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近藤久也について 1 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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近藤久也について 1

 
 
【近藤久也について 1】
 
初期アガンベンがその詩学=言語学で換喩とともに強調したのが、シフターだった。「こそあど」ことば、あるいは一人称からはじまり三人称におわる代名詞としてつうじょう理解されているそれは、文の連鎖(位置関係/継起)を関係づけ、展開させる因子や触媒となる。ぎゃくにいうと、シフターがなければ文は生起ごとに新規化する苛烈さをおびざるをえない。その意味でシフターは了解にむけて進展を緩和させる、送り手/受け手間の架橋でもある。たとえば「あの」と名詞に冠がつけば、とおさにたいし送り手/受け手が一瞬にして共同化する魔法まで生じる。
 
シフターがなく、たとえば空間内の了解性がたえずきびしい審問に付されるのが江代充の詩だとすると、近藤久也の一部の詩では、無媒介に語りがはじまり、語調のやわらかさにはんして了解が遅延する定則がある。これはシフターのあるべき位置が抹消され、シフターの出るべき衝動が一種の倦怠感により減殺されているためだ。詩行の連鎖はたしかにその瞬間にそれ自体でありながら、数行後に「読後了解」も生じてくる、いわば「是正のひかり」を反復させる。それだけではない。詩行は隣接をのばすように進展するというより、まえの部分をうしろが併呑してゆく、「入れ子の外延化」として無輪郭にしずかに膨張するのだ。このながめがとてもふしぎで、これは目立たないながらも近藤久也の詩の特許ではないかとおもうことすらある。
 
近藤の第二詩集『顎のぶつぶつ』(1995、詩学社)から、詩篇「釣の夢の記憶」をとりだし、この近藤の詩法を吟味してみよう。意味形成の区分ごとに原典を引くが、じっさいは聯が存在せず、ぜんたいが空白行なしにぶっきらぼうにつながっていることをお断りしておく。
 
どこにいるのか
解らないんだ
陸〔おか〕の上で竿を握っているのか
鈍く光がさしこんでいる水の中で
息をひそめているのか
海底の泥にもぐりこんでいるのか
目や耳ってやつはどこにあるのか
つまり俺は
釣っている人なのか
釣られようとする魚なのか
震える竿先なのか
あるいは海の中の釣糸なのか
 
「どこにいるのか/解らないんだ」というぼやきには、日本語特性が活用され、主語が省略されている。「だれが」「なににたいして」そうおもっているのかが欠落したまま無媒介に書きだされ、しかも「ある」ではなく「いる」としるされていることで、事物ではなく動物の気配がうっすらとたちのぼってくる(これはその後の修辞でもつづく)。そのあとは疑問文の連鎖で、「のか」の語尾がつづき、フレーズの繰り出しにリズムをつくっているのは見やすいが、じつは連鎖が空間の明瞭化ではなく惑乱をしるしづけるような異変がはたらきはじめている。
 
「陸の上で竿を握っている」から釣の光景がうかび、いったんは一人称とおぼしき「位置」が常識内に定位されたのち、視点というより発話位置がどんどん潜行してゆき、「水の中」「海底の泥」と想像領域がくらくひらけてくる。在ることを根拠づける空間上の座標がぐらぐらしていて、詩を書いている主体ではなくむしろ座標のほうが動物化してうごきだしている逆転がある。
 
そのなかで主体は、部位のない身体となる。まず「目や耳」の分節が不明瞭化してヤツメウナギのように形状そのものが退行し、結局「主客」が不明性のままに均衡する。つまり「釣っている人」なのか「釣られようとする魚」なのか、という疑念。それでも主体から客体への把握をいなみ、主体と客体双方の共同から主体と客体の存在を配分し、「あいだ」をもとらえる西田幾多郎的な「主客一如」の明晰や幸福と認識はつうじあっている。むろん「釣人」といわず「釣っている人」としるされる修辞の間接法は、微視的にはぎょっとさせる。そこにも離人症的な自己把握が揺曳しているためだ。しかもそれが現在形だという点になにかの侵犯がある。
 
