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「ねこ」「けむり」 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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「ねこ」「けむり」

 
 
【「ねこ」「けむり」】
 
 
イヌの存在は境界をつくる。とりわけフラー『ホワイト・ドッグ』やイニャリトゥ『アモーレス・ペロス』などの映画を観るとそうおもう。かたやレイシズムの狂気により訓育された攻撃犬、かたや闘犬にかりだされて目覚めた得体のしれぬ万能犬が対象化されるのだが、イヌのもつそうした本来的な獣性が画面に磁気の横溢をつくりあげると、とうぜん人間「以降」、人間「以遠」の「境界」が意識されてくる。
 
人間性と獣性が対置されると、第三項の「神性」が浮上してくるのが人間の想像力のつねだが、イヌのあられもない獣性は、その身体のなかに境界を幾何学的に輻輳させ、擬人化といった想像的馴致に資するものも、神犬化といった存在の荘厳化も、もたらさない。いわば「それじたいのイヌ」が揺曳することが、けものくさい境界を、共約不可能性を、ゆううつのなかに実質化させるのだ。
 
これらはいわば、同調能力によりペット化に適しているはずのイヌの極相だが、この極相が稀薄化するとどうなるか。イヌは空間にこそ境界をしめす。イヌのいる場所/いない場所は結界をしるし、イヌは自分のいる側とそのむこうを、「こちら」に全身でかたりだす。一般に、庭飼いしているイヌを庭にみることには、そのような付帯作用があったはずだ。
 
さらに稀薄化するとどうなるか。イヌは群れ化して、音響的な外域をひろげる非人間的な遊牧性となる。このばあいの超音波には人間の限定的な感覚にとって警鐘の意味がある。エドワード・ヤン『恐怖分子』では路上の檻に入れられたイヌが写しだされるが、同時に「みえないイヌたち」の不安な遠吠えが多くの画面をかすめていた。
 
細部の記憶が溶解しさっても、わすれられない映画がある。01年のモンゴル/ベルギー合作『ステイト・オブ・ドッグス』だ。ウランバートルの砂塵にしずんだ街をドキュメンタルにとらえる映像に、詩的なナレーションがかぶさりつづける。次第に判明してゆくのは、かたられているのが、いっぴきのイヌを主体にした生成と種族受難、その射程のながい神話詩だということだ。住民の飼育放棄でやむなく野犬化したイヌを行政が「狩る」社会的要請が作品の背景をなしていて(ウランバートルの高層化と関連がある)、ロングショットなどで実際の雑種犬が写った記憶はあるが、語りの主体である神的なイヌはずっと不可視の存在にとどまっていたはずだ。「境界」を現勢化させるイヌの究極は、不可視性の空間的な瀰漫そのものへと変成することだ。イヌが空間化するのではなく、空間がイヌ化する倒錯。このとき倒錯への憧憬がひきがねになって「人間」がふかくかなしい意味で相対化されてゆく。
 
とはいえ、イヌの話ではなかった。ねこをかたろうとしてキーボードを叩きはじめたのだった。孤独にさせておくと風情と品格をますイヌにたいし、飼ったことがないのでわからないが、ねこはたぶん飼い主の触覚をその無の実体にかぎりなく吸着させる。それは飼い主とねことのあいだの「境界」を無化する使嗾として、ふかしぎに飼い主の手許に出現しているはずだ。
 
変成能力としてのねこ。「イヌ」の用字のどこにもイヌはいない。いっぽう「ねこ」の「ね」の字は、そのまま腹這いに坐る横向きのねこを象形していると、たしか金井美恵子がなにかの風俗小説にしるしていたとおもう。ねこは字にすら変成する。となれば、ねこは触覚そのものに変成して、飼い主とねこそのものの弁別を無効化して構わないことにもなる。
 
犬猫のくべつでいうと、松井啓子の特権的な動物は、ねこのほうだ(感覚内に結節する対象がくだものや野菜である点と、それは相即している――松井のねこはみずみずしいのだ)。前回にひきつづき、『くだもののにおいのする日』から、こんどは極上のねこ詩篇を全篇引いてみよう。松井の触覚が、あるいは他者認識が融即的なことが即座にわかるとおもう。むろんそれが「女性詩」の指標となる。男性詩一般なら分節化をあせり下品にあくせくするのみだ。
 
【ねむりねこと】
松井啓子
 
こうした長雨の頃には きっと
あなたはうつむいて
ねこをてもとに置いている
ゆうべの雨も
おとといの雨ももう
とおに手の届かないところに流れて行って
きょうのねこは
くつしたをはいた足音で
あなたの むねの
細長い木の階段を降りてきていた
いまは いっさいのにおいもかたちも
よそにおいて
ほんのまるい気持だけをあなたにあずけて
ねこは浅いねむりをねむる
 
てのひらをやわらかくして
ねこの背中のまるみをつくり ゆびの先で
そのかたさ やわらかさをたどり
たえまなくことばを降らし始めると
あなたはねこのぬくみになり
浅いねこのねむりをねむる
 
