「あおい」「ながい」
【「あおい」「ながい」】
詩文を不定にゆるがすやりかたは、つくりだせば数多くあるとおもう。まずかんがえつくのは、省略というか欠落をことばのわたりにおしこんで、多義なりあいまいなりをみちびきつつ、空間に生じた隙間のかたちを、そのまま空間にしてしまうこと。これはじつはことばにとって怖いことだ。ぼくはこれを自分の用語で「減喩」とよんでいる。
俳句骨法にあるのが、二物間の衝撃や、もっとゆるい対比だとすると、そこでは飛躍量が詩の量に転ずるような方程式化が単純に起こる。ただし詩文のばあいこればかりを連打すると、詩そのものが疲れてしまう。だから行のわたりに理路の狂いなどを容れ、詩篇のなす空間を「欠落によって」円滑化したりする。これは俳句素の横溢する忙しい詩にはできない相談だろう。
最近、小峰慎也さんの副羊羹書店から、加藤健次さんの第一詩集『その翼から海がこぼれる』(1991、雀社)を入手した。詩集ごとに敬愛のつづく詩作者だが、やはり第一詩集にはそれ特有の清新さがある。ほとんどの詩篇で、「欠落による円滑化」がみごとに起こり、見えがたい抒情が一篇をつつましく、ぶきみに、親密に、かなしくとおりつくす。読み手は詩にうながされて通過を体感してゆくのだが、欠落を調和させる書き手側の抑制、その遍満が逆に不吉なほどだ。知られておらず、しかも知られていい詩篇集なので、なにかを全篇引きたいが、冒頭詩篇をえらぶことにする。
【おもり】
加藤健次
小鳥を飼っていた
胸のなかに
いまは鉛が垂れている
「わたし」について
語りつづけた
ひと晩中
つらい時には
からだがすこし傾いて
鉛は皮膚の
びんかんなところに触れている
そんなときも
「なんでもないふり」をして
見えないがわで
揺れている人の
きもちがすっかり空っぽになるところから
ひくい声がとどく
部屋のなかにも
こまやかな雨がふっている
「感じ」から
病んでいく胸の小鳥たち
モーニングワイドをつけたまま
とてもありふれた生活の
底のほうに吊されて
揺れている人の顔は見ないで
目玉焼きを食べる
「もう、心配はいらない」
すぐに陽がさしてきて
きみの傾ける牛乳パックから
青空がこぼれる
この胸のなかに
まっすぐ
今朝のおもりは垂れている
●
「傾けられた」「牛乳パックから」「こぼれる」「青空」というディテールに、感覚的な衝撃がおとずれるだろう。牛乳ほんらいの「白」と空の「青」とが分裂して、何色を感覚すべきかで読み手が不可能域におとされるためだ。ツェラン「死のフーガ」の「黒いミルク」からの転位だろうか(このツェラン詩篇については最新号の「びーぐる」で細見和之さんのするどい論考をよんだばかりだ)。
ところでかんがえてみると、形容詞そのものがじつは、詩文を不定にゆるがす媒質だと、さらなる整理もついてくる。いまの「青」「黒」にしてからがそうだ。たとえば「あおい」とひらがなでかけば、「青い」「蒼い」「碧い」にぶれて、結果、「中間」がひだをひろげそこが定義不能性の棲処になる。「くろい」としてもどうようで、「黒い」「玄い」「黝い」ていどにはブレて、しかも「くらい」との読みちがえまでそそのかす。白にくらさをかんじることもあるのだから、白とは黒のことではないかといった感覚ショートさえおこる。
「ながい」はどうか。ナノ単位からみれば1センチでも気絶的にながいと気づけば、長さがじっさいは観察される世界に内包されている相対性そのものにきびしい審問をかけていることになるし、紐のようにほそいものに長いを上乗せ形容できる条件がとつぜん不確定になったりもする。
あるいはぼくが最近の連作でやったことだが、長いという形容を通常もちいない対象を「ながい」と形容して、「ながさ」の概念をゆるがせたりもする。「ながい空」と書いてみたし、あるいは雪ふりにともなう乱れ切った「雪舞い」の線条を、蜂のさわぎを聴くように「ながい」としるしてみたりした。
もちろん空間的な「長い」と時間的な「永い」の弁別なども、もともと日本語ではいいかげんで、ふとしるした「ながい」が時間空間の弁別を溶解させる力さえひきおこす。がんらい時間と空間はわけられるのか。こんな根本的な疑問が生じれば、やはり「ながい」が相対性そのものを審問にかける感覚域の入り口にあるもの――「形容的な導入項」だとわかってくる。
「長い」はたしかに世界のある部分のほそながさを喚起しながら、それとむかいあう自らの所業をよわい、しかも執拗なおわりなさへも架け橋してゆく。支倉隆子さんの《柳の国から細長くお便りします》(『酸素31』1994、思潮社)というフレーズからかんじられるうつくしい重複感は、ながさにより世界を融和させる通常性からの進展だろう。
けれどもながさは人体に適用されれば、過度の抽象化をよびこんで、人体のぶきみさをもむきだしにする。たとえば中本道代さんの「異国物語」(『春分』1994、思潮社)にみえる以下のわたり。
