ザ・トライブ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ザ・トライブのページです。

ザ・トライブ

 
 
【ミロスラヴ・スラボシュビツキー監督『ザ・トライブ』】
 
去年のカンヌ映画祭で批評家を、その独創的な映画文法で驚愕させたウクライナ映画『ザ・トライブ』に心底、戦慄してしまった。形式に前例のない暴力映画といえる。わずかに、かたちはちがうがこれまた独創的だったガス・ヴァン・サント監督『エレファント』を想起したくらいだ。高校生を主軸に、一国家の腐敗を鷲掴みにする握力がたがいに似ているのだ。
 
全篇、聾唖者しか登場しない。したがって科白発声がない。手話は画面のうえで人物からしるされるが、多くは複数人数が画面に収まり、同時多発的に手話が繰り出されるので、ひとつの手話を中心化して翻訳する手話字幕が機能できるわけでもない。結果、全篇は日本版でもどこでも字幕なしの上映となり、手話が慌ただしい仕種のみへと減殺された「ことばのない世界」が衝撃的に現出することになる。
 
冒頭、バスに乗ろうとしている少年が、クルマのゆきかう四車線越し、簡易なバス停ちかくにとらえられる。幌で二台分を連結された、日本では見たことのない長い車体のバスがやってくる。画面はロングのフィックス。長回し。フレームにインするものとアウトしてゆくものの交錯が、ぶっきらぼうにとらえられる。少年がバスに乗車したのちも、赤ん坊を連れた、別の行き先の主婦がバス乗車するまでが、(のちに判明するが)「物語」に無関係にそのまま画面へ把捉される。もちろんクルマの走行音など現実音はそのまま画面の音声トラックにおさめられている。
 
この映画のスタンスがわかる。世界はうごきで構成されている。音で構成されているわけではないと。少年が建てられてのち経年劣化した建物にやってくる。入館したいのだが、窓越しにみえる掃除婦は入口として横方向を指さす。その指示どおりに画面手前の少年がフレームアウトすると、カメラはガラス窓越しに建物の内部をみつめだす。一階エントランス。画面内フレームのむこうでは、手持ち楽器をちいさく鳴らしながら、学齢期の子どもたちの卒業式とおぼしきものが挙行されている。
 
式のすべてが終わり、縦構図は校庭から校舎へともどってくる子どもたちのながれを、うごかないままに記述しだす。校長、教師たち、さらには挨拶し、花を手渡す子どもたち。そこでのひっきりなしのコミュニケーションがすべて手話でなされることから、そこが地域に立脚した大規模な聾唖学校だと見当がついてゆく。さらにそれらうごきがすべてしるされたのち、やってきたあの少年が縦構図でとらえられた画面の最もロング位置、校庭の一角まで迂回して、ようやく校舎の敷地にはいりこめたと判明してゆく。少年は転校生なのだろう。
 
注意しよう。場所、関係性、動機、物語展開などは、字幕という文字情報が一切ないなかでは、「見たもの」を帰納し、さらに演繹するこの二重性により、かならず遅延の体系として成立するしかない。冒頭ふたつのシチュエーションは、このことを端的にしめす。物語に属する領域、その因果性の了解は、むろん言語表象が存在しないのだから不全になる。関係性の予想が、普遍的な図式と照応され、ぼんやりとわかるだけだ。もともと詳しい審級の了解を映画じたいがもとめていない。「うごき」、それの基盤となる多数の身体を、みえるままに画面の瞬間瞬間で把捉せよ、というように、映画はただ「見えるもの」を自己展開させる。
 
校長室での転校手続き。授業中の教室に呼ばれての、教師による、とても説明的にはみえない転校説明。地図をひろげて、手話のやりとりでなされる静謐そのままの社会科授業。授業時間終了はサイレンやチャイムではなく、黒板上の照明器具が点滅することでしめされる。やたらに広大な学生食堂。まだ孤立無援の、定食をトレイにとった転校生の少年が、席をテーブル群の端にみいだす。坐ると正面にいるのが、ややダウン症めいた風貌の同級生。そいつに食べ物を奪われてしまう。それら変転もまた、音のないままに連続してゆくだけだ。
 
画面文法の基礎としては、フィックス=固定ショット以外に、人物のうごきをひたすら追いつづける前進移動もある。後退移動はない。つまり画面は静かに立ちすくんで人間によってなされる世界内の分子運動を受動的、もっといえば茫然とみつめるか、人物のうごきに遅れまいとそれを追わされるだけで、カメラのうごきによって人物のうごきを使嗾するような錯視をみちびくことがない。世界はカメラにたいし先験している――その鉄則だけがまもられるとすれば、暴力をえがく映画なのに、立脚が謙虚きわまりないという、いわば二重性のようなものがこの映画に透明に浸透していると了解されてくる。
 
