愛が生まれた日
【愛が生まれた日】
最近の講義で時間論的なはなしになり、ヴィスコンティ『家族の肖像』でバート・ランカスターがつぶやくことばを紹介した。《いま「ない」ものが、かつて「あった」と、どうして信じられよう》。逆元の位置にある《いま「ある」ものが、かつて「なかった」とどうして信じられよう》であれば、存在の持続に価値を置く、うつくしい述懐だとおもうが、現状の非在性から遡行して、すべての潜勢力を消去してしまう冒頭のランカスターの言い方はなにか認識の脅威と接しているとおもう。そんな映像をまのあたりにして、ゆううつに暮れてしまった。
歌手、大内義昭。経歴はウィキペディアにある以上には知らない。特徴的なのは、地味なロックアーティスト風のルックスながら、独特の声をもっていたことだ。ハスキーでかつウィスパーを駆使するイマどきソウルな唱法で、予想をくつがえす音域のひろさがある。日本的な文脈でいえば、おミズ(水商売イメージ)と黒っぽさの融合。その後のつんくにも共通するが、つんくは裏声に変わる瞬間に声に反転のフリルが生ずるし、シャウトもする。大内義昭はウィスパーのまま声量が茫洋とひろがって、音場に湿潤性のたかい「空気」をひろげ、聴く耳をひたすら戦慄させるのだった。声そのもののムード歌謡的なペダルスチール。幽霊性。
その大内義昭が一週間ほどまえの5月22日に逝去する。死因は食道癌。食道癌や咽頭癌で「独特な声」を冥界にもってゆかれる例が多いのは、やはり発声で咽喉が酷使されるためなのだろうか。けれどもみずからの声に「殉死」した忌野清志郎の存在をかんがえぬいたのだろう、「声」の才能でもあったつんくは、作曲と音楽プロデュースにもみずからの使命がのこっていると捉え、咽頭癌手術で声を喪失しても生き抜くことを勇敢に決意した。代わりに墜ちたのが、大内義昭という「ちいさな星」だった気がする。
90年代前半は日本のヒットチャート音楽の無産期だった。まだJポップブーム突入前で、歌詞のことば数と、跳びのおおきい歌メロのあいだにゆたかな葛藤が起こっていないし、ジャンルがロックでもポップスでも穏当なジャンル意識がヒットのために遵守され、ぜんたいの演奏音そのものにも特異性が生じていない。歌詞もまた、リスナーの自己愛をあてこんだ空疎な励起ソングといえるものが大手をふるっていた(いまもそうだが)。変化への欲動が足りないまま80年代音楽を縮小再生産していたのみならず、チャートを牽引するアイドル歌手まで不在になっていた。
むろんそのなかでも名曲はある。それがどんな理由によるのだろうか、大内義昭が女優・藤谷美和子とコンビを組まされたデュエット曲「愛が生まれた日」がたとえばそれだった。歌詞は初交合を男女双方から運命とかたりあうロマンチックラヴがテーマになっていて、しかもキャンドルライトなどの荘厳要素がある。バブル時代の恋愛のおもかげをひきずっているだけともいえる。作詞は秋元康で、じつは仕掛けは奇天烈ともいえるほどの男女ヴォーカルの配合のミスマッチのほうにあったのではないか。一聴、鳥肌が立つのだが、それがやがて得難い新奇性と納得されてゆくとおもう。
声の配合。ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーなら、ふたりの声がまざりあえばヒップな幸福感を発露した。ザ・バンドのリチャード・マニュエル、リック・ダンコ、レヴォン・ヘルムなら悲哀にみちた幸福が混声の空隙をゆらした。ところが(一瞬「雨音はショパンの調べ」をもおもわせる)ユーロ・ロマンティックなメロをもつ羽場仁志作曲の「愛が生まれた日」では、順繰りにだされる藤谷/大内の発声がハーモニーで融合するとき、融合のままになにかが蕩尽状態でバラけてゆく崩壊感覚が生ずる。藤谷からのことばの粒がのびようとすると、それを大内の声の空気が包み、ことばは抱き合いながら、ゆるやかな錐もみ状に落下してゆき、「狼藉」の幻想がいろどられるのだった。初交合の主題に合うようにみえながら死のにおいがつよいから、その融合はことばそのままが予定する幸福とはけしてつながらない。
唄うすがたもミスマッチで、演奏音ぜんたいに隠れて音の聴こえないアコギを、椅子に坐ってストロークしている大内にたいし、藤谷はスタンドマイクの軸を両手でかるくつつみ、直立して唄っている。藤谷は63年生で、この曲は94年だから30歳をわずかにこえたところ、通常はアイドル視される年齢ではない。ところがいかにも「拍子をとる」ように顎をちいさく上下にふる仕種の少女っぽさが、年齢を超越してこころをうつ。大内の個性的な唱法にたいし、誠実で、下手をいえば唱歌作法どおりの、ふつうの優等生的にして無個性な唱法。声質もなんら突出していない。ただし、にごってはいない。
ところが藤谷がステージやスタジオに立てば、唄うのは声ではなく、「顔=ルックス」なのだと気づく。二重瞼になった藤谷は、眼をすずしく聡明に、しかもどこか悲哀をおびて「わらわせる」表情が稀有にうつくしい女優だった。うつくしさの領域はつつましくちいさい。たとえばオーラといったもので絢爛に外延せず、うつくしさは自分の領域に「のみ」、精確にかさねあわされる。だから実在性が映画などではあった。それは彼女の平面性をも把持する顔の骨格に、原日本人性がただよっているからかもしれない。30歳前後の彼女の顔は、おんなの顔のうち、もっとも好きな類型のひとつだった。
その顔のもつ、「空間の内面」へのあわい反映性が、実際の藤谷の声や唱法にも見分けがたく浸透している。顔と歌の分離できないがゆえに、即製であり、しかも永続しないとおもわせる反世界からの偶然。初交合のよろこびを、すずしいひとみの笑みで、振りもない不器用な立ちすがたで唄う彼女は、画面をみると、「そのあたりにいる」が、しかしその実感が映画などとはちがい、こころもとないのだ。大内の声の空気感にたいし、藤谷は存在感そのものが、きれいな中空だという気がする。
総じていえば、「愛が生まれた日」の大内と藤谷は、顔・声・唱法・歌唱姿勢など、あらゆる面にミスマッチで、ふたりのデュエットは映像にのこされていても、それじたい「実在しているのだろうか」と疑念をいだかせるていのものだった。
そこに冒頭の感慨がくわわる。《いま「ない」ものが、かつて「あった」とどうして信じられよう》。周知のように藤谷美和子は、2005年より芸能活動を停止している。精神を病んだというふうにつたえられる事実が痛ましい。あのころのすずしくわらうひとみは、心情のつつましさにむけてあたえられたとおもえ、精神の苦患などと親和するものではない――だれもがそのようにとらえたはずだが、後追い的な言い方をすれば、その予想の調和が、「愛が生まれた日」の映像のなかで、「うたと同時に」くずれてゆくとみえる。うたが「歌ではない原理的な憂愁」を堆積させてゆく。ものみな歌ときえる。なみだが出てくるような気さえする。藤谷はわたしたちから共苦をひきだす起源の位置にある。おまけに、画像の大内義昭だって死の遠因となった声の特異性をのこすだけでいまはもういないのだ。ふたりがとりあわされることはもう永遠にない。
いま「ない」ものが、かつて「あった」とどうして信じられよう。