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わたしたちの教科書 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

わたしたちの教科書のページです。

わたしたちの教科書



前クールのTVドラマでは
坂元裕二脚本『わたしたちの教科書』の出来が突出していた。

第一回、一見平穏な私立中学に
伊藤淳史が理科の教師として赴任してくる。
担任・伊藤にとってはぽつねんと浮いて見える
(相変わらず喋り方が嫌いな)生徒・志田未来。
それにどう噛むのかわからない弁護士の菅野美穂。
ともあれ、伊藤と志田の交情を描く学園モノという設定を
キャスト・バリュウからいって視聴者の誰もがおもっただろう。
ところが第一回の最後、
志田が菅野の娘だという考えられない事実暴露のあったのち
その志田が教室窓からアッサリ転落死を遂げてしまう。
まさに急転直下。
視聴者の想像力はこうして最初から激烈なカンフル剤を打たれる。

その転落死に「いじめ」が絡んでいたか否か。
そうして野島伸司『人間・失格』以来の
いじめを正面に据えたドラマが堰を打つように雪崩れだすのだが
(以後、志田の登場はすべて回想時制となる)、
いじめの実態をショッキングに映しだすことよりも
その問題圏に入った教師たちの
職員室での恐怖・自責・行動を描くことにこそ
坂元脚本の力点が置かれていたのだった。



毎回流れるエンドロールに
このドラマの傑作を予感しない者はドラマ好きではないだろう。
廃墟を、生徒たちが続々と走ってゆく。
誰もいない教室では、教師役ひとりひとりが孤立する。
それらが詩的に切り返されてゆくフラッシュ編集は
実は鼓動や胎動のリズムを刻んでいる。
解放への胎動、革命への胎動、といえる何か。
いじめという、社会知の単純な還元に傾斜しやすい問題に
虚構からとはいえ楔を打ち込み、
人間の本来的関係性へ思索を拡げたいという気配が
そのエンドロールからは刻々と伝わってきたのだった。
このドラマでは何かが変わるのではないか。



単純なレビューはおこなわない、というのが
実は僕が今回のmixi日記再開で自分に課した制約。
ただ、ポイントだけは抑えておこう。

菅野は弁護士になる以前、若くして結婚していて
志田は実は夫の連れ子だった。
けれども夫の蒸発によって離婚し、
菅野と血縁のない志田は以後、施設での生活を余儀なくされる。
自分を慕った志田の記憶。しかし同時にその志田には
孤独からの自己防衛、世間体の堅持といった作為も感じられ、
幼い日の志田のことは菅野の記憶の痛点だった。
その志田が死んで、いじめがあったかどうかの真相を
弁護士として究明する菅野には
だからもともと脛に傷があるかたちなのだが、
菅野はやがて思考者として別次元の
ニュートラルな立脚点を獲得してゆく。
その姿に菅野の見事な演技力が裏打ちされる。
何度、涙を流したかわからない。

その菅野に立ちはだかったのが副校長役の風吹ジュンだった。
「いじめは一切ない」という公式見解を頑として崩さない。
あるいはドラマが進み、いじめの事実が露呈してきたときにも
「いじめを認めた後の学校は崩壊するから
学校を守るためいじめの存在は認めない」という態度を崩さない。
ために時に恐怖政治すら教師陣に敷き、
その凛とした気概の下に深意を秘匿しつづける姿には
聡明な威厳も保たれる。
この風吹の演技が明らかに新境地への到達を告げていた。

伊藤淳史などはあっさりと風吹の支配下に入り
学校「体制」の走狗のようになってしまうので
当然、ドラマは菅野vs風吹の構図を毎回つよめてゆく。
菅野はずっと真摯で、いじめを学校側に認めさせて
裁判に勝ちたいという利己的なポジションなどとらない。
ただ、いじめという不幸の根と枝を
以後の学校に一切断ちたいと願うだけだ。

