鮎川賞選考対談&輻 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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鮎川賞選考対談&輻

 
 
「現代詩手帖」四月号、北川透、吉増剛造両氏による、鮎川信夫賞の選考対談を読む。おふたりのものすごい思考エネルギーにひたすら敬服した。候補にあがったすべての詩集・詩論集を精緻にかたりあい、そこから詩の現在をものすごい迫力でひきずりだしている。たまたま拙著『換喩詩学』が詩論集での受賞決定となったものの、なにか宇宙開闢にともなう回転ののちにそれがなされた感がした。畏怖した。
 
ぼくの提起した換喩に「息」を読んだ吉増さんの感覚がすばらしい。いっぽう北川さんは、現在の詩における換喩の横行をみとめつつ、直喩・暗喩も往年の形成力を自壊させ、すがたをかえ、たんなる貶価対象にはできないと明言している。そのうえで拙著の象徴的な時事性を称えていただいた。
 
ぼく自身がびっくりする卓見があった。ぼくの詩論には「イメージ」ということばがない、と北川さんが指摘なさったのだ。それがたぶんぼくの詩作と詩論の相互性を解き明かしていると当人としてはおもう。つまりもともと像の形成のうすいぼくの詩作が、ぼくの詩論を枠どりしているのではないか。この件は今後も自己検証しなければならないが。
 
換喩一辺倒ではないぼくの立脚は、ぼくの「受賞のことば」にあらわれ、またこの号に同時掲載されているぼくの詩論にもあらわれている。杉本真維子さんの『据花』にかかわる小特集があって、そこに収録詩篇「川原」をぼくが考察した文章が併録されているのだった。フェイスブックでの12月のポストを、二文節ていど落としたものの転載だ。
 
いまならこう書く。杉本真維子『据花』は拙著『換喩詩学』が提起した「散喩」にかかわりがある――しかもそれは感情と語調によって奇蹟的に生じた「つながる散喩」なのだと。「味読」アプローチのしかたを、すべて「再編」にもっていった自分の方法は、その意味でこの詩篇にすごく合っているとおもう。
 
おまけとして、今朝書いた詩を下に貼っておきます。タイトル「輻〔や〕」はツェラン的な語彙のひとつ。
 
 
【輻】
 
 
ふざいなのはたしかだけれど
だれがいないのかはっきりせず
いらえのない門扉にもたれて
ひとらの消えさりを背負うのが
ひざしにえらぶ姿勢だった
その家がまとう義旗のように
すこしはなれてはゆれる
そんな布としてあるいがいに
どう定住と非住のあいだへ
またがりをつけるというのか
肩と腋にふたつわけされて
うでのついているふかしぎを
とおくたかくかがけると
回転するものがいちどとまる
めのまえに春の輻がうかび
からだの置き場所も家にたいし
こんどは前輪をつくりなす
ふざいがうごくのはわたしゆえ
わたしまでもいないことから
背後の家があふれでてくる
 
 

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2015年03月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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