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近藤久也について3 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

近藤久也について3のページです。

近藤久也について3

 
 
【近藤久也について 3】
 
 
ロダン「考える人」に彫刻されたおとこは、どんなポーズをとっていたのだったか。あらためて画像検索してみると、ほぼ脚をそろえ爪立ちで岩にすわり、左腿のつけねあたりへ右ひじを置き、右手はこぶしをつくってそれが口もとをささえている。長時間ではしびれたり、痛くなったりしそうだ。ずいぶん窮屈な恰好。とうぜん「とどく」ために上体も前屈するが、からだぜんたいのこころが収束するばかりとみえる。
 
かんがえるためには再帰性が要る。「かんがえるわたし」をわたしじしんが意識するのではなく、じつはかんがえる対象を脳裡にころがして俯瞰気味でためつすがめつ眺める、といった、対象定位にかかわる再帰性がうまれるのだ。デカルトじゃないんだから、かんがえるのにわたしは要らない。ところがロダンは徹底された思考には物質化された自己定位と緊張がともない、それが身体のしぼりまでともなうととらえたのだろう。それで上記のすがたとなった。
 
この彫刻にたいする嫌悪はたぶんその全身ポーズが、ご苦労さんとかんじて起こる。深刻癖といってもいい。じっさいリラックスする思考は無心こそを予定していて、「からだの部位が」「べつの部位を」なにかする再帰であっても、せいぜいが自慰か、あるいは椅子に坐り、てまえの机に肘をついて、てのひらが頭蓋の鰓をささえる頬杖ていどが適当なのではないか。それなら上体はまっすぐさを面倒にして傾斜するし、腕と頭のあいだには空洞ができて風がとおるし、成語「頬杖」もからだの仕種にかかわるものなのに、そこへ木篇をたちあげたりする。
 
斜めの思考。空洞の思考。木篇の思考。それらあわさらないものがあわさるのが思考にひつような余裕なのではないか。仕種のなかに仕種を入れ子で浸透させるのだから「かいやぐら」だってみえる。加藤郁乎『球体感覚』中の秀句《海市この頬杖くゞるおもかげや》をおもいだす。
 
この言わずもがなを前段にして、近藤久也『頬のぶつぶつ』から標題詩篇を全長で引いてみる。前回どうよう、詩行あたまに話の便宜のため序数を付すことをゆるされたい。
 
【顎のぶつぶつ】
近藤久也
 
1 畳の上にすわって
2 片膝を立て
3 その上に
4 顎をのせる
5 背骨のラインは
6 くっきりとしているが
7 なにか苦労じみてみえる
8 その姿勢で
9 新聞や本を読むのが好きである
10 私だけかと思っていたら
11 或る日
12 妻もそうだと告白する
13 (人はなかなか快楽を他言しないものだ)
14 さいさい顎を膝にのっけていると
15 そこの毛穴がぶつぶつと
16 隆起してくるものだ
17 そのぶつぶつを妻と時々
18 撫であったりする
19 ちゃぶ台をはさんで
20 私と妻は顎を膝にのせ
21 向かい合ってなにか文字を読んでいる
22 (私は原始のひとの姿を想った)
23 正座や胡座では
24 そのままじっと残れぬが
25 この姿勢だと
26 そのまま何千年か後に
27 化石となって残れるような
28 妙な気分である
29 幸いこの姿勢には
30 正座や胡座といった呼び名も無い
31 だから
32 何千年か後に人が
33 私たちの化石を目にした時
34 これはきっと人類とはちがう生き物だ
35 けれど何か苦労じみて見える生き物だな
36 そんな感想を顎と背骨のあたりに
37 感じてくれぬものか
38 そんなふうにうまく騙せぬものか
39 顎のぶつぶつはもう消えていたとしても。
 
1~4行、「すわって」「片膝を立て」「その上に/顎をのせ」、足もとにひろげた新聞やら本やらを読んでいるすがたは、厳格な父母にになら見とがめられ、だらしがないと叱声をうけるたぐいだろう。背中が猫になるし、字の書かれた神聖なものはゆかに置いたりしない。だいいちゆかが畳敷きなら新聞印刷のインクあぶらでよごれてしまう。
 
