黒沢清メモ
【黒沢清メモ】
1)黒沢清の映画では行動と選択だけが中心的に転写される。
2)その行動が寓意的にもみえるように、人物からは表情や予備動作が消される。
3)世界と人間ともどもを等価にする状態として、空洞がえらばれる。そこを影のようにうごくなにものかがあること、それが「シネマ」の時空をつくりだす。それは人体内にあってもそうだ。人体内にあるこれならば幽霊や磁気とよびたい。
4)調和と整合性を双対にする通常の世界観にたいし、非整合性を調和的にうごかすのが黒沢清特有のリズムだ。
5)自己と自己との関係が内包であり外延でもあることが、存在と行動をいつも規定するが、こうした関係が非親密的であれば、カフカ的な「悪」の身体がにじんでしまう。合致という、窒息と不安。黒沢清はその身体観を、さらに世界そのものへと内包/外延させる。
6)上記五つの分析は黒沢清の創作の厳格さを束ねるが、そうした集中の外側を恒常的に流動するものもあり、それらは「優雅さ」「上品さ」といった、別系統の語彙でしか表現できない。その優雅さは偏奇性とも接触している。だから幽霊が撲殺される。あるいは女優がうつくしくうごめく。血もすくない。
7)黒沢清の映画には速さ、分散、数の過剰、反復魔力、決定不能性がつねにあるが、編集カッティングの陰謀はほとんどない。ホラー作品の一部にのみ、その例外がみとめられるだけだ。しかも彼はそれを「持続のなかの飛躍」としてのみもちいている。さらには、この7に掲げた概念ならば、すべて微分的な時間論(襞のある時間論)のなかへ編成することができる。彼の映画の機械性はこの点にこそかかわっている。
8)陰謀=まやかしは事物間の距離を無化するが、行動は、踏破や接触や攻撃を志向するかぎり、事物間の距離を前提とするしかない。黒沢清にあって価値化されるのは、つねに陰謀ではなく行動のほうだ。忘れてはならないのは、行動の高密度が停滞をも結果する逆説だろう。
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昨日はMC特別入試の口述試験、その後は留学生・黄也くんによって中国の雑誌に向けおこなわれたぼくへのインタビューで、黒沢清監督の話題がつづいた。それらで語ったことを圧縮的・付加的・備忘録的にまとめてみました。