最終回の一回前、菅野はとうとう
風吹が志田へのいじめを認知するどころか
風吹が志田を、真情をもって励起していた決定的な証拠を掴み、
それを裁判所内ではなく教室内という個人的状況で
風吹自身に突きつける。菅野の頬には涙が伝っている。極度の緊張。
風吹はついに折れ、
いじめで悪戯書きされた志田の教科書をも菅野に手渡す。
これでいじめの存在が世間へ確定的となった。
この長いシーンの「演技対決」の素晴らしさが忘れられない。
TV版『華岡青洲の妻』での
田中好子と和久井映見の「演技対決」を髣髴とさせた。



最終回は職員室に乱入し、
いじめの当事者だった生徒(冨浦智嗣)と教師を楯に
職員室に籠城する風吹の息子の姿と、
裁判所に突然赴いて志田の転落死の真相を語る谷村美月の姿、
この二人の緊迫がシーンバックの連続で描かれる。
このとき谷村のしめす語り・回想が哀しくてやりきれなかった。

谷村と志田は8歳時のときから
相互の孤独な風情に惹かれあう親友同士だった。
それが同じ中学にともに進み、
谷村と前述・富浦が恋人同士となってから仲が疎遠になる。
ところが谷村と冨浦の恋人関係が不幸な転機を迎える。
冨浦の父親が援交をしている姿に二人はデート中、出くわし、
その男を冨浦の父親と認知しないまま谷村はふと揶揄をした。
翌日、教室で再会した二人。
冨浦は谷村にいう――《お前、雑巾臭いんだよ》。
以後、二人の恋人関係が断たれるどころか、
谷村には冨浦の陰謀によりいじめの砲火が集中してしまう。

やむなく谷村は志田に相談する。
同情した志田は係累のない自分には失うものがないから、と
いじめの矛先が自分に向くよう策を講じた。
冨浦の父親の援交の噂を、校内に振りまいたのだった。
激昂した冨浦は以後いじめの対象を志田にすげ替える。
今度も教室の全員がそれに同調した。いじめは激烈だった。
いじめの対象から解放された谷村は
志田の自己犠牲によって救われた恰好だが、
彼女のプライドが、志田への謝意を邪魔し、
ずっと谷村と志田は没交渉のままになった。

やがて核心の、志田の墜落死当日の回想となる。
教室にぽつねんといる志田。そこに谷村がやってくる。
志田はいじめの辛さに自殺を考えたこともあったが
生きることについ昨日、固執するようになった、
二人が昔よく行った秘密の廃墟で確認したんだ、と告げる。
谷村は、あんたがこんなふうになったのは
すべて卑劣な自分のせい、だから自分が死ぬと窓際に行く。
ピアニストを志していた谷村は
いじめに遭った際、指の骨を骨折し夢を断ち切ってもいた。

志田はすぐにその隣の窓に腰をかける。
《あなたが死んだら哀しむひとがいるよ。
私だってそれに気づいたから、死ぬのをやめたんだ》。
それは誰、と谷村が訊いても志田は笑って答えない。
《絶対にいるんだから》、志田は確信だけをただ言う。
ともあれ、その励起により谷村が自殺を断念し、
志田も窓に下ろしていた腰をふたたびあげようとした。
そのときバランスを崩し、志田だけが教室窓から落下した
――志田の墜落死の真相とはそういうことだったのだ。

親友の善意によりかかり、自らは正義心を一切発露せず
しかも親友の死をも誘導してしまった谷村。
「良心」があれば、当然、以後を生きることなどできない。
だから裁判所でおこなわれた回想も
真相が確かになればなるほど悲痛さをとうぜん帯びるし、
それが「存在の極限へのジャンプ」にもなるのだから
谷村が証言をずっとためらってきたのも頷ける。

このときの谷村の演技力をどう語ったらいいのだろう。
役柄に完全に憑依している。
カッティングなしで頬から伝わってくる大量の涙。
声の震え。眼のうつろ。喉の緊張。
彼女の原日本人的な、「草木染」のような美しさにも息を呑む。
まだ「子役」といえる年齢の、この未知だった女優に
僕は徹底的に魅せられてしまった。



裁判所で「最も危険域にジャンプした」谷村は
以後、周囲を閉ざし、廃人同様になってしまう。
一年後、ようやく谷村の所在を突き止めた菅野は
彼女をかつての志田との秘密の廃墟に誘う。
このときその内部の壁には、自殺を断念した志田の
「自分自身への手紙文」が書き付けられていた。
『わたしたちの教科書』サイトから文面をペーストしてみよう。