ともあれ引用部分のうしろから五行目の「俺」で、冒頭の無媒介性が是正される。シフターが遅延してあらわれ、疑問文の連鎖における「疑問発信地」を定位させたのだった。ところがそれに抹消線が引かれかかっている寸止め感のほうが、むしろこの詩の立脚点であることに注意しなければならない。
 
たとえば「(俺はじぶんが)/どこにいるのか/解らないんだ」というふうに、自己再帰をしるすシフターが冒頭から脱落したのか。たしかに無限定性こそが限定(の期待)にフォーカスをあてはじめるという叙述の「こつ」もあるだろう。けれども自己再帰性をしめすシフターこそが減少や欠落にさらされなければならないという哲学がここに伏在しているのではないか。
 
ひとはとつぜんおそろしいことに気づく。たとえば「麦秋をあるいた」と書きだせば、おうごんにゆれる麦畑をあるかせている動因が「わたしのわたしへの再帰性」であり、それは影のようにあやふやで、この可視化が深甚な不可視性をあわせもつのだと。たとえば芭蕉《朝顔に我は飯食ふ男哉》に出てくる「我」ですら「我に飯を食わす再帰性」であり、同時に朝顔に反照されて不可視性の域に溶けだしている。この句に隠れている「I am a man」の構文が日本語として奇異で、だからこそ代替的に不可視性が分泌されるというべきかもしれない。
 
むろん「釣」も「釣をする自分自身こそをくらく釣っている」。魚信=「当たり」を待つ自分が「的中」を待っているのはむろんだが、カフカ的にいうなら「一致」は死なのだから、待つ主体が解消されることで待つことそのものが霧消するまでが「魚信待機」なのだということもできるだろう。ブランショのような物言いだが。さてそれまでの連鎖が上の引用部分なのだとすると、この連鎖はじつは連鎖性を欠いている。連鎖性があるとすれば、主体の抹消可能性においてのみ連鎖が演じられている。その意味で「減喩」的展開とも連絡しているのだった。
 
でも
総じて釣の夢なんだ
釣の夢はいつだって
おちつかず
どきどきしてるんだ
永遠に
釣る、あるいは釣られる寸前なのだが
その瞬間はついにこない
朝なのか昼なのか闇なのか
そんな事もわからない
 
「でも」の二字で一行が形成され、まえの文脈からの逆転があわく、かつ、つよく印象づけられる。転調は語尾のもたらすリズムの面にもあらわれる。疑問形をしるす「のか」の連鎖は、冒頭の「どこにいるのか/解らないんだ」の「んだ」に復帰して、この復帰により、それまでの連鎖が無化されるのだった。
 
主客も、場所も、魚信期待の可能/不可能もわやわやに溶解していた、意味論的には危なかった「以前のすべて」は「総じて釣の夢なんだ」という包含的な位置づけによって、いろいろな付帯作用を分岐させてゆく。まずは釣がつよい慣習となっているひとの、慣習から夢への、抵抗できない浸透。たとえばおなじく釣が趣味の佐々木安美の詩では、釣は夢にまでは浸透しない。それは川釣りにゆく自分の妄執が寂寥のうちに客観視され、釣をする自分と周囲が物侘びて世界化されているためだ。ところが近藤久也のこの詩では、主客一如がひとつの病相を呈し、結果、みる夢がゲル状の壊滅状態にまで組織をかえられている。
 
ところが、その「釣の夢」が、「おちつかず」「どきどきしてるんだ」と述懐されるとき、自己破滅、あるいは自己の位置の破砕がマゾヒスティックなスリルをともなっている点が問わず語りとなる。音楽好きの近藤ならたぶん絶対に一旦執着したはずのボブ・ディラン、その歌詞にある「大丈夫さ、ママ。血をながしているだけなんだから」と似た境地をふと聯想してしまう。
 
むろんやさしい語調にみえて不安定な近藤の詩は、「減算」を使嗾する。「釣の夢」から「釣」が引かれて、「夢はいつだって/おちつかず/どきどきしてるんだ」という構文が自然、錯視される。夢の属性そのものが不定の鼓動性につらぬかれてエロチックにあえいでいる、と事態が不穏当に歩をすすめる。しかしなぜそうなるのか。
 
