近藤久也について4 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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近藤久也について4

 
 
【近藤久也について 4】
 
 
たりないことは、まるさのようなものをうかびあがらせる。角のかずのおおい正多角形もまた正円にむかって減ってゆく。かど=角=稜のおおいかたちはリズミカルだが、リズムがねむりへと親和するうちに、かどがとれていって、さみしいねむたさが曲線として現れる。それが涅槃や死とも沿うのは、「円寂」の成語からわかる。
 
世の中には「乳房学」といった美学領域があるようだ。増加と減少の弁別が一筋縄ではゆかない点は、たとえばその美学からもみちびきだされる。ふくらみのほとんどない乳房は、母性的なものの減少とはじめにみてとれるが、それは少年性を形象して両性具有のあやしさでざわめきもする。ぎゃくに、おおきな乳輪がぼけた豊満なしろい乳房はかたちのねむたさにより「減っている」が、それがゆれればたちまち見た目と離反する多時間が生じてゆく。
 
詩ではどうか。意味や修辞の稜がけずられたり減ったりすることは、詩行のあいだにやわらかな円寂をにじませる。ある一行がべつのとおい一行と連絡するにはやわらかさがひつようだ。減っているものとくゆうの、たわみや自在性のようなもの。内在されているすくなさが飛躍へのバネになる。見透しがよいのに、詩行はいつも「それじたい」ではない。
 
いっぽう稜ばかりの意味や修辞の加算は、そのまま加算にしかならない。そういう詩は意外にも、理解の下支えのない感覚のみで早読みされることになってしまう。リズムの単調。だから「なにが書かれているのか」で、読む眼もたちどまらない。はては徒労感までうまれる。
 
近藤久也『冬の公園のベンチで寝転んでいると』から以下の詩篇を全長で引用しよう。
 
【椀】
近藤久也
 
椀を持って
食べながら
何故まるいのか
気になりだした
汁をつぐと
気持ちのやわらぎを感じる
これは確かに私の汁ですと
きわどい満足が湯気のように立ち上る
四角いものを想ってみると
いかにも持ちづらい
親しく口もつけづらい
深さや量が気にかかる
施される場合にだって
頭上におずおずと差し出したその器が
強欲だと思われそう
書き始めた頃ある先輩が
茶碗の縁〔ふち〕という詩を書いていた
今私の手元にはないけれど
茶碗の縁からおりることもできずにただ
縁をぐるぐる歩き続ける
見上げても青い空ばかり
そんなことだった
四角いものを想ってみると
角のところにくると
怪しいことを考えてしまいそう
縁はひょっとすると
淵ではなかったか
淵を字引でひくと
容易に抜け出せないような境遇ともあった
 
放哉《入れものがない両手でうける》を勘案すると、椀にみられるうつわは、うけようとする両掌をくっつけたかたち、その換喩とわかる。もうひとつ、まるさがもたらす減少にこそ、汁がみちるということにもなる。飲食にかんする四角いうつわならたとえばおなじみアルマイトの弁当箱などがおもいうかぶが、弁当箱も徐々に稜がとれてゆくのが趨勢のようだ。
 
それでも矩形を基本にした弁当箱のかたちは、ふたをとった直後の、平面への俯瞰をうながす。そこでみられるのは華やかであればあるほど良い「分布」だ。いっぽう汁ものは、なにがうかびしずんでいようと「一如」を、出汁の半透明のなかにねむるようにひろげる。
 
具材はしだいに無化してこそ理想をとげる。吉田健一が日本酒をのむときに咀嚼でくちをうごかすのが面倒だから、出汁だけ張った椀が最高の肴になる、それで酒と出汁を交互にのめば「海を飲んでいるような気になる」とつづったのには、趣向のみならず、形象論の奥行までもがふくまれているはずだ。いっぽう海からの比喩をもちだせば、四角い弁当箱など、人間界によくみうける、プールのようなものにすぎない。
 
平叙でかかれた詩篇「椀」の詩法的な肝はどこにあるか。ふたつあって、その最初が以下のわたりだ。《書き始めた頃ある先輩が/茶碗の縁〔ふち〕という詩を書いていた/今私の手元にはないけれど/茶碗の縁からおりることもできずにただ/縁をぐるぐる歩き続ける/見上げても青い空ばかり/そんなことだった》。引喩により他方(このばあいは「ある先輩」)へと眺望が生ずる。「それじたい」なのに「それじたいではない」まるさ。しかも記憶されているべき詩の一節はあいまいさに変じ、「そんなことだった」と結語される。この「そんなことだった」のいいまわしが、それじたい「まるい」のだ。だからこの一節は詩篇のもつ「椀」の主題と、修辞的に即応している。こういう点が近藤久也のみごとさといって良い。
 
