北野武・龍三と七人の子分たち
【北野武監督・脚本・編集『龍三と七人の子分たち』】
北野武監督の新作『龍三と七人の子分たち』は見事な混色の交錯する、上質なコメディだった。コメディのポリフォニー的な雑多性というのは、もちろんヴァイオレンス提示の呼吸に長けた北野武監督の、もうひとつの厳然たる個性だが、これまでの『みんな~やってるか!』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』では夾雑物としての畸想が猖獗をきわめ、作品ぜんたいをとらえがたい不条理の運動体にしてしまうきらいがあった。部分がギャグ単位として存在していても、加算できないその全体が作家的な不機嫌を印象させたということだ。
今回の『龍三』(以下、作品名をこのように略記することがある)では混雑そのものが正作動し、作品細部に有機的に浸透、作品が「生物」の表情をたもちつづける。ある種の付帯効果まで発揮される。それが親鸞のいう「還相〔げんそう〕」の、叡智とやさしみだろう。
元ヤクザ、いまは規格はずれ、厄介で、ひたすら脱力をおぼえさせる老残たちの、風合いの壊れといったものが、画面に「なにかべつのもの」を通行させ、その乞食的なボロさが、もっと手なづけがたい「若い世代の悪」の活力までをも低下させてゆく。作品の第一原則はこのように「照応」だ。
そう、「ともに」「ボロになること」がたぶん作品のもつイデオロギーで、それに浅草軽喜劇-松竹喜劇映画ラインのギャグが緊密にからむ。これらはエキゾチズムに還元できないものだろうから、結果、『龍三と七人の子分たち』は北野武のフィルモグラフィ中もっとも海外で承認のむずかしいものとなるかもしれない。ところがその逆説にこそ栄光をかんじる。
興行的にはあたりをとった『アウトレイジ』二部作が微妙だった。とくにその正編。利得集中のために「身内」に相互の噛みあいをしいる組長・北村総一朗を頂点に置いた『アウトレイジ』のえがいたのは「誤作動の体系」というべきものだった。カフカ的リアルとボルヘス的物語を期待させるこの結構が、喜劇としてではなくただ暴力劇としての表情に落ち着いてしまったのはなぜだったのか。
ひとつの起因は俳優価値の蕩尽だろう。TVドラマなどでは美点をとらえられている男優たちが、次々に惨死をしいられる。死屍累々。しかも「残酷」が点綴されたあとの余韻までそっけない。作品は暴力と、ヤクザ服の白黒によって美的な単一性に統御され、「混色」があらわれなかった。混色はむろん価値が転覆する前兆なのだが、それがなく、意味上は価値が転覆している組長・北村にまで遡及がはたされなかったといっていい。ところがこの点が不問に付された。
『アウトレイジビヨンド』では裏切りの応酬がさらに強度を湛え、半面、脚本上の作劇からも「因果の糸しばり」がゆるんでいった。この二連作はヤクザ映画の範疇にありながら(その画面はつややかだった)、物語の生産面ではヤクザ映画に似ていず、要約しがたい現代性を誇るものだった。
『龍三と七人の子分たち』の大筋は、引退した老残ヤクザたちが社会の荷厄介になっているところを自ら奮起、チーマーが表向き会社を組織した恰好の「京浜連合」、そのシマの奪還をくわだて、最終的には京浜連合のなした諸悪にたいし殴り込みをかけるというものだ。老人ヤクザたちが組織する「一龍会」はギャグで地元ラーメン屋「一龍」との混同を果たされるし、その構成員も題名通り、最終的に仲間にくわわる妄想的・似非右翼の小野寺昭をくわえ、「七人」だ。つまり数量的に「うすい」。
むろんこの「七」は作中で言及される黒澤明『七人の侍』の「七」のような相互扶助性と個別背景の軋みをほぼかかえていない。だから、題名の構造は「白雪姫と七人のこびとたち」に似ている。それで案の定、中心にいる龍三=藤竜也が「白雪姫」化する。いっぽう経済ヤクザ風の西=安田顕をトップにいただき、対立するはずの京浜連合も、現代的なビル社屋に拠点を構えるものの、その構成員とシノギの方法が「うすい」。
