなわち理性をつうじて羊をまもる番犬にしか存在価値がない――そう語るクリスの父親は、じつは短絡的な世界観の持ち主にすぎない。敵が出現しなければ遊牧地にあって番犬が、草を食み遊動する羊たちよりも無為におちいることが見逃されているのだ。この「番犬の無為」も、この映画の間隙を埋める基調音となっている。
新兵訓練でクリスの狙撃の腕前がみとめられるくだりも映画的だった。クリスは静止的な的を外す。訓練官が揶揄する。ところが気配をクリスはいい、べつの射撃をおこなう。するとガラガラ蛇が被弾して蛇身をひくい空中にひるがえす。幼年期からの狩猟の腕前に自負のあったクリスの言――「(生きていて)うごく的は外さない」。昆虫の動体視力のようだ。これには逆元がとれる。「照準器にとらえられても、その的が生気を帯びず、不動ならば撃てない」と。すなわち神性を把持するものをクリスは撃てない。
当面のムスリム母子ならどうだったか。母親が子どもに対戦車手榴弾を衣服の影から手渡す。子どもがそのまま走り出す。クリスは撃った。斃れた子どもから母親が手榴弾をさらに引き取り、戦車にむかって走りだす。投擲する。しかしその瞬間をクリスは撃った。投擲は逸れ、戦車の手前で手榴弾が爆発、米軍に被害は及ばなかった。この一事から、クリスの「伝説」が開始される。「うごくもの」を撃つことは、子どもを撃つという禁忌をも超える――これが作品の仕掛けた鉄則だった。
回想での新兵訓練のくだりでは、スナイパーの発弾にたいし、指導官からの「呼吸」の示唆もある。これもなおざりにできない。いわれていたのはたぶんこんなことだった。息を吸い、息を吐く――その中間に一切が静止的になる緩衝地帯=時間がある。このときにこそ、対象の不定のままのうごきがみえ、それが狙撃可能となる。絶対的な外部をしずかに確保することが、対象の内部に純銃弾を撃ちこむ条件となるのだ。よって狙撃手は狙撃に成功すればするほど外部化すると理解されてゆくだろう。むろんこれは「映画」そのものの立脚とかかわる。どういうことか。
現在のアメリカ映画では、とくにそれがVFXギミック満載、しかもショット単位がモーションコントロールで液状化していると、ショットの記憶が不可能になる。ショット転換も速い。アメリカ映画の大作はすべてそんな表情をしている。むろん日本映画のあらかたに較べ、イーストウッド映画のショット単位も経済的に高価だが、ショットの液状化を論理的にゆるさない映画ジャンルがあると知っている。筆頭が敵・味方を、距離の空間化によって描かざるをえない「戦争映画」なのだった。
イーストウッドが『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の二部作で戦争映画をあつかったのは、たぶん正統アメリカ映画のもつ空間感覚の護持意識によるものだろう(この点では向かい合う家屋を見事に空間化した非戦争映画『グラン・トリノ』も閑却できない)。むろん戦争映画でもショットの単位性に濃淡がある。それが液状化に向けて頽廃の気配を湛えていたのがテレンス・マリック『シン・レッド・ライン』だとすれば、空間化そのものを眼中に置きつづけたのがサミュエル・フラー『最前線物語』だったといえるだろう。イーストウッドの範例はむろんフラーにあるだろうが(その傾向は硫黄島二部作からこの『アメリカン・スナイパー』にむけてさらに強化された)、さきの車窓からみえた黒馬の影にあきらかなように、戦争映画における不可視性についての哲学的な配慮もおこなわれている。これはのちにしるすことにしよう。
大体において、殺人鬼ではなく、機能的な殺人者をとらえる作品は哲学化する。三島由紀夫の短篇「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的な日記の抜萃」がどんなに耽美的な文章を誇っても哲学的なのはその結構による。殺人は、対象認識と対象否定の「回転」だが、結果、殺人を作動させた自身の「位置」の抽象性への考察を必然的にみちびく。そこにスナイパー映画の系譜が加わる。娯楽作にすぎないような堀川弘通『狙撃』でも、それをさらにバロック化させた大和屋竺の一連の殺し屋映画でも、哲学化は必須なのだった。ところがそこに、照準器内映像という、独特の映画的蠱惑がさらに加味されることになる。
狙撃名手の条件は簡単に定義できる。対象が感知できない遠点から、対象の死を作用させる、疎隔性の踏破がそれだ。最も不作為に似たものを作為可能にするのは、むろん銃の攻撃力と、眼を中心にした狙撃者の身体統御力だが、これを『アメリカン・スナイパー』は「呼吸」と規定している。これが可能なのが神性だとすれば、スナイパーは神のように呼吸する、脱身体的な存在にまで昇華せざるをえない。実際の殺しの数ではなく、この呼吸の質により、160人を撃ち殺したスナイパーがPTSDに陥るのではないか。
