三井葉子について
【三井葉子について】
近藤久也さんの詩を考察したとき「椀」という詩篇をあつかったが、三井葉子(故人なので敬称略)にも同題の詩篇があった。
【椀】
三井葉子
白い飯はこぼれるだろう
うつせみの世の光環をいまはこぼれて
かぎりある 椀のかなしみをなだめるだろう
染めよせる 昼の枕の
蜜語はこぼれおちているだろう
美美しい武者に焦がれていった 吸い口のあとはただれて
椀のかたちをなだめるだろう
三井葉子の詩はもっともふしぎな部類に属する。えがかれる内容にたいしことばが多いのか少ないのか、それがわからないためだ。嫋嫋とうつくしくほそい発語のひびきにとらわれれば意味さえうしなわれる。てのひらに掬しつつ、その水をたわめたり、ゆらしたり、こぼしたりしなければならない。このとき女性性にたいするしぐさのようなものが、そのまま読者に分有されてゆく。
まずは、綺語を事前に調伏してゆく。たとえば「染めよせる」とはなにか。「染める」と「よせる」の複合が動作として了解できない。それでも、染めるいとなみをみずからにひきこむ、とかんがえて、それが離れた対象へむけてのくるおしい思いをあらわしているととってみる。これが昼の枕を形容する位置にあるのだから、昼寝のゆめも、なにものかをおのれにさそうまじないなのだろうか。
「蜜語」は「密語」ではなく、男女の睦言。稀用であるが「美美しい」も辞書に記載されていて、「びびしい」と訓む。「美しい」よりもさらにきらびやかなのだろうが、ぼくはこの用例をしらず、「美」の字をかさねて「みみしい」とよますことで、聾者まで示唆しているのかとおもってしまった。
さてこの詩篇では、かさねがきされている奥行を、みずからの視覚にこそたずねるしかない。「椀」もてもたらされる「おんじき=飲食」のせつなさ。椀の円形と「光環=コロナ」との類接から、視野は手許の椀と「同時に」、日輪のある中空のはてにまで外延する。「こぼれる」ものは白飯と、蜜語。おなじ動詞の斡旋により主語間に相同がしるされるのなら、「おんじき」と「性のまぐわい/つるみ」が、ひとの根源のなかにまざりあってしまう。
これらを前提に、かろうじて意味が「創意的に」読者のなかでつながる。椀に白飯をもれば、それはこぼれる。日輪が陽光を発するにおなじだ。食餌はうつわをあまる。それは「うつせみ」=空蝉が現身にまで転じてしまった、この世の「かなしみ」の外延力とならびあっている。
日輪は限界だ。月とことなり円のかたちしかもてない。それがとりわけ日蝕時にわかる。わたしたちは椀をくちに寄せ、その「かぎりある」円のかたちにふれる。ふれることがなだめることで、そこに「食べる」「呑む」が付帯する。おんじきはまっとうされない。
食後、昼の枕で片頬をささえると、ゆめにきらきらあらわれた「もののふ」が蜜語をもてあそび、わたしをよせて、そめあげる。というか、食後をそのように予想することが、すでにおんじきにはふくまれているのだ。いないひとへの恋の仕度、そのけしきが汁物を椀ですいあげるときの熱さにさきどりされている。わたしのくちびるがただれるのか、椀のへりがただれるのか。椀のまるさは、期待をもらいうける、わたしにあわされたてのひらをもたとえているだろうに。
来ぬ恋のため、わたしは日輪を呑む。呑みあげる。わたしのうちがわが焦げる。わたしもまた、まぼろしにみたコロナになって、すがたをうしなう。わたしはみずからの椀のかたちをも、なだめなければならない。
とまあ、たとえば以上のように、詩をおぎなってみる。このおぎないは詩篇内のことばのすくなさに、すきまがあるとみて、ひだをひろげたものだ。それで内容はおもたいほどに「多くなった」。ところがこのようなあやつりをわらうように、詩篇はそれじたいにおいて「すくなさ」をほそぼそとながしている。