往年、社会の巨悪に老人たちが殴り込みで挑む篠崎誠監督の『忘れられぬ人々』があった。そこでの「巨悪」にはオウム真理教的、多形的な陰謀内包性がもちこまれ、老人たちの「正義」が作劇上正当化された。『龍三と七人の子分たち』はちがう。「悪」はその失敗、遂行力の不全により、「なつかしさ」とむすばれているのだ。つまり現代的な悪の領域侵犯性にたいし、ありうべき悪のよわい自壊性が逆定位され、作品はその分別線を示唆する挙におよんでいる。「ありうべきもの」が「ありえなくなっている」現状への慨嘆までふくまれているとすれば、『龍三』の社会性のほうが批評力を潜勢させているのだ。
なにか抽象的な物言いばかりがつづいた。具体的な書き方をするなら、「声」の問題が最初にあるだろう。男の怒号と銃声の連続によってつよさの音響体系を築いた『アウトレイジ』連作にたいし、『龍三』は発声の繊細さの内宇宙をやさしくにじませてくる。美男でありながら不思議な泣き目をもつ藤竜也は、同時に声のよわさにつややかさをもつ得難い存在だ。藤竜也は善意の作品ではなく、日活ニューアクション、大島渚の「愛」二部作、黒沢清『アカルイミライ』まで、作劇上の「臨界」にふれたときに、声のつよさではなく声のしずかさで、つややかな一定性を代置し作品を身体化させる。
この藤竜也の資質が、作中の諸俳優に分有される。ヤクザ時代から藤の兄弟分で、家族に去られ廃墟めいた集合住宅でひとりぐらしをするマサ=近藤正臣が、藤と同等の発声特性をもつ点には驚愕しなければならない。この声の抑制は、じつは敵方の首魁、安田顕のふんする西をはじめとした「京浜連合」の面々にもおよんでいる。なるほど作品には怒号もあるのだが、それがよわさの倍音をゆらめかせるのには注意しなければならない。
『アウトレイジ』連作では色気ある男優たちが惨死をもって蕩尽された。それにたいし、『龍三』では俳優は徹底的に「温存」の庇護下に置かれる。たとえば「薀蓄」ジジイとしてバラエティ番組などでイメージ定着されているだろう中尾彬は、この作品では近藤ののち藤のもとに結集する子分と結果的にはなるのだが、昭和モダンで洒落た紳士服に身をつつむ。その彼は、現在の悪としては「失敗つづきの寸借詐欺」をあてがわれている。
中尾は監督北野武から禁則をうけているはずだ。「極妻」時代、あるいは『アウトレイジビヨンド』でも怒号をまきちらした彼は、デフォルメのかかった口許の歪みを演技上、抑えられ、半面でその肥満体の滑稽を即物的に強調されるのみだ。しかもどこか気弱という性格が設定され、「一龍会」で便利屋的な使い走り役をしいられる。
じつは死の横溢した『アウトレイジ』連作にたいし、この『龍三』中、「具体的に」死ぬのはこの中尾だけなのだった。拉致された娘・清水富美加の奪還をこころみるが、京浜連合の手にかかって返り討ちされる恰好。そうでなければ殴り込みの作劇が起動しないから中尾が死ぬのだが、京浜連合の社屋に潜入しようとするときの衣裳迷彩が、ラーメン屋「一龍」のギャグを継承し、周富徳ふうの中華料理人の恰好に岡持提げというのには笑った。「似合う」のだ。むろんマフラーの「彬巻き」を高踏派的に決め込む中尾への、北野武の「批評」がそこに介在している。
この中尾は死んでも蕩尽されない。京浜連合にうけた死の暴力の痕跡が死体として画面に一旦定着されたあとも、なぜか殴り込みの一員として劇中使用された車椅子に鎮座されて加わり、しかもなぜかすべての「標的」となるのだった。七人の子分中、手許のよれたマック=品川徹(スティーヴ・マックイーンにあこがれた銃つかいという設定からこの役名がある)の銃弾も、往年の釘投げの名手ヒデ=伊藤幸純の釘も、座頭市まがいのイチゾウ=樋浦勉の仕込み杖もすべて敵弾からの楯の位置にいる中尾を攻撃してしまう。いっぽう敵の攻撃も一龍会の老人の面々に届かず、すべて中尾を対象としてしまう。つまり攻撃は不可能、というゲームが中尾を明示して作動していたのだった。
むろん死体損壊がそこに付帯するのだから北野武=ビートけし風のブラックギャグともそれはいえるのだが、注意しなければならないのは、暴力がここで緊密に誤作動と関連づけられている点だろう。もっというと、ここでは「不可能性こそ倫理」という逆転がある。