イーストウッド『アメリカン・スナイパー』でびっくりするのは、84歳の老齢者が演出したとはおもえないほどの「呼吸」の一貫性なのだった。イーストウッドはたぶん主人公、クリス・カイルの呼吸をそのまま生きたのだ。通常なら、老齢者の呼吸は乱れるか弛緩する。あるいは巧者ならば緩急の区別を誇示するだろう。ところが戦地と内地を往還する設定であっても、この作品の呼吸は若々しい「一気呵成」なのだった。一気呵成なのに、上述したように「しずかで神的な呼吸」がその奥底をながれている。こういう微妙な感触を映画で受けるのは稀なことだろう。ここにこそイーストウッドの「技術」がある。
むろん照準器内映像であれなんであれ、「視ること」に自然にともなう視覚性は、「世界が分泌する」「世界の属性」にほかならない。スナイパーにあたえられるのは、ほぼ水平方向の世界視線だ。この視覚をもたされると、スナイパーは、たとえば息子を生み、娘を生み、夫の身体と人格の変貌を案じる「眼前の」妻タヤの親和的な存在感を了解できなくなる。従軍から解かれて第一に帰宅するはずのクリス・カイルが、近隣のバーで酒をあおり、「すぐに帰宅できない」ようすを『アメリカン・スナイパー』がとらえたのは秀逸だった。
クリスの日常生活への視覚変貌はホームパーティで愛犬が子どもを襲う幻覚、あるいは病院にいる生まれたばかりの自分の娘を看護師がネグレクトしているととらえる幻覚のくだりに、やや明示的にあらわれるものの、視覚のゆがみなどをエフェクター処理でしめす愚をおかさない。クリス自身のアメリカ生活での視覚は、観客にとっての不可視性の域に置かれつづける。けれどもそれは「視えないからこそ」「視える」逆説をも発散しているのだった。
クリス・カイルは四回、イラクにネイビー・シールズのスナイパーとして赴き、四回帰国する。だから作劇の構造は平坦な往還にすぎない。むろん間近の戦友が敵の銃弾を受けてもクリスが強運に守られている点、スナイパーとしてのみならずクリスが探索兵として敵地に仲間と浸入するようすもとらえられる。勇敢にして平静(それは彼の家庭生活の基本ともなる)。
やがて作品は、狙撃手映画の定番をとうぜんに用意する。クリスと同型の、異様に狙撃能力のたかい敵のスナイパー(往年はオリンピック出場選手だった)の存在が徐々にフィーチャーされ、いわばその鏡面対峙のなかでクリスの「自己」が哲学的に問われることになるのだった。狙撃手は同型のものを媒介にしてしか存在規定がなされない。
第四回目の従軍、そのクライマックス――敵の勢力範囲のなかに、仲間を殺された海軍は、理性を逸したとばかりに侵入する。火中の栗となる恰好だ。クリスはビル屋上の高所に銃座を確保する。すると遠点から敵のスナイパーの銃撃をうけはじめる。そのことで敵スナイパーの「位置」を確認したクリスは、照準器をつうじて狙う方向に眼をこらす。無限遠点めいてとおいビルの屋上、干してある洗濯物の影にクリスは「うごく気配」をとらえる。「うごく」かぎり、その圧倒的な能力をほこる敵は「神ではなかった」。いっぽう無限遠点というべき位置から敵への作用力を確信したクリスは、逆に神そのものへと漸近している。
そこで狙撃をおこなうと自分たちの「位置」が、地上を支配している敵勢力全体に知れ渡ることとなり、一気に窮地に陥る。しかしこれは敵スナイパーを撃てる千載一遇の機会なのだ。躊躇を克服してクリスの放った銃弾は、『マトリックス』の銃弾処理の先祖がえりのように、シンプルな軌道をしめしつづけた。まるで渡辺謙作の殺し屋映画『ラブドガン』のように。
これからこの傑作を観るひとのために、敵スナイパーが被弾したか否かの帰趨はしるさない。ただ抽象的に、「鏡は割れた」とのみしるしておこう。その瞬間に鏡面破砕の結果のように気象が変わる。狙撃にまつわる視覚性の基準そのものが倒壊したのだ。砂嵐の到来により、あたりが大砂塵につつまれ、一切が不可視性に支配されてゆく。この不可視性のなか、本作で最もスリリングな脱出劇がえがかれる。みえないことが、ショットの存在論を凌駕してしまう転倒。つまり、『アメリカン・スナイパー』のすごさとは逆説性のすごさだったのだ。こうした作品の立脚を、おそらくショットの存在論などをかんがえたことのないマイケル・ムーアが、正義漢づらして非難したのだった。
作品の不可視性は、むろん「アメリカン・スナイパー」の心身の奥底を襲うPTSDの進行にきわまる。それは前述したように徴候的に現れるが、照準器で幾度も定位された世界の明視性のようにはしめされることがない。照準器内に世界の配剤と構図とショット喚起性があるのとは逆に、イーストウッドの世界観ではPTSDはしずかでひそかな脱明視性にさらされなければならないということなのだ。そして史実どおり、退官後の「伝説」クリス・カイルの実際の死も、テロップ一行の文字、つまり不可視性の域にのみ書きつけられる。この「呼吸」がすばらしい。
ちなみにいうと、「伝説のひと」クリスは、チャップマンに殺されたレノンのように、ボランティアで参加していた退役軍人会の「より明瞭な」PTSD罹患者に、理不尽に(あるいは因果応報的に)殺害されたのだった。何気ない日常だが、それが今生のわかれとなる妻タヤからとらえられた夫クリスのすがたが、可視性/不可視性の葛藤のなかにサスペンスフルにふるえていた点を、最後に付記しておこう。
三月十八日、丸の内ルーブルにて鑑賞。