それでも椀が外郭のまるさのなかに限界をもつ奥行を、くぼみ、へこみとしてたたえている形象がかんがえられる。奥行の限界にたいし、椀の外郭の円周性は、無限と換言できる。バロックの格言をもちだしてもいい、《神は直線で円をえがく》。円の無限性は円周を「ぐるぐる歩き続ける」視線の彷徨を喚起するが、その円の一瞬一瞬には直線のしかばねが累々とたわめられている。だから最終四行にあるように、「縁」と「淵」の類縁が脳裡に生ずる仕儀となる。ここが第二の肝だ。
 
やわらかにまがっているものは、そのまがりのなかに深淵をくりひろげ、直線のもつ「そのもの性」とは別次元を形成する。直線が交錯によってしか「それ以外」になれないのにたいし、円の縁は淵でもあることで、あらわれているままが「それ以外」なのだ。ひとは「怪しくなって」そのふかみにはまる。曲線は正円からの例外性がエロチックなものだが、ほんとうの正円は無と有の融合において厳粛で、エロスをそれじたいではじきとばしてしまう。
 
ひとつ気がつくことがある。「縁」「淵」の同音系列から、おなじく同音のはずの「布置」がけずりとられているのだ。つまり「縁」「淵」の結託は、「布置」の排除を付帯させていることになる。これは詩論ではないか。詩文の一瞬一瞬はたりなさにおいてまるみをおびた縁になり、それへの単位的な微視は読むひとを淵へとおとしこむが、詩が弁当箱を俯瞰したときのような「布置」ではあってはならない、という。詩はおかずのように、ことばを置かない。ことばそれじたいの不如意により、一如にむけて「ただ」あふれだすものだろう。
 
「椀」は、陶器である「碗」と異同がある。にんげんを換喩的に代位するのは木材性なのだ。椀はみずうみの凹みのように、内容を汁でみたし、夢幻的に「べつもの」までのませる。用語は近藤詩ではいつも厳格だ。「縁」の初出時に「ふち」とルビがふられているのは「えん=えにし」との誤読をさけるためだが、結果、見消のようにして「えにし」がうきあがってもくる。
 
もうひとつ、円的系列から秀作を全篇摘記してみよう。つい最近ご恵投いただいた近藤の第一詩集(稀覯本だ)、『生き物屋』(1985、竹林館)から。
 
【蹴る】
近藤久也
 
考えこんでるように
ぽつんとしてやがるので
こづいてやると
赤土の上を
ごろごろ転がっていく
で、またぽつんとしている
どてからみても
なめらかな
つら
相手をする方が野暮だ
と思いながら
溜息まじりに
関節がぎいぎいなるような
力ない
やせた足を
後に引き上げてみる
ひきつった足のけだるさを
爪先に
ひょっこり乗っけてみる
そして


ふんわりと
のんきそうに回転しながら
夕焼けを向こうに
埃っぽい宙を
飛んでいく
俺は球の縫い目を
痛そうに
みつめているしかない
 
詩行のながれでは、「対象」が言外にずっと置かれつづける。その正体があらわれるのは、やっと最後から3行めにすぎない。「球」。これは「縫い目」があるのだから、野球のボールやバレーのボールのようなもので「球」とよばれてしかるべきなのだろう。むろんそういうものが、削り=減喩状態で対象化されつづけてきている予想は立つのだが、それがたとえば「毬」でも「毛糸玉」でもなかったと判明する点に、衝撃をおぼえてしまう。
 
「ぽつんとしてやがる」「ぽつんとしている」の言い方には、思念でのなかではなく、地上の具体的な場に置かれた球体のさみしさが現れている。球はかたちとしては完璧な自足をしるしづけるが、その残余や欠落のなさが、地上の残余や欠落とおりあわない。「なめらかな/つら」という擬人化は、むしろ球にはびこるべき擬人性を剥離させ、それをゆめまぼろしへと再組織させている。30歳まえにこんな老熟の詩篇が近藤久也に出現している。怖いことだ。
 
球の円満さは、それを計算なく、ぽつりぽつりと蹴りあるく主体の動作をアフォーダンス的に分解してゆく。動詞をぬいてみようか。「こづいてやる」「み(る)」「思(う)」「ぎいぎいなる」「引き上げてみる」「乗っけてみる」――これらの中心に動作のなかみまでが改行によって分解された「蹴/る」が出現して、この詩の「俺」は分解過程をスローモーション化されている。
 