明日香より。明日香へ。
わたし、今日死のうと思ってた。ごめんね。明日香。
わたし、今まで明日香のことがあまり好きじゃなかった。
ひとりぼっちの明日香が好きじゃなかった。
だけど、ここに来て気付いた。
わたしはひとりぼっちじゃないんだってことに。
ここには8才の時のわたしがいる。
わたしには8才のわたしがいて、13才のわたしがいて、
いつか20才になって、30才になって、
80才になるわたしがいる。
わたしがここで止まったら、
明日のわたしが悲しむ。昨日のわたしが悲しむ。
わたしが生きているのは、今日だけじゃないんだ。
昨日と今日と明日を生きているんだ。
だから明日香、死んじゃだめだ。生きなきゃだめだ。
明日香。たくさん作ろう。思い出を作ろう。
たくさん見よう。夢を見よう。明日香。
わたしたちは、思い出と夢の中に生き続ける。
長い長い時の流れの中を生き続ける。
時にすれ違いながら、時に手を取り合いながら、
長い長い時の流れの中を、わたしたちは、歩き続ける。
いつまでも。いつまでも!



いま自分が死んだら哀しむのは
過去の時間軸上に無限に存在している自分自身であり、
同時に未来の時間軸上に同じく無限に存在するだろう
自分自身なのだった。
この見識が志田-谷村の最後の会話で秘されていた。

人は常に「いま」に閉じ込められているが
その逼塞を解くのが時間本来の複数性だということだ。
その複数性には2種類ある。
ひとつが過去(記憶)――
これはその存在を存在たらしめている自己同一性の束といっていい。
いまひとつが未来(への思考)というわけだ。

自殺念慮者では時間が停まり、
「いま」に閉じ込められる事態が起こる――
志田(明日香)の書き付けを逆からとれば、こうした感慨も導かれる。
要は、「存在における反省の効用」が志向されていたのだった。
自らの時間的複数性を意識するのがまさに「反省」で
それこそが実際に人を幸福な複数化へ導くものなのだということ。



即座に、山口県・光市での母子殺害事件の再審で
加害者(当時少年)が「ドラえもん」「母胎回帰」など
荒唐無稽というよりさらに低劣な語彙で語った犯行の詳細にたいし
被害者家族の本村さんが
3日間裁判を傍聴して語ったコメントが思い出される。

《死刑廃止論をこの事例に局限し、
それで加害者に荒唐無稽な「物語」を注入した弁護団は
どうせ極刑になるこの加害者から
その人生の最期の段階で反省という人間的な機会を
ついに奪う愚挙を犯したことになるだろう》(論旨)

やはり、人が人になるには「反省」が必要なのだ、
という見解がここでも真摯に語られていた。



『わたしたちの教科書』に話を戻そう。
伊藤淳史が生前の志田未来から最後に聞いた言葉は
「先生、世界は変えられますか?」だった。
風吹の息子のナイフで脊髄を突かれて
下半身不随になった現在の伊藤淳史は
裁判が結審を迎えようとする日に
学校を訪ねてきた菅野美穂に
生徒たちに向け黒板に何かメッセージを残してくれ、と頼む。
菅野がこのとき書きつけたのも
「世界は変えられますか?」だった。

このメッセージが明らかになってから、
シネマヴェリテ的に生徒役だった子供たちが
この質問に何とか応えようとする場面が連続してゆき、
そこでも僕は涙が止まらなかった。

ここに、前回の日記=エドワード・ヤンの訃報が絡む。
ヤンの代表作、『クーリンチェ少年殺人事件』で
主人公スーが相手役ミンを刺殺してしまうとき
ミンが最後に喋った科白はこうだった。
《私はこの世界と同じ。誰にも変えることなど出来ない》。
二つの作品は一種の対照を形成している。
完全な対照が相似関係をつくりだすのは明らかだろう。

ともあれ、こうして『わたしたちの教科書』が
楊徳昌『クーリンチェ少年殺人事件』と同じ圏域にあるといえる
――岩井俊二『リリィシュシュのすべて』がそうだったように。

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2007年07月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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