すくなさはまだある。つごう四度の「だろう」の語尾。それは予想を期待にかえるにじゅうぶんな執拗さまで印象づけるが、「だろう」単独では「多い」とみえるこの重複も、詩篇そのものにたいしてなら、おなじもののかさなりで内容を減殺させ、すくなさをみちびいているともいえる。
こうした「多/少」の同在にこそ、読者は惑乱をおぼえずにはいない。それでべつの日には、べつの読みがこの詩篇に沿うと、かなしまずにいられなくなる。ところがこの不如意は読み手のものであるとともに、作者のもののはずだ。
三井葉子は世評のように、この詩篇をおさめた詩集『沼』(1966、創元社)で詩風を完全にきずきあげた。時代色の脱色、「伊勢物語」的な相聞、しかもおんなはおとこを待ちつづけ、ゆるしつづけ、こがれつづける。みたされない妻問い婚がくりかえされる。いまなぜこうした詩なのか。ほんとうは、おとこのみならず、おんなにとってさえ対象化のできないもどかしさがあるだろう。
けれども三井は、おんなのこころとからだにはりつめた「ほそ糸」で、うらがわから世界の双極を引きあい、世界像にことなりをもたらす。しかもそのことなりは、もうろうと「その場でくずれてゆく」ていのものだ。これをたんじゅんに反世界とよべないのは、三井じしんのからだが賭け金になる、サクリファイスの構造が奥まっているからかもしれない。恋情過多の濃密さなのに、そこに清潔な寂寥がふきわたる。なんということだ。
詩は行のながれ。しかも同定できないながれだ。比較してみよう。和歌の三十一音のながれがいったん型におさまって、「つぎ」をよぶうつわとなるならば、詩の行のなかにはつねにすでに「つぎ」がくりかえされる。うつわをまとめない、みずからへのおそろしい否みがある。それこそが情となってながれる。
むろんそんなふうに詩をつくりなせば、こころも身もこわれてしまう。三井葉子の詩が閃光をはなつのは、そうした「こわれ」の端々においてだった。『夢刺し』(1969、思潮社)から詩篇「魚」を引く。オリジナル詩集を所持せず、字詰の基本が不明なので、土曜美術社・日本現代詩文庫版の分かち書きにならう。
【魚】
三井葉子
なにを落しましたのでしょう
このさびしさ
落してはならない燃える魚を落してしまったあとは
風は燃える魚の幻を吹き
吹きつのる風の真ただなかに足もつれつつ いつか燃え
る魚になってしまうわたしを落してしまったさびしさ
が 幻の魚をみています
吹いている風のなかにたくさんいる燃える魚が
わたしからゆれ逃げていったさびしさをわたしに言うた
び
ここでも同語――「落し」「燃える魚」{さびしさ}「風」の重畳がある。反復によって、かえって位相がとらえがたくなるきびしさという点では、石原吉郎の、同語反復が語そのものを微分してゆく詩法を凌駕している。石原の詩には構文があり、構造的だが、三井の詩は書かれるごとに「つぎ」が不安定に局面化してゆく、脱構造体だといえるだろう。結果、こころのなかの舌を噛ませるように読者は読みをすすめ、同語があい食み、詩世界の像が半減してゆく魔性に直面してゆく。くりかえす、たりないのか、多いのか。
たとえばこの詩ではどんな魚がどんなもちかたののち「落され」、それが風に燃え、風に魚を転写し、そのなかでわたしがどうなったのか。そうした位相的なものすらつたえられずに、とりかえしのなさ、それを後追いするさびしさが、最少条件のなかに感情のロンドをひろげる。読者は気流にのまれる。けれども、魚が明示されていても、うおくさくないのはなぜか。ことばがことばではないからではないか。つまり三井にあるのは、減喩とともに徹底した融即だといえるのではないか。
この詩のかたわらには葛原妙子のつぎの歌を添わそう。さびしさをへらすために。田中綾さんのうつくしい好著『書棚から歌を』(2015、深夜叢書社)が松浦寿輝『あやめ 鰈 ひかがみ』の紹介でとりあげていた一首で、葛原『葡萄木立』(1963)におさめられている。
いまわれはうつくしきところをよぎるべし星の斑〔ふ〕のある鰈を下げて