ダウン症めいた風貌の同級生に食べ物をとられたのち、転校してきた少年は、見た目に不良グループとわかる少年たちに、食事に一切手をつけないまま連れだされる。校舎裏での強制的な持ち物検査。喫煙。やがて校舎内に画面が移ると、廊下を挟んで相部屋が並ぶ建物構造があらわになって、そこが全寮制寄宿舎だとわかってくる。相部屋のベッドのどれに眠るかで更新される学内ヒエラルキー。ひとつの扉があけられると裸身の女子生徒が着衣の女子生徒とともに捉えられるが、カメラにからだをみられたことの抗議があまり出ない。学校全体が「悪」にわだかまり、荒廃の臭気を発し、希望なき状態にあるとわかる。
 
「希望性の欠如」はなにから出来しているのか。まずは聾唖という身体上のハンディキャップからだろう。だがそれよりも領域のひろい荒廃がおおいつくしていると映画が進展するにしたがって判明してゆく。不況。汚職。売春。麻薬。あっけない死。堕胎。労働疎外。低賃金。暴力連鎖、報復連鎖。こののちあたえられてゆくシチュエーションはこれらどれかのなかに位置づけられることになる。
 
さて、文字指標のない「この世界」の具体的な場所とはどこなのだろう。ロシア文字が字幕説明なしで表象されればそこが旧ソ連圏のひとつだとはわかる。降雪のある土地。純粋に映画のみを観る一回的体験では、エンドロールの終わりに「ウクライナ」の文字がみえるだけだ。転校してきた主人公の名前だって明示的に発声・字幕処理化されないから、それが「セルゲイ」とわかるのもエンドロールのうえだし、彼が恋することになる同級生少女の名前「アナ」も同様だ。この映画では固有名はすべて潜勢の域にしずんでいる。それを寓話性への配慮といっていいかもしれない。
 
校庭隅の倉庫めいた場所のまえで、転校生の少年(以下、面倒なので、指標がないのを承知で「セルゲイ」と表記する)が通過儀礼に遭う。日本式にいえば「根性試し」だ。殴り合いが強制される。発声の一切ない静謐のなかで、ゴツッ、ゴツッとこぶしがからだにあたる物理的な音だけが響く。周囲を生徒たちが取り囲んで、複数の手話を多方向に交錯させて「評定」がおこなわれている。
 
現実音があるといっても発声がないのだから、映画の表情はサイレント映画と共通するとおもわれるかもしれない。それがあるとするなら、うごきに間合いがとられず、連続的に展開することで、時間進展に遅滞のない点があげられるだろう。あるべきものが提示されると、それがうごきの連続によって「無駄なく」進む。容赦のないほどだ。そこではうごき本来の夢幻性が漏出される。
 
映画が荒廃の蠱惑を真に発揮するのは、深夜、運転手が睡眠をとる長距離トラックの駐車基地が現出するあたりからだ。扉をあけられ裸身をさらされた前述女子学生と着衣の女子学生のふたりが、ワゴン車に乗り、後部座席で、街娼用の衣裳と化粧に鞍替えしてゆく。ひとりの男子学生がいわば黒服のポン引きの役割となり、女子学生ふたりをひきつれ、蝟集しているトラック群の隙間を練り歩く。彼らをはこんできたクルマからのヘッドライトの投射により、暗闇におんなふたりのミニスカートによって露出された若い脚が強調される。ポン引き役がトラック群のフロントガラスを次々にノックし、就寝中の運転手たちから「需要」を喚起する。筆談による値段交渉。交渉が成立すると、女子学生がそれぞれの場所(トラックの助手席)にはいりこんで、たいした前戯もなしに性交を開始する(それはのちの同一シチュエーションでわかる)。
 
ここでも駆使されるのは、人物たちのうごきを後追いする切れ目なしの前進移動だ。こういうショットが『エレファント』との類縁をもしるしづけてゆくのだが、暗闇にうかびあがる娼婦の夢幻性ならたとえばニール・ジョーダン『モナリザ』などを、トラック運転手へのからだの提供ならば、廣木隆一『ヴァイブレータ』などもおもいだしてしまう。
 
やがて転校生を中心にしながら、それでも学生世代の聾唖者の「群像」、その荒廃をえがいてきたこの映画は、人物の中心化をむかえ、物語とよべるものを滑走させることになる。序破急の呼吸が生じはじめ、音のない世界特有の催眠性が、事態の急迫にたいする覚醒にとってかわられる。物語作法ということでいえば、「起承転結」は構築的で、じつはそこに人工性を嗅がせる。とつぜん終幕に向けて叙述がエンジンをふかす序破急こそが、語りにリアルをあたえると確認すべきかもしれない。
 