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うなぎeelsをあなたはきらいだと言った。
私はそんな長い体について考える
蛇 ミミズ
ことに ミズヘビ アナコンダ
私はあなたの長い体について考える
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蛇体は一般に長いとみられるだろうが、人体はなにを基準に、そのぜんたいを「長い」といえるのだろうか。「永い」しかいえないのではないか。「うなぎをきらう」という独白により、「長い」蛇体の数々が見消のように作用して、領域侵犯を起こし、永いからだが長いからだへと変質したのではないか。侵犯が本質的に「無のからだ」を媒介にしておこっているととらえると、じつはこのくだり=わたりで「ながい」のは、三つにわたり介在されている「行間空白」のほうなのだと、ぼくなどは感覚してしまう。そうしてさらにおもしろくなる。
伝説的な詩集だった松井啓子さんの『くだもののにおいのする日』(1980、駒込書房)が、うつくしい新装版(2014、ゆめある舎)で復刊されたのはすばらしいことで、そこでは「やわらかい奇想」により、女性的な日常が詩に変成してゆく経緯がゆたかにたどられてゆく。簡単なのに厳密な修辞によって各詩篇が終始一本化されていて、同時にしずかだが生々しい「息」をもかんじさせる。それは吉田健一や石原吉郎、あるいは貞久秀紀さんとはべつの流儀で反復される「同語」が、認識の再帰ではなく、息の回帰という、生命的なものを基準にしているからだとおもう。
詩集標題詩篇「くだもののにおいのする日」では「見た」「見ていた」「眺めていた」が適所にはいりこんで、律動のくさびをうちこむ。反復と間歇の按配がよく、たとえば「見た」の列挙が遍歴をしるしてゆく一聯のあるボブ・ディランの名曲「激しい雨が降る」と似て非なる詩興をかたちづくっている。その二聯では詩的主体が「銭湯」(女湯)で「見た」ものが以下のように列挙される。
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わたしは銭湯へ出かけ
髪を洗う女のひとの
長いながいしぐさを見ていた
まだ明るいうちの湯舟の色と
流れてたまる湯水を見ていた
夕立も長雨も
局地的な大雨も
小さい女の子の小さい局部も
長なすも丸なすも
ふたなりの動物も見たことがある
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男湯にいても裸身でいる他の客と照りあって性の無化、あるいはトランス化が起こるのだから(ぼくはそれを『静思集』「人乃湯」でしるした)、ふたなりの動物を女湯の湯気のむこうに感覚したとしても、おかしくはない。ただしそうした感覚を誘導するものがあって、詩行のおわりから遡行して、なにが視界をよぎったかをあらためて確認してゆくと、順に「丸なす」「長なす」(これらが女身のなにを暗喩しているかはもはや読者の裁量にまかされていて、実際は喩を形成してはいない)、「女児の陰裂」「雨の諸相」「流れる湯水」となってゆき、最後に、最初に現れていたのが《髪を洗う女のひとの/長いながいしぐさ》だと確認作業が停止する。
「長い」は髪そのものに移り、おんなの洗い髪の長い線型的なながれを感覚させながら、実際はしぐさにたいして「長いながい」と形容されている再認がおこる。豊富で川のような頭髪量によって髪洗いの所要時間そのものが面倒に「永く」なっていて、この長さ=永さに、詩の主体が時空の幻覚的な融解に接するように眼を奪われ、しかもそれが湯気のなかでどこかおぼろだという「像=非像のようなもの」が現れているのではないか。逆にいうとこれが最終的に、どこか戦慄的な「ふたなり」まで像=非像を展開させてゆく導入項をつくりなしていて、そこに「ながさ」という相対性幻惑の「道具」がまさにひつようだった――そういう理解になるのではないか。
「長さ」から起こる幻惑や減退や世界了解は、長さを達成尺度としてのみとらえる男性にではなく、女性にふさわしいものかもしれない。夭折した松下千里さんがながめやり夫・松下育男さんを「ながさ」としてとらえたときにも、厳密な幾何学性が心情の幾何学に変転してしまう不如意が、むしろよろこびとしてつづられ、そのよろこびのなかに愛着がやはりたしかに息づいていた。散文詩篇「晴れた日」(『晴れた日』1989、遠人社)の第一聯と、ことに最後の一文の構文性=語順が奇蹟的な第四聯(最終聯)――
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半裸の月をかかえ込んで、老人のように、あなたは今、
光にうすまってゆくのだから、薄い血すれすれに囁きか
けるあなたの声は、もう私には聴こえない。
晴れた日、
あなたはたぶん何かの表面だ。
永遠というのではなく、
けれども晴れた日、
あなたは何かとても長いものだ。