青のり粉
昨日、のりしお味のポテトチップスをひとり食べていて、ふと、ある恥しい体験をおもいだした。それをくわしく語るまえに、かんたんな時間論を。
ひとの一般的な知覚においては、時間は持続の性質によって馴致されている。柔和化されている。瞬間はその持続から摘出されるものだが、ふだんは意識されない。ひとは、ただながれている時間のなかに、それじしんