雑感2 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感2

 
 
【雑感2】
 
土曜夜に札幌シアターキノでおこなわれたエドワード・ヤン『恐怖分子』の上映と、そのあとのぼくのレクチャーが一応の盛会だったので、とてもうれしかった。たびたび書いてきているので作品そのものについての言及はここではもうひかえるが、レクチャーでぼくのいいたかったのは、「この作品では視覚構造と物語構造が不吉な同調をしるしている」「それでも俳優とスタッフの集中により、この同調がいともかんたんに実現されているように感覚される」ということだった。
 
いまこのことをもっと精密にいってみる。うえの鈎括弧でくくったふたつの事態により、観客になにが起こるのか。
 
たとえばジャズやクラシックの器楽音楽では、「音の発生と、時間の経過とが、そのまま一致・同調している」。だから聴衆は構造のなかにはいり、音楽そのものに生成変化して、自身の音楽化した身体を(脳と耳が中心だとはいえ)内在的に吟味しなければならなくなる。これは自己を手放すことが、そのまま自己を再獲得することになるという逆説を、生きるにほかならない。放心と集中の同在、といってもいい。
 
物語、視覚、双方のおなじ構造に参入をうながされる『恐怖分子』でも、とうぜんこれに似た事態が生じる。肝腎なのは、対象が「いともかんたんに実現されているよう」な作為的ではない誘導性だ。美学的な中心を「わずかに」ずらして構図を決定/非決定の「あいだ」に宙吊るのは、じつは一操作にすぎず、そのかんたんな実現で、そこから体験したことのない戦慄美へと、ひとをみちびきうる。
 
もうひとつ、吟味すべきことがあるかもしれない。無媒介性がそれだ。無媒介に開始されるものにたいして、受け手は無媒介にその場にはいることしかゆるされない。生成変化の前提条件とはまさにそれなのだ。「動物になる」「少女になる」事態は努力の果てではなく、作品や世界への信頼において無媒介に起こる。それで「動物の内側で」「少女の内側で」世界はべつの摩擦や流動や遠近、さらには縮率や熱をおびる。その運動的な閉域にはいりこまされ、世界相がべつのリアルへと変転する。このことはかならず発語の質をもかえざるをえない。
 
カフカの「巣穴」や「橋」では読者は「モグラらしきもの」「無機物の橋」に生成変化して世界のオルタナティヴへと拉致される。映画でいうなら相似面を契機にしたディゾルヴを多用する川端康成の『みずうみ』でも、主題系と叙法の不安定さ・決定不能性が不吉に同調し、そのなかで読者は、主人公桃井銀平に「なり」、性欲的な尾行の無限遠点化(尾行は接触へとほぼ成就されない)、さらには殺意とかなしみの不可分といった未経験ゾーンを、色彩記号の変転とともに体験してゆく。そうして不安にまみれながら、自己放逐と自己再獲得とに、同時に「かなしく」つつまれる。こうした「移行性」なくして芸術体験はありえない。ということは「生成変化」と「移行性」そのものがいわば双対関係にあるのだ。
 
月曜日の修論ゼミで、ひごろ優秀だと目している学生が、黒沢清『蛇の道』を素材にして模擬発表をおこなった。画面が早送りされ、再生され、肝腎なところで、ストップモーションでとめられる。そのあとは板書による詳細な図解。ぼくの講義方法を踏襲している。まずは双対関係にあるものが、映画運動の関与ののちどう帰趨するのかが分析される。
 
ロング縦構図の奥行から手前に来られる特権的な人物はだれなのか。そのときに生じている意味の配剤により、本来は三通りある〈「3」から「1+2」への分離〉がどう選択されるのか。拷問が無時間的なのではなく、無時間性こそが拷問的であるという意趣変更。拷問対象が錯誤であるていどでは、拷問は終了しない。
 
そこへ代理報復というさらなる主題が上乗せされ、脚本・高橋洋の先達・大和屋竺への同調が完了するが、監督の黒沢清はロング構図と、哀川翔の数学講義での細部不明な「生成」連続により、カフカ的な寓話化をその演出に周到に上乗せしてゆく。それらを示唆してゆく学生はけっして「巧い」という形容では片づけずに、作品のもつ、なまなましい構造に肉薄した。
 
概念は、「→」をもちいた図解から到来する。「→」は生成変化だ。たとえば双対をしめすなら「=」か「⇔」であるべきところ、多数、さらには空間的にねじれの位置にある「→」が複合してくるのが黒沢清の映画法則で、じつはこの複合により、「=」「⇔」の単調が、映画運動のさなかで救抜されてゆく。いいうるのは、生成変化とは単相ではなく、じつは複相を潜勢させていて、それが露呈するのが表現という「出来事」だということだ。
 
ドゥルーズ的な生成変化の由来のひとつはカフカといってもいいだろうが、もうひとつの局面ではベルクソンがかんがえられなければならない。ベルクソンによれば知覚対象は主体に外在している。ところが感覚対象は主体に内在している。この外在と内在はじっさいにはねじれだ。それでねじれあう界面に特有な「摩擦」「流動」「遠近再規定」「縮率変化」「発熱」が起こる。これがリアルなのだが、リアルは主体と客体の「あいだ」の不可視=潜勢領域にこそ、うごめいている。
 
詩はどうか。作詩衝動でも詩篇読解でもそれは無媒介に不用意にはじまる。そういうものには無媒介に不用意に参入しなければならない。だから詩に自意識は邪魔だ。体感されるものは、やはり「摩擦」「流動」「遠近再規定」「縮率変化」「発熱」、さらには「融解」「減少」などをくわえてもいいだろう。暗喩「読解」や巧拙吟味などは二次的な余禄にすぎない。構造の真芯へとふれるのだから。
 
詩は転倒や多重や時空的矛盾などをそのまま生成する。ところがそれにはいりこむには、やはり『恐怖分子』や『蛇の道』どうよう、表徴のただならぬ一致が間歇的に存在する条件のもとで、それが「かんたんに実現されている」とみえる組成上の誘導がひつようとなる。そうなって世界の実相に生成変化が起こるのだが、ことば(の意味と音)、そのモノ性と不分離な詩では、変容はことばの形成・関係性そのものの変容まで付帯させずにはいない。結果、「世界はことばでできている」という不可能な倒錯が完了することになる。
 
ただしそうした倒錯がくずれるまでをえがき、「世界そのものはことばではない」地点へと逆戻りで落着する、詩のべつの運動のほうがさらにもっと魅惑に富むだろう。
 
 

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2015年06月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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