ときおり あなたか
ねこかの
いずれがめざめても
鳴くこともせずに
ねむりの薄い戸口に
ただねこはいて
もうあなたは
ちいさいねこの頭になり
ねこの浅いねむりをねむり続けた
 

 
イヌがとおくへ、すなわち空間的にきえるとすると、ねこは自体的=物質的=魔法的にきえる。ねこの自体性は前言のように「ね」の字にねこが象形されている確認でひとまず充分だろう。ただし「べつのものへの生成」という点では松井的な法則がある。「雨」の重畳・反復が時間的な前提となってこそ、ものの変成する条件がととのうということだ。詩篇「くだもののにおいのする日」のときにつづったように、銭湯の女湯に「ふたなりの動物」がみえるためには、「夕立」「長雨」「局地的な大雨」への意識の着地がひつようで、その「局地」が女の子の「局部」へと換喩的にずれていったのだから、長雨から観念連合される「ねこのながさ」もあるはずだ。
 
この点が表沙汰になるのは、松井のこれまたすばらしい第二詩集『のどを猫でいっぱいにして』(1983、思潮社)によってだった。集中に詩篇「長い腰」があり、そこでねこのながい腰が執拗に展覧される。ねこはまるく背骨もみじかいが、ぶらさげてのばすと腰だけながい。この点が端的にねこ的な組成の可変性をつげる。
 
詩篇「ねむりねこと」へもどろう。一聯7行めに「きょうのねこ」という限定辞がおとずれる。「きょうの水」「きのうの水」と置き換えれば万物流転のヘラクレイトスだが、ひとまずねこの可変性は川水の刻々の定着不能性と双対となる。そのねこの警戒心のつよい足音を「くつしたをはいた足音」と形容「できる」とき、松井のねこずきが髣髴するのだが(室内犬のフローリングへの足音が肉球外縁の爪が作用してチャッチャッと煩く鳴るのは、イヌの飼い場所に庭こそがふさわしい点を告げている――イヌは足下の土や芝生と同調してようやくひくくうごくことができるのだ)、一行めの「長雨」は、9-10行め、ねこの降りていった場所として《あなたの むねの/細長い木の階段》の「細長い」を換喩して、この換喩の結果、ねこの外側にあった飼い主=詩の主体=「あなた」が、ねこを内側に置いてしまう空間捻転が出来することになる。
 
そこからは内/外の弁別がいよいよあいまいになり、詩の主体「あなた」と「ねこ」は内外を入れ子状に展開しあって、けっきょく最終聯=第三聯の結語は、《もうあなたは/ちいさいねこの頭になり/ねこの浅いねむりをねむり続けた》と進展的な決着をみる。生成をあらわす動詞「なる」は、そのまえの第二聯5行め《あなたはねこのぬくみになり》にもみえて、詐術的な対象変容に作者も意識的なはずだ。
 
気をつけなければならないのは、自体性と再帰性のもんだいが、詩の修辞と哲学の双方にわたり、作者の側から強調圏点をほどこされないまま提示されている点だろう。ここで第一聯末尾にあらわれる《ねこは浅いねむりをねむる》が分析されなければならない。
 
「生を生きる」(英語ならlead a lifeとなる)、「死を死ぬ」、「ねむりをねむる」という言い方がなりたち、「まぐわいをまぐわう」「食を食〔を〕す」という言い方がほぼ成立しないのはなぜか。「生」「死」「ねむり」では人間に不可抗な同化力があるのにたいし、「性交」「食」は展開や対象をひきこまなければそれじたいが意味化しない欠性がひそんでいるということだろう。だから「ねむりをねむる」は同語反復にいっけんみえながら、ゆるがない構文とみなすことができる。ところがその主語が「ねこ」であったとき、「ね」音の頭韻で一文が急造された動勢が生じて、「ねこは浅いねむりをねむる」が同一領域の微差分割のようにぶれる。頭韻性でもぶれのうごきでもこれは換喩的なフレーズといえて、その微差分割の質をしめすために、あえて形容詞「浅い」が付加的に斡旋されているのだった。
 
この浅さは「ねむり」の質のみならず、「あなた」と「ねこ」の関係をもしめす。もっというと、「あさいものがふかい」、だからそこでは自他弁別が不能となり、相互が相互の付属物となってしまう。これは所有を旨とした男性的な愛着には起こらない、関係のフレキシビリティを指標している。「さわる」ことは大岡信の著名詩篇のように認識とエロチシズムの不分離を形成しない。「さわる」ことは「さわらないことをさわり」、「さわらないこと」も「さわらないことをさわる」と理解されれば、対象の有無のみならず、主体の有無すらゆらいでくることになる。これは松井の哲学だが、女性的聡明性の感覚でもあるだろう。
 