殴り込みは当初、二面作戦だった。特攻隊の生き残りを「妄想」、飛行機操縦のおぼえもある右翼かぶれのヤス=小野寺昭の滑空によりセスナ機で京浜連合の社屋に突っこみ、生じた混乱の隙を残りが突いて、京浜連合の本丸に迫るというものだった。民間飛行場でのセスナ機強奪には成功するものの、小野寺はなぜか大空に開放されると「海をみたい」といいだし(つかこうへい『熱海殺人事件』の示唆か)、やがては停泊中の米軍航空母艦を港に発見、往年(しかしいつの往年か)の血がさわぎ、「特攻」対象を強引に変更しようとする。俳優が右翼大物邸にセスナ機で特攻して自死したむかしの実在事件が「9.11」テロ的な規模拡大へと移行しようとする雲行きがあたえられるが、なんと小野寺は当該空母に平穏裡に「着陸してしまった」事後譚が間接的にしめされ、一切はギャグのなかに再定着する。ここでも「暴力はほとんど不可能」という作品法則が、暴力の予感を吹き払ったことになる。
不可能が予感を払拭するというのは、じつは数学的な命題証明とかかわるのかもしれない。北野武=ビートたけしの数学好きは有名だが、そのギャグの特徴も数学的だった。というか、ギャグはもともとすぐれて数学的なのだ。ネタばらしにならない程度の暗示性をもって、展覧されたギャグの「質」をふりかえってみよう(最大に見事な、カットとフレームを数学的に構成された「左右」ちがいの位相ギャグや、狙い馬券「5・5」のギャグについては、観客の鑑賞時の愉しみのため、ここでは秘匿する)。
まずは漫才に基盤を置くたけしの感覚では、ギャグは「振り」「落とし」の二拍子となる。上野公園の西郷隆盛像のまえに往年のヤクザ仲間が葉書の呼びかけで次々に結集してくるくだり。イチゾウの登場は、そのロングでの風貌からして「場違いな」座頭市写しだと知れて笑いがふきだすが、そこで彼の「還相」状態をしめす「あるディテール」がカット転換の二拍子で上乗せされる。
一龍会「構成員」となる面々は列挙により無駄なくリズミカルに展覧されるが、メンバー加入の呼びかけは藤竜也に届いている年賀状住所から中尾彬が宛名書きした葉書によってだった。それで上野の西郷像のまえには「ふつうの」藤の小学校時代の同級生までもが「上乗せ」される。しかも100歳を超える小学校時代の恩師までもが「ここに」向かっているという。この設定も見事な間歇リズムで、さらなる笑いの決着をみる。
藤竜也と近藤正臣のあいだでは、往年の「賭け」の風習がいまもつづく。蕎麦屋を舞台に、その賭けにより客が恐慌におちいるくだりも笑えるが、そこで西郷像にちょんまげがあるか否かでふたりのあいだに賭けがなされた往年の挿話が披瀝される。この伏線もまた、「間歇」「加算の図像」をもって笑いのうちに解決される。いずれにせよ、加算に間歇がからむ今度の北野武のギャグの創造力は、シンコペーションの余裕があった。
結集した「一龍会」構成員候補のうち、だれが組長になるかでは、加点方式で判断されることになった。麻雀の「飜〔ファン〕」のような計算法で、そこでの数値は懲役年数、殺害者の数、罪の重大さなどから吟味される。計算は暗算するには複雑で、串焼き屋の店主・芦川誠が臨時の計算者役を強制される。計算結果はマス目を利用されて勘定書きにしるされ、しかも他の客を憚って、芦川は「殺し」などを「ハツ」(だったか)などの串焼きメニュー名に置き換えて発表する。この置き換えにより、構成員の「戦績」が完全に「串焼き注文メニュー」になってしまう。ここではベンヤミン的な命名過剰が、ルイス・キャロル的な置換過剰へと変貌するのだが、むろんこの変貌にも数学性が連絡している。
置き換え=代入。チャプリンからハワード・ホークスにまで広範に展開されたこのギャグの伝統に北野武は忠実だ。たぶん脚本を書いていて上機嫌になったのだろう、北野はベタな女装ギャグまで作品に加えてしまう。藤竜也がヤクザ時代懇意にしていたバーのママ、萬田久子の饗応をうける。萬田は色気を発散させ、一龍会の面々から藤のみをのこし、仕事後、自宅に誘う。部屋にはいって藤にどんどん脱衣を依頼、背中から上腕、腿にまでわたる藤の龍の刺青に、発情して頬寄せる萬田。
ところが萬田の現在の愛人は、京浜連合の首魁・西=安田で(世界が狭い)、彼が部下とともに予想外に萬田のマンションに入ってくる。多勢に無勢。ほぼ裸のまま風呂場に緊急避難した藤は、とりあえず風呂場にある萬田のものを身につけ、こっそりとその場を立ち去らなければならない窮地に追い込まれる。このとき彼が臍下までしか丈のないムームーをつけ(それでパンツの尻が丸出しになる)、しかもアタマにはシャワーキャップまでかぶり、赤いハイヒールを履いて、こそこそ夜の街を通過しながら、オカマに罵倒される試練までうける仕儀となる。