ポン引き役の男子学生があっさりトラックにより轢死する(その描写のぶっきらぼうさは、その信じられなさがかえって現実的だといえる)。代役をセルゲイが担うことになり、売春する女子学生のうちのアナとのあいだに、「解消されず」「昇天しない」ラヴストーリーの骨格ができあがるのだ。セルゲイ役の少年がメドベージェフ・タイプの風貌なのにたいし、アナ役の少女が、おんなながらにプーチン・タイプの風貌なのは、なにか意図があるのだろうか。
 
セルゲイがアナにたいし恋に落ちた具体的な瞬間は画面進展のなかに特定することができる。トラック運転手への売春交渉が成立したアナが、車内ライトをつけられているなかで、後背位で運転手に突かれ、フロントガラスにへばりついて「音のない」歓声をあげているすがたを、もうひとりの女子学生を斡旋したわずかののちに、セルゲイが「見た」ときだ。いわば共苦のようなものが作動した。わたしたちはなぜこんな苦界にいたままになっているのか。その共同認識が、アナの実在性によって灯されたとき、その認識がわかちがたく恋に変貌したということ。これが心情の純粋性を裏打ちする。
 
娼婦商売の掟を破り、トラック基地の脇、倉庫めいた建物の内部で、セルゲイとアナは初交合する。最初キスを迫るセルゲイに、アナは応じない。たぶん手話で熱烈な恋情告白がセルゲイからあったのだろうが、アナは決まりどおりのフェラチオでセルゲイの欲望を処理しようとする。それが次第に体位変化をともなう白熱した性交に発展してしまう。ぼかしがはいっているのでわからないが、実際に挿入されていた気配がある。オール素人の実際の聾唖者が画面に狩りだされている作品の結構から、そのように予想するのだ。
 
観客のだれも登場人物の声を聴くことはないはずなのに、じつはアナだけには声の発露という特権がゆるされている。言語化されず、脱分節性をしめしているだけとはいえ、そのよがり声=喘ぎを画面にひびかすのだ。アナはのち、麻酔なしの乱暴な掻爬手術での痛みに嗚咽する叫びも、聴く者をゆううつにさせずにはおかない強度で、画面進展に刻印してしまう。
 
商品としての女子学生を、ポン引き役の男子学生が我有化するのは、悪の世界ではたえず掟破りにちがいない。俄かにセルゲイのいる周囲に緊張の気配が兆しはじめる。アナは妊娠してしまった。相手がセルゲイか客かはわからない。トイレで検査薬をつかい、妊娠の判明した彼女は、やがて組織(トライブ)の手配により、集合住宅の一角、その風呂場で前言したような痛ましい掻爬手術を強要されることになる。下半身が裸体のまま両脚がふといゴム紐で固定されて持ち上げられた横からの位置でとらえられるアナ。子宮内部が文字どおりに「掻きだされ」、嗚咽とも悲鳴ともつかぬ叫びをアナは抑えることができない。このときの施術者の中年女も聾唖者で、やりとりはすべて手話でなされていた。聾唖者が正規の産科医になることはありえないだろうから、この女は聾唖学校のOGで、後天的に掻爬技術を取得した、俗にいう闇医者だろうと見当がつく。
 
アナやその同室者の熾烈な売春の動機が想像裡ながら判明するのは、とつぜんイタリア大使館の入口まえの歩道に、さまざまな年齢の人びとがならび、そのなかにアナと同室者、さらには書類手続きのために労をとっているセルゲイのすがたが横移動してゆくロングショット全体でしめされるときだろう。イタリアへのパスポート取得の「代金」のため、彼女たちはおそらく学校内の元締の中間搾取にあえぎながらも売春行為に堕ちていたのだ。「類推的に」このことがわかる。パスポート取得には硬直した外交組織への賄賂が要るのかもしれない。ともあれ売春少女たちの夢は、閉塞する世界から陽光の世界への脱出だったはずだ。
 
作品は終幕ちかくの「急」の部分で、惨劇のめまぐるしい連鎖になる。セルゲイとアナがどのように将来を提案しあったかはわからない。蓋然性から解釈すれば、聾唖学校から脱出するためのカネは自分が捻出する、だから妊娠の危険のともなう売春行為から抜けろ、一緒にここを出よう、とセルゲイが提案し、それにたいしアナが懐疑的な言明をしたにちがいない。ふたりの仲には脆くも暗色がたちこめる。
 
