「近藤久也」「柿沼徹」 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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「近藤久也」「柿沼徹」

 
 
【「近藤久也」「柿沼徹」】
 
 
あたらしい詩論をさらに書こうとおもい、昨日からは近藤久也さんの詩集をふたたびよみはじめた。『頬のぶつぶつ』(1995、詩学社)、『伝言』(2006、思潮社)、『夜の言の葉』(2010、思潮社)、『オープン・ザ・ドア』(2014、思潮社)。近藤さんのものでは『生き物屋』(1985、竹林館)と『冬の公園でベンチに寝転んでいると』(2002、思潮社)が未読だが、たぶん前者はご本人にリクエストしなければ入手不能だろう。後者はアマゾンで一冊、一万円で出ていて怯んでいたが、なんのことはない、思潮社に直注文すれば、定価で買えたのだった(昨日の朝、ネット注文した)。
 
いわゆる詩人論を契機に詩論をかくのが正統だとこのごろはかんがえている。それでこそ詩論が個別化具体化すると。いいかえれば詩作概念は作者別にひらかれていて、特異性こそが対象化され普遍化されなければならない。もうひとつ課題があるとすれば、「やわらかい詩作者」を考察することだ。やわらかさを哲学化することでしか詩作精神の活路のひらけないのが現状ではないだろうか。ドゥルーズ『襞』でまなんだ。
 
その意味で近藤さんの詩も誘惑性にみちているが、やわらかさがじつは最も考察が困難だという単純事実を近藤詩は詩篇ごとに体現する。どれもがみごとな構成だが、修辞論的な着眼はその自明性のまえにゆきまよってしまう。近藤さんの詩は省略は熾烈だが自明だ。だが省略の衝動となっているリズムが解析できない。自明性とは不可視性なのだ。かといって悲哀、悔恨、無為、ペーソス、ユーモア、記憶傾斜などといった「主題系」で近藤詩をさばくだけでは、詩の具体的なあらわれから離れてゆく。なにか咀嚼しにくい身体がよこたわっている。このハードルを跳ばなくてはならない。失敗するかもしれないが、こうして公言することで、怠惰な自分を操舵することができるだろう。
 

 
【某日の境】
柿沼徹
 
今朝の雲さえ
なにかの結末なのだろう
日々の終わりに竹箒が立てかけてある
 
蝶を採ってくれたのは
ずいぶん年上の男の子だった
大きな虫籠は
はげかかった翅でいっぱいになった
 
名前も顔も思い出せないのに
その子の原っぱには
ヒメジョオンが咲いている
 
とどいたばかりの「repure」20号に掲載されている上の柿沼さんの詩篇に感動した。行間空白をかぞえなければ10行とぜんたいがみじかいことがまずはうれしい。
 
ずれが各所に仕込まれている。ずれは隣接しえないものが重複しようとして、瞬時その寸前にひらく傷口のようなものだ。読む側はこのひだをひろげ、空隙の空間性そのものをさまよってゆく。
 
一聯目は措辞の恰好の良さにいったん説得されそうになるが、微視的にみれば、「今朝」と「日々の終わり」とが同調しない。この「終わり」は二行目の「結末」から変異が起こった結果だと、作者の想像の移りを忖度することはできるが、「今朝」(単数のいま)と「日々の終わり」(ゆうぐれの複数)の噛みあわない接合面、そのすきまに、いわば時空の層が奥行をかさねている。このねじれた時空に、「雲」と「竹箒」が解答のでないまま配合されている(詩は間歇する二物に対照が起こってぼんやりと俳句化する――むろんそうした錯視には明示性がない)。「むらくも」の黄金を帯びた灰と、「ひともと」の竹箒の、玄関脇のしずんだ孤独。この方程式をとくために架空の視線が時空をよこぎってゆく。読者はその視線の運動のなかに身体をほそめてゆくのだ。
 
二聯目は「記憶の直叙」だろうか。ここにも罠がある。「ずいぶん年上の男の子」という措辞により、一聯目に消失していた詩の主体が関数的に相対化されてゆく。「ずいぶん年上の男の子」がたとえば小学校高学年だとすると、詩の主体は「かなり年下のこども=学齢未満」となるのではないか。一聯目の述懐者を柿沼さんの現状から練り上げると、聯は切断的に遡行したことになり、なにかの飛散まで意識する。この飛散の位置を「(蝶の)翅」が埋め、虫籠が埒のようにとりかこむ位相。ただし「はげかかった」の斡旋が、記憶の感慨を褪色にみちびいている。それでも「いっぱいになった」という言い方に、身体域を超出してゆく「あふれ」があって、語調にせつなさがただよう。
 
三聯目、このせつなさと「名前も顔も思い出せない」像化の不如意がこすれあって静電気をうむ。意識されて、三聯目と一聯目はおなじ三行で形成されている。しぜんに対照せよという誘いがはたらく。どうなるか。たとえば――
 
「名前も顔も思い出せない」「なにかの結末なのだろう」
 
「その子の原っぱには」「竹箒が立てかけてある」
 
「今朝の雲さえ」「ヒメジョオンが咲いている」
 
ともあれ、二聯の「ずいぶん年上の男の子」から受けられた「その子」が「その子の原っぱ」とつながっていって、その愛着のあるよびかたが、「どこにもない原」を指標している感覚がうまれてくる。「どこにもなさ」が「ヒメジョオンを咲かせている」のだ。愛着と不在の架橋。

架橋、と書いて気づく。この詩篇の断絶とずれは架橋的読解をさそうが、とどのつまり空間をわたりつつ「つながらない」「ゆきまよい」が、そのままなしとげられていった架橋なのではないかと。
 
上にスクロールして改めて詩篇を確認してほしい。この詩の主眼は空間だ。空間はずれて断絶をしるすが、ずれの面積のはかれないことが空間性の本質で、それが深淵とよばれるのだと。この着眼が図柄だとすると、その深淵が「なにかの結末」のように「はげかかっ」ているのがこの詩のタッチなのではないか。それでも三聯の語調は祝言のようにかがやきゆれている。
 
となると、さらにこうもいえる――この詩の主体は空間である以上に、「語調」だったのだと。「語調が詩を書く」。そのように書かれて、むろん感情の質も良い。
 
 

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2015年05月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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