22行目にこのポーズは「原始の人」を想わせるとあるが、それは詩の主体の都合の良い思い込みで、実際はやることのない檻のなかのサルたちの姿勢に該当する。そのように腕が長くみえるのはよくないし尻と「地べた」の直接感もなにか「にんげん」として陰惨なかんじがする。だいたい「姿勢」(8行、25行)ということばは、石原吉郎の詩篇ではもっと由緒正しく崇高なものだったはずだ。
 
7行め「苦労じみてみえる」が最初の関門だ。まずそこで主観客観のふれあわない惧れがある。つまり「苦労じみてはみえない」という異見があるはずなのだが、それがすでに発語の途端に遮断されているのだった。
 
それでも読者はかんがえる。最もリラックスした適合的な姿勢がどんなものであれ精神の質そのものには適合しない。そういう齟齬が「苦労じみている」のではないか。からだの一部位から別部位への再帰性が自己定位を盤石にするとしても、それがみられてしまうのは恥しく、ひとの苦労がつきないのではないか。
 
子どもがとりそうなポーズなのに、背骨はまがり、背中からごつごつうきあがって、これが翁や媼のような侘びたたたずまいをまきちらすなら、童-翁の連絡そのものが、ひとの生ではひとつの「ご苦労」なのではないか云々と。
 
リラックスすることは、社会的にはうつくしくない(という時代があった)。むろん家庭内では親和的だ。おさない子どもは平気ででんぐり返ったりしているが、社会でならそれは色情窃視の的となるかもしれない。近藤のこの詩はひとつの仕種論、身体論をメタ次元では形成しているし、おなじ仕種の反映をつうじ付帯的には夫婦間の交情をえがいてもいる(10~18行)。
 
ただし「苦労じみてみえる」「だらしのなさ」は、じつは言語論にまで飛び火している。ライトヴァースに仕組まれた、そこで近藤の言語感覚のするどさに直面せざるをえない。同音反復語の頻用がそれだ。これらがそのまま発語のうえで「苦労じみて」「だらしなくみえる」のだった。
 
列挙しよう。「なかなか」(13行め)、「さいさい」(14行め)、「時々」(17行め)、「まま」(24行めと26行め)。そして同音反復語頻用の高密度地帯に、満を持してこの詩篇の主題、生理的に気持わるい「ぶつぶつ」(初出は15行め)が登場する。通常は稀用語彙だろう「さいさい=再々」が斡旋されたところから、同音反復語のパレードがこの詩篇の言語論的な主題だとあきらかになる。この「さいさい」が29行め、類音の「幸い」へ変貌するのもみごとだ。
 
同音反復は詩篇ぜんたいの修辞に、間歇を挟んだ反復をも組織する。たとえば筆者は詩文が「である」の語尾をもつと途端にげんなりするが、意図的・揶揄的な「である」であれば承認する。9行めと28行め、二度にわたる「である」は天秤のように釣りあって間歇のつくる時空をささえているし、「苦労じみてみ〔見〕える」(7行/35行)、「正座や胡座」(23行/30行)もどうようだ。二度あるものは実在をつくりあげる。
 
さて14~16行をもういちど俎上にのせよう。《さいさい顎を膝にのっけていると/そこの毛穴がぶつぶつと/隆起してくるものだ》。「ものだ」という語尾の魔法。いつのまにか読者への説得を完了させている。ところがこの構文、掲出2行めの「そこ」が、「顎」「膝」のどちらを指すのかで一瞬、判断がゆきまようのだ。だいいち、直後の17行めでは妻にもぶつぶつがあると判明する。けれどもじっさいは妙齢である中年おんなの膝はエロチックにつるつるしているのではないか。顎なら、ぶつぶつがヒゲを生やしてくる毛穴だという思いがつよくなる。どっちか――解釈のすすみがいったん脱線したのち、微速度的解釈を想定するなら、詩篇タイトルをおもいだして、「ぶつぶつは顎に男女かまわず生ずる」という了解が起こるだろう。
 
