雑感
80年代、「思考」そのものについて生真面目に思考した若者にとっては、たしかに蓮實重彦の影響が甚大だった。たとえば蓮實の名著『物語批判序説』なども書きかたの倫理性という点でひとつの規範を示唆していたとおもう。
この本のはじめで蓮實は爆弾を落とす。「AはBよりも凡庸だ」といった、相対比較を型とする言説そのものが凡庸だとしたのだった。これは反射する。つまりそうした物言いの圏域に入るか入らないかの自己判断で、かならず相対比較の磁場に読者自身がくりこまれてしまうのだ。そこでは事象にたいして自分が「ある」ことそのものにすら不可能性の色彩がにじみだす。発語が禁じられてしまう。
むろんそう書いた蓮實重彦じしんが、映画にたいする言説などで、この倫理的な訓戒にたいしさまざま違反をおかしていて、最終的に「自身ならびに対象を」「ともに読ませること」の称賛にゆきつく、『物語批判序説』の効力まで霧散してしまう。たしかにじっさいは自他がぐちゃぐちゃな、そういう時代ではあった。
日曜日に読んだとある大著は、死者となった作家を、その友人だった詩作者が交友録をまじえながら、作家の一作ごと、愚直に論評をくわえてゆき、その作家の自死の事実まで到達する構成となっている。ここでも作家と、詩作者じしんの相対比較がいくども首をもたげてくる。そうしたくてたまらないらしい。それでだんだん澱がたまっていって、読了までの気分がくるしかった。
むろん相手への褒貶は相半ばするし、その作家の美質も鮮明なことばでとらえられている。ところがたとえば肝腎なところで、「巧い」ということばにより叙述が早上がりしてしまう。この形容詞にこそ「相対比較」が潜在している。つまり対象を「巧い」と結論づけることには、自身の見巧者ぶりが相対的に浮上しているのだ。かんがえてみれば褒められているのは対象ではなく書き手自身だろう。
じっさいそれは、構造を解析しなければならない批評にとっての思考停止といえる。わたしたちは「巧い」と賛辞を投げ捨てないために、批評のことばを駆使してきたのではなかったか。だいいち自分自身への評価誘導に信憑などない。それが批評にまつわる最初の自己認識のはずだ。
本の構成が不器用なのはかまわない。ところが伏在している精神性が読む者の尊厳をおびやかすのはつらいことだ。恥辱が分与されてゆくのだ。精確な引用なしに、ことあるごとあいまいにドゥルーズまで想起するこの著者は、その装いとことなり、どこかで80年代の悪癖にそまり、ほんらいあったはずの80年代の可能性をわすれてしまったにちがいない。
印象を印象だと自己限定するさまざまな書きかたの展覧、そこに交錯している多幸感。あるいは交友自慢、英米文学由来の鼻につくフランクな文章。そうしたノイズが多いことで、本はみずからの本質を「文体」にまで収束させようとする。ところが文体考察こそ、80年代の柄谷行人により否定されたものではなかったか。あつかわれている対象・作品にいまや詳細な構造分析が待望されているとおもうだけに、書かれかたがとても残念な本だった。