とりあえず「ねこ」とは、隣接性に魔法をかける媒質なのだった。松井詩では隣接性は触覚対象であるとともに可食的でもある。詩集『のどを猫でいっぱいにして』の標題詩篇では「猫好き」の「猫獲り」が対象化され、その「声」でねこをまねきとらえる神秘的なしごとがえがかれる。やがては猫の可食性を前提にした猫の嚥下により、猫獲りの声が猫に変成する結末、さらには猫の仕種への同調が勇み足となってスリッパが猫に変成する結末が二重にしめされる。ねこの体内化という主題は前掲詩篇から受け継がれるものの、いまの説明では何がなにだかわかりにくいだろうから、この散文詩の最後の二聯を引用せざるをえない――
 
《陽が沈む頃彼はもう一度起き出して、とらえた猫の麻紐をほどいてやる。水もたっぷり飲ませてやる。それから今度は彼がのみ始める。/一匹めの猫はただのひとくちでのんでしまう。二匹めはヒゲがのどをくすぐってせきこんでもかまわずひとくちでのんでしまう。そのあとは少しずつゆっくりのむので、三匹めと四匹めは彼ののどのところでかならず鳴いた。五匹め六匹めは口に含んだまま長いあいだ鳴かせ、彼の胃袋に落ちついてもまだ鳴いていることがあるという。//朝、彼の足もとにどんなにたくさんの猫が近づいて来ても、のめる数だけ獲る、「さて、今日はこれがおしまいの猫」と言って、古いスリッパをくわえ、猫獲りはひとこえ鳴いた。鳴きながら長い時間かけてのみ終った。》
 
ねこと「あなた」の同一化=重複化は、さらに詩集『のどで猫をいっぱいにして』ですすむ。詩篇「小動物」がそれだ。事前説明しておくと、詩篇のおわりで、「動物」は「うごくもの」とひらがな分解されるが、空間上視覚上それが「うごく」のみでは「うごくもの」の要件をみたさず、愛着の対象外に置かれてしまう。「うごくもの」への惑溺は、それが動物的なレベルで内在的にうごくとみとめることではじまる。詩篇ラストにあるのはそんな哲学ではないだろうか。松井は動物性を人間化せずに自体的にみつめているのだ。この認知があって、第二聯が事後的に「ねこ」か「あなた」、そのどちらを描写しているかわからない遡行作用が起こる。「ねこ」と「あなた」がかさなっているのなら暗喩とみうけられそうなその聯は、ただ動作のズレをともなう分解によっていて、換喩原理につらぬかれている。それにたいし第一聯は時間進展を暗喩する機能がある。その「小動物」全篇――
 
【小動物】
松井啓子
 
片手にも
かすかな重さの ねこは育ち
もう育たずに
陽だまりの
熱いあきびんを追い抜いていく
みじかい背骨だ
 
坂道を走り始めた捨て水のはやさ
こもれ日のこまかさも ひくいところで
みとれたくて
さわりたくて
ひとかけの しょうが色の
猫の目になっている
 
ねこもあなたも
まよこに切れば
にぎわかな断面がこぼれ出る
そう思って
うごくものを
あいさずに
いる
 

 
ねこの可変性は本質的には人間とおなじだ。イヌのままでいるイヌにたいし、ねこのなんたる特権性だろう。いや、イヌもそうかもしれない。そうおもわせるのが、やはり『のどを猫でいっぱいにして』所収の詩篇「煙」だった。ねこが可変的だとして、なにへと「最も」かわるか――松井の用意した解答が「けむり」だ。とりあえず死してねこはけむりとなるが、いきてうごいているあいだも、ねこはけむりではないのか。そんな一首が葛原妙子の短歌にあったような気もするが、いまはしらべるのが億劫だ。
 
ところで「けむり」が話題となって、記号学上のもんだいも起こる。ねこはイヌとちがい本質的には対象化できない――「自分」なのだから。しかも欠性、かけら、無意識、余白、内在する不可知性、触覚などに諸還元される、それは自己内域に現れる斑点や周囲なのだった。ここでチャールズ・サンダース・パースのなした記号の二大分類をおもいだしてしまう。対象を対象外部との類似性からながめられる記号「イコン」(これなら距離を介在させて「描写」することができる)にたいし、それじたいであるしかない記号「インデックス」という対比。このとき「インデックス」は火が煙と不分離になるような自体性を展開する。松井啓子はねこをインデックスととらえているのではないか。そうもおもわせる詩篇「煙」を最後に全篇引く。松井特有のユーモラスなひねりが結末にあるが、それは松井特有の無常観と不即不離でもある。
 
【煙】
松井啓子
 
むきは風で
長さは
焼きあげるものの大きさできまる
 
かまはそこに二つあった
ひとつは人間のためのもので
もうひとつは犬や猫のようなものを焼く
今も昔も変わりなく
死んで生まれた子や 産まれなかった子供の体は
犬や猫と一緒に
小さい方のかまで焼く
 
焼くほどのかたちに育っていないものは
そのまま裏山の土に埋め
掃き集めた草や木の葉に火をつけて
煙をあげ
焼きましたとだけ伝える
 
 

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2015年05月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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