「そこ」の不明と、じつは顎を片膝にのせる姿勢に「正座」「胡座」などの「名称」がないことがここで拮抗している(「正座」そのものの峻烈な脱臼なら、近藤と親交のふかい貞久秀紀が詩篇「正坐クラブ」〔『リアル日和』〕でしるした)。なまえのないものこそが「原始」的というか起源的なのだ。中也はその領域を「名辞以前」といったし、ベンヤミンの純粋言語論でもそこから命名がはじまり、やがては罪障としての命名過剰までも出来するとかんがえた。つまり「名辞以前」は、ほんとうは手つかずで温存されなければならない。
 
だいいち、ひとのするポーズはすべて名称化されているのか。うつむきや臥目ひとつでも微差の体系をつくりなして、あいだにあるそれぞれのニュアンスがちがう。言語化はけっしてとどかない。うつくしいものにも醜いものにもとどかない。それは理知的には怖気をふるわせるが、「名辞以前」領域の温存という点ではじつは世界を純粋さのなかへ防御するものでもあるだろう。
 
ここでの「ぶつぶつ」は内実から表皮への異議申立ではないか。つまり「実在的ではない」のではないか。妻にもそれがあるからそんな判断になる。サブイボにつうじる、怖気の形象と異変。なぜそうかといえば、からだのぜんたいをじつは「名辞以前」が支配していて、表現による捕捉をからだそのものが逃れている不安がにじんでいるためだ。からだとは規定不能ななにかだ。といえば、アルトー=ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」にまでつうじてしまう。
 
おそらく田村隆一の意志力にとんだ「立棺」幻想への、近藤の興ざめがある。名辞以前の身体を詩の主体とその配偶者がもっているとすると、それを端的にしるす姿勢のまま化石や即身仏となって、死後発掘で出現した残痕まで名辞以前にさせようとする想像の越境が生じるのだ。現にあるものの相対化。その振幅が、「何千年か後」(26行/32行)へと跳躍する、想像の大技。これによって「いまあるもの」が「かけがえのなさ」だけのこして無意味化してしまう。「私」「妻」もけしてその例外ではない。
 
その名辞以前のすわりかたで発見されたミイラや化石は、名辞以前だからとりあえず「人類」(33行)と未来人からはみなされないのだろうが、名辞以前こそが「にんげん」の本質なのだから、双方を併呑すれば、発見されたかたちから「苦労じみて見える生き物」(34行)という惻隠までもがともなうことになる。自己から自己への惻隠が、「何千年」の時の振幅をもって予想されたとき、この詩篇がささいな身体論をとびこえたスケールをもってしまったとわかる。この「ありえなさ」が可笑的なのだ。発語が換喩的にずれていった結果なのだが。
 
むろんそれは「騙し」(38行)にすぎない。しかも本質は、名辞以前の奇怪な「座りのポーズ」ではなく、デカルト的な自己再帰性への怖気=「顎のぶつぶつ」のほうにある。それは微細で、他者からの感知の域をほんとうは超えている。そういうもの=ほんとうの固有性もしくは特異性は、発掘不可能なものだ。それが最終行のつくりあげる「言外」だった。
 
ところが、句読点を排した書き方をつらぬいたこの詩篇の末尾で例外的に「もう消えていたとしても。」と「。」が使用される。これは単発化した「ぶつぶつ」、すなわち「ぶつ」とよぶべきものなのではないだろうか。最後に解決できないそうした予想をにじませて、このおそるべきメタ詩が終焉したのだった。
 
「名辞以前」が詩想の源泉だという着眼は中也のみの特権ではなく、ありうべきすべての詩作者が共有するものだ。じっさいこの主題は近藤詩のひとつの系列を貫通している。第三詩集『冬の公園のベンチで寝転んでいると』から「頭の中の深い霧」全篇を引いてみよう。引用のあとすこしだけかんがえをつづるが、ながくなるので上のような詳述はしない。
 