ところでこれらの動詞諸系列は、はじめ「考えこんでる」「ぽつんとしてやがる」「転がっていく」「またぼつんとしている」といった球の動詞系列と等分に織りあわされている。ところが「俺」の動詞系列が「蹴/る」にむけてあふれだすと、球の動詞系列が沈黙してしまう。やがて逆転が起こる。「蹴/る」の決定性が生じ、「俺」の動詞系列が沈黙してしまうと、その跡地を球の動詞系列が占領しだす。「回転(する)」「飛んでいく」。つまり「俺」は「蹴/る」の具体的な動作によって炸裂→消滅したのだった。むろんそれは一瞬のことだろうが、詩の主体「俺」の痛覚を刺戟した。だから最後、動詞性をもつ主体として復活した「俺」は、球の行方を「痛そうに」「みつめているしかない」。もともと球には縫い目でわかるように手術がおこなわれていたのだった。
 
主語性が主体化の根源とかんがえたデカルトにたいし、ライプニッツは動詞性(の多様化、分岐、遁走)こそが主体化を分裂的に展覧させるととらえた。こうしたライプニッツ的な主体は明滅する。「みえなくなる」瞬間瞬間がある。持続が蚕食される。じっさいこの「蹴る」では、「球」に叙述がかたむくと、主体が脱視覚化してしまうあやうい局面が連続しているのだった。主体はことばや周囲環境から減殺されて、いわば欠落形、残余として、そのあるべき位置で磁気を発している。すくなさ、「減り」により、脱視覚性そのものが「かたちの気配」としてみえる峻厳かつやわらかいことばのはこび、これを減喩とよぶべきだろう。無駄がないのに残余にたわんでいることばは、そのままそれが詩作者の身体なのだった。
 
「すくないこと」は円や球形に関与する。じっさいに円がえがかれていないのに、円が浮上してくるふしぎな短詩にはたとえば以下がある。サイト「ことばのかたち」での連載第六回として、これまた畏敬の対象・小峰慎也がしるした詩篇「顔」。近藤久也のものではないが、寄り道してその全篇を引いてみよう。
 
【顔】
小峰慎也
 
すぐに何かをしようとして、
川と
そうでないところが
どうなっているか記憶を
さぐったが
だめだった
牛に石を投げて
結果を見ずに帰ってくる
それが午後
まだわたしたちは巨大すぎて
目の前にあるものが
顔を上げなかった
 
「川と」「そうでないところ」の弁別不能性が、空間が本来的に分節不能だという真実をつたえてくる。ところが「作用(干渉)」と「結果」も、結果をことさらに捨象すればおかしな閉塞が起こり、時間までもが野蛮に脱分節化してしまう。「牛に石を投げて」「結果を見ずに帰ってくる」ことの、恐ろしい禁忌侵犯。
 
ところが空間と時間が脱分節的に融合するには、いわば「球形」が感知されていなくてはならない。そうした印象のあとに、この詩篇の「午後」「巨大すぎて/目の前にあるもの」が「まるい」とかんじられてくるのではないか。それは予感だから「顔を上げ」てはみられない。どうじに読者は最終三行の文法破壊にしずかに震撼する。修辞探査がはじまる。それで、「すくなさ」「減少」と「円」「球」とが連絡する、減喩の構造におもいあたることになるだろう。
 
最後に近藤久也による珠玉の減喩詩を全篇引用しよう。「ラスコーリニコフ」(『罪と罰』)、「スタヴローギン」(『悪霊』)と、ドストエフスキー小説上の固有名が登場して「三十年ほど前」がかたられながら、その記憶に、客体性を周到にけされた「少女」の仕種、影が侵入してくる。主体性の消去が「円」「球」につながるとすると、客体性の消去は「ながさ」「奥行」をつくりあげてゆく。この真実への直面もまた「減喩」ならではの恩寵とよべる。むろん読まれるとおり、恋情の詩篇だ。近藤の第四詩集『夜の言の葉』(2010、思潮社)から――
 
【神の話】
近藤久也
 
三十年ほど前
その頃読みかけていたロシアの
大文豪や革命について
ひとの善意や運命についての話は
実はうわの空だった
ラスコーリニコフ、スタヴローギン
みんな脇役にすぎなかった
細いジーンズとざっくりしたセーター
小さい急須のふたを細い指がそっとおさえ
二人の湯飲み茶碗に交互に注ぎ入れる
ショートカットで
膝を立てた華奢な姿勢
西日がさしこみ
その影が
私の方に伸びてきた
保証のない想像の影を
その上に重ね合わせ
細く、長く
先へ先へと
伸ばしていた
 
 
 
※「近藤久也について」了
 
 

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2015年06月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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