これもギャグなのだが、逆方向の付加もある。大島渚「愛」の二部作で観客を魅了した藤の裸身のうつくしさが、いまだ加齢した藤に健在だと確認できる余禄があるのだ。ここでも俳優は蕩尽されず、作劇へ参入させながら余栄を付加されるあたたかい複合が生じている。
もともと加算の本質は「配剤」だろう。いまだに男ぶりを発散する藤はともかく(ところが女装のやつしはいま述べたように存在した)、ほかの一龍会のよれよれの老人面子は、その「よれよれ」により可愛いのだが(これをルイス・キャロル的な数学倒立の世界とよぶこともできる)、京浜連合の構成員、山崎樹範、矢島健一、下條アトムといった「敵方」も、そのよれよれによって可愛い。暴力が不能な作品法則は、彼らのチマい悪行も成立不能にさせる。山崎の絵に描いたように陳腐な「オレオレ詐欺」、辰巳琢郎写しの矢島の「浄水器&羽根布団の騙し売り」は、その成就手前で、一龍会の面々に対峙か囲繞させられる。
彼らは構造的に老人を恫喝できない。悪人なのに気弱なのだ。それで見る見る、トンデモない連中に直面していると顔から血の気を失ってゆく。この頽勢そのものが笑えて、これが老人たちの悪の旺盛さに反射する。つまりそこでは加算が対立物を和音化させる幸福が発露していることになる。
京浜連合のうち、ルックスにもっともよれよれを加味されている下條アトムの「味」が良い。彼が最も「不運な男」で、バスター・キートンに似る。車椅子を悪用して借金のとりたてをする彼は、当たり台に坐ってパチンコ屋で藤竜也からボコられるとばっちりをうけているし、その逃亡過程では、老人たちがジャックしている路線バスにみずから乗り込んでしまう。それでバスジャック場面の多彩性に色を添える。
『龍三』のバスジャックシーンは多彩さによって素晴らしいのだが、大森立嗣監督『まほろ駅前狂騒曲』の美点(予測不能性)とは立脚がちがう。安田顕らの乗るベンツを追うためジャックされた路線バスは、驀進チェイスをかたどりながら、この作品の「世界性の簡略さ=狭さ」を立証するように、やがては狭隘な道路へと侵入してゆく。ついには出店のならぶ市場の路地へ突入。追われるクルマはともかく、追うバスは出店の小間物を縦構図で画面へ派手に巻き散らかしてゆく。画面内に無方向につぎつぎ飛んでゆくのは、モノというよりも色=混色なのだ。
運動をとらえた歓びによって、色が乱舞するこの自然な成り行きからは、配色によってこそモノが実在する、セザンヌ的な芸術観がかんじられる。もともと暗色を排していた『龍三』では画家・たけしの「絵筆」は、このような動勢場面でこそ発揮された。この点で『HANA-BI』『アキレスと亀』とはちがう。クルマに渋滞と破壊をあたえる北野武の衝動は、『アウトレイジ』連作などにみられるように、『ウィークエンド』のゴダールと共通性があるが、今回のクルマの把握では、量化ではなくシンプルな加算だけが起こっていた。
作品のもつ世界観を最終的に回収するのは、人情派刑事として登場するビートたけし自身だ。二時間ドラマの松本清張ものとおもかげの似るこの彼の役柄だが、むろんその対偶に「一龍会」の老人の面々がいる。つまりこの作品では武/たけしの二面性は、『TAKESHIS’』とは異なり、伏在的だということだ。ほかに藤竜也の息子役の勝村政信が好演し(『龍三』は『菊次郎の夏』のように「休暇」設定から開始される)、鈴木慶一の音楽が見事なのも特記されるだろう。
編集面の二拍子リズム、並列、アップ構図の無媒介的な侵入など、北野映画の特質は温存されながら、その温存が中尾の死体利用のように、べつの世界性へと再編入されている。このことがこれまで北野映画を追ってきた観客に幸福感をあたえる。そんな傑作だった。ラストの科白のやりとりもいい。今回の出入りで、計算上は今度は俺が組長へと逆転する、という近藤にたいし、藤が「バカヤロー、そのときゃ〔出所時には〕俺たちゃ死んでらあ」といった応酬をする。希望を次代へ託そうにもその決起のときには「死んでもういない」という軽さ、あかるさ。これは『キッズ・リターン』ラストのやりとりの「変奏」ではないだろうか。
三月二十三日、試写会にて鑑賞。四月二十五日より全国ロードショー公開される。