【頭の中の深い霧】
近藤久也
 
旅に出た遠い土地の
霧に煙る河口で釣りをしていると
不思議な生き物と遇った
ところが帰って
スケッチブックにうまく描けない
そのくせ
レイチョウレイチョウと
私の舌と唇を動かすのだ
するとそいつを鳥だと思いこんだ
鳥類図鑑で調べてみた
鳥に詳しい奴にきいてみた
動物園に捜しにいきもした
仕方なく
ひとりで姿かたちを
おさらいした
伽藍鳥〔ペリカン〕のように
獲った魚を口にためこんで
ゆっくりと静かに食べていた
食べること以外
為すことはないといった後姿
黒い影のような後姿
霧の中の
滲んで染み込んできそうな後姿
そうして
ほんの少しずつ少しずつ
雨の中の深い霧から
霊鳥の後姿が現れつつあるのだが
河口でみたのとどこかずれたままなのは
どうした理由か
ずれたままで親しく
レイチョウレイチョウといってみる
そんな鳥はどこにもいないと
いいきかせる
 
霧中、河口の釣ででくわした黒い影の未確認物体。神々しさだけはつたわる。それは「名辞以前」のものだったが、後知恵で「霊鳥」と規定されはじめる。ところが見たときにつぶやきに出てしまった「レイチョウ」は「名辞劫初」に属していて、そのような規定不能性は、鳥類図鑑にしめされている鳳凰などの霊鳥とはけして似ない。吉本隆明的にいうなら、例の「う」と名辞成立後の「海」に、衝動面で埋められない深淵がひらいているということになる。
 
だいたい「レイチョウ」という稀用語彙を漢字熟語化しようとすると、宛先がぶれるのではないか。たとえば「玲鳥」「冷鳥」「麗鳥」などと(じっさい筆者がそうだった)。あるいは「鳥」のすがたを認知したことじたいが錯誤で、それは「霊長類」だったのでもないか。筆者は近藤久也のこのむつげ忠男から兄のつげ義春に思いをはせ、その『無能の人』中の「鳥男」をイメージしてしまった。
 
しかも「後姿」というもんだいがさらにくわわる。「そのひと」「その鳥」を名辞以前にするために、霧中という恰好の条件のほかに、「後姿」までもがまじわってしまったのだった。「後ろ」は縹渺として陰気だ。ことを俳句系列でみよう。
 
山頭火《うしろすがたのしぐれてゆくか》。放哉《墓のうらに廻る》。かんがえてみれば自らの「後ろ」も霊妙だ。耕衣《後ろにも髪脱け落つる山河かな》。「後ろ」が眼「前」にみえるのは世界の異常ではないか。それでやがては「前後」そのものまで霊的な惑乱になる。郁乎《桐の花いちど生れし前後を見る》。完市《まうしろへ白い電車が夏野来る》。阿部完市にいたっては中七と下五のあいだにみえにくい「切れ」がある。主体のまうしろに白電車があり、視界前方に夏野があるのだが、方向を混在させてみせるしずかな客気がつたわってくる。
 
はなしをもどすと、「霊鳥」ならぬそれ以前の「レイチョウ」は、かならず「レイチョウレイチョウ」と、リトルネロの状態で主体の脳裡をひびかい、くちびるをうごかせているのに注意しなければならない。劫初とはひとつの反響性なのだった。このまえにかかげた詩篇「顎のぶつぶつ」での「ぶつぶつ」の同語反復性もじつはそれだろう。それらでは規定をのがれるものがずっと反復している。だから回帰のなさが回帰そのものをつくりあげる。ほんとうの「減少」とはそんなすがたをしているのだ。
 
綜合すれば「頭の中」「頭の芯」「脳髄の傷」の真相=深層にあるのはリトルネロではないか。詩篇「頭の中の深い霧」の「霧」は、発語の誘惑である「反復」こそを霊妙につつんでいた。
 
 

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2015年06月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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