希望と欲動を相手にじかに封印されてしまったセルゲイが、相部屋で就寝中のアナをレイプまがいに手籠めにするシーンがある。部屋に侵入したのに、同室の女子学生は気づかずに就眠をつづけている。あるいはレイプの実際に変化したときにも、アナがたてる悲鳴や安ベッドのはげしい軋みにも気づいて起きるようすがまったくない。理由は知れている。「耳が聴こえない」からだ。これがいわば、終幕ちかくの惨劇の連鎖、その伏線となる。
 
ネタばれになるので、作品の終わりの帰趨はしるさない。セルゲイはひとつの通過体、それもみてはならぬ通過体だとのみ、暗示的にしるしておこう。それでも「通過」は希望にのみゆるされる運動なのではないか。
 
以下、焦点化――。振り上げられたベッド脇のサイドワゴンによって、就寝者の頭蓋骨が次々に破砕される運動が持続するのは、それが「音のない世界」だからだとはいえる。ところが登場人物には音が現象しないが、観客はいわば「その場」に証言者としてひきずりだされて、「音を聴いている」。鈍い物理的な音が、黒沢清のぶっきらぼうな暴力シーン同様に、しかもこちらは連続音としてつづく。静謐の前段があるからひとつひとつ現象する暴力音が初回的なのが悩ましい。しかもこの作品の長回しの法則によってカットが割られていないのだから、就寝者の頭部から血が流れだす連続性が生理的な恐怖を増幅してゆくままになる。ほんとうに怖いのだ。
 
暴力は粉飾なし、カット効果なしの「丸ごと」でとらえられて、なにか理知の産物から、理知いがいの動物性へと不気味に回帰する。その表象の中心が「音」で、それは証言者の場所に立たされた観客だけに作用している。意味的に孤立する音が、観客の集団性を個別に孤立させる。ひとつの脳裡ごとに音の暴力がごつごつ鳴りひびく。息をのみこんで、そのまま窒息へと導かれる臨場感さえある。とはいえ、わたしたちはどの審級の真理にむけて「臨場」しているのか。そこでこの映画を観ている体験そのものが内在・遡行的にとらえかえされることになるだろう。
 
凶行連鎖のまえ、図工教科があって、そこで男子生徒たちが、設計図どおりに木槌をつくらされている局面がある。セルゲイのつくった木槌は精確で及第点を得る。まさにその木槌で、図工教師への凶行がおこなわれる。その図工教師はじつは売春組織の根幹のひとりだった。つまり生徒のみならず教師がらみで腐敗がかためられていた。セルゲイはその教師のアジトともいえる図工教材室に木槌殴打ののち侵入し、金銭を荒々しく物色する。そのなかにビニール袋詰めの白い粉を数々発見する。覚醒剤だとおもうが、なにしろ科白内容が明示されないので確証はない。ともあれその戦利品をもとに、セルゲイはアナの寝る相部屋へと、真夜中に侵入したのだった。
 
監督はこれが長篇第一作のミロスラヴ・スラボシュビツキー。この作劇で製作が合意をみるとした見透しまでふくめ才気は疑いない。むろんゆるぎなく、たくらまない視覚性だけで映画の意味がつたわるという、映画への信義もうつくしい。しかも作品はウクライナの全土的な腐敗を、寓話的に圧縮していて、それが作品の公然化の動因ともなっているはずだ。衝撃作、という形容は、こうした全体からもたらされる。
 
5月30日、札幌シアターキノにて初日鑑賞。土曜午前の時間帯にもかかわらず、中年以上の観客が多くつめかけ、なかには聾唖者グループと判明するひとたちもいた。池澤夏樹さんがちかくに坐り、端正な姿勢で鑑賞していた。
 
 

スポンサーサイト

2015年05月31日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

書き忘れたけど、『ザ・トライブ』はたとえば小林桂樹・高峰秀子の聾唖者夫婦をえがいた木下恵介『名もなく貧しく美しく』とは作品の構造がまったくちがう。木下作品は結局は聾唖者夫婦の「声のなさ」を周囲の有声世界が取り囲む構造だった。夫婦間での手話のやりとりすら、無声化された有声世界、つまり了解可能な減算状態として存在しているだけだった。いっぽう『ザ・トライブ』は「ことばのない世界」の内在的で熾烈な葛藤を、逆・神学としてえがいている。その意味でこそ、サイレント映画へとつうじているのだ。そういえば聾唖者のアクションのサイレント映画性としては北野武『あの夏、いちばん静かな海。』にたしかにすぐれた着想があった

2015年05月31日 阿部嘉昭 URL 編集












管理者にだけ公開する