夢に「朝」「昼」「闇」の弁別がないのは、夢が観察能力をうばわれ、関係性だけに意識をはらう徹底的な主観世界だからで、じつはそこに客観世界など現前していない。ところが現前は「寸前」におさえられていて、それが夢から脱出できず受動態でいる当の者を「どきどき」させる。釣る、釣られるの「一致」は主客の配分を割り、自己再帰性の媒質である鏡を割り、いっさいが破壊されてゆくおそろしさを予定するが、それがみられる夢であるかぎり、あるいは存在が意識として存続するかぎり、「その瞬間はついにこない」。
 
この言い方には諦念がひそむが、あたかも綜合すれば、「予感」は「諦念」に裏打ちされて〔裏箔されて〕、ほんとうの動悸的な「予感性」を完成させる〔鏡面化する〕、といわれているかのようだ。事態は「釣」を媒介に、意識論の真諦にまで突入した。単純化していえば、限界が無限界的なのが――あるいは無限界が限界的なのが意識だという、融即の法則が、近藤久也の詩文にはたらいているのではないか。
 
なぜそんなことまでもがいえるのか。それはやわらかい詩の、やわらかい徴候を蒐集することで可能になる。シフターの後置は、シフターの当面不在な局面を、一致の期待によってつなげる。不在がこうして連鎖の前提になるというのは、そのまま融即的であるといえる。主客区分の溶融の予感もそうだし、前段を後段が包含的にのみこんで、詩行が進展ではなく、入れ子の外延として現象する組成じたいも融即的だといっていいだろう。
 
もちろん、やわらかさが一筋縄ではゆかず、哲学的思考の断片をきらめかせる詩作者はおしなべて、その秘儀の位置に融即性が機能している。男性詩作者の例をだせば、前言した佐々木安美のほかに、現存者では松下育男、高階杞一、大橋政人、柿沼徹らがいる。すべて語彙から詩語性をとりはらい、「減少」をもって詩の内在性を空間化する厳密な詩作者たちだ。むろん減少は語彙だけではなく、省略というかたちで修辞をも織りあげる。「やわらかさ」と「熾烈さ」が同時に出来する関係性こそに、詩ほんらいの逆転の幻惑があるのだ。
 
ねえ、
もしかして
生まれる前って
こんなふうでなかった?
 
「それ以前」をすべて括弧にくみいれて、「その後」の文言がさらに入れ子の外側をつくるというこの詩の法則は、この最終四行によって完成をみちびかれる。夢の渦中の「こころもとなさ」が、なにかの圏域に内包される意識の通例だとすれば、それは母胎内の意識化できない体験に淵源があると示唆されているのだ。
 
麦秋をあるけば、からだをつうじて自分自身をあるかせる自己再帰性が運営される。朝顔にむけて飯を食えば、からだをつうじて自分自身を食餌にみちびく、可視性のなかの不可視性がゆらめく。ところが母胎内に「いる」ことだけは、自分自身をそこに「いさせる」再帰性ではなく、「いることじたい」であるほかない。なぜなら「いないこと」と「いること」の融即性に、母胎内存在が充実しているためだ。
 
「釣」→「(釣の)夢」→「母胎内体験」と、この詩は展開領域を入れ子状に変化させてきたが、最後の「母胎」にいたり、遡及的に「それまで書かれていたこと」を変質させる。すべて「生まれる前」とおなじではないかという、疑問じっさいは比喩によって、「いること」と「いないこと」のあいだに融即が生じ、結局、魚信を待つ「釣っている人」も「釣られようとする魚」も無差異性を完成させ、釣の実景も釣の夢も同一になり、「一致」と「寸前」も等価となる大融合がおこる。つまり「意識」は大融合の寸前にある不如意をかこつことにより、逆に意識として完成されるという哲学がみえるのだ。
 
これは達観だろうか。ちがう。やはり近藤久也のほかの詩のありかたをみても「不如意」というべきだ。それこそが近藤の詩の「味」なのだった。
 
(この項、つづく)
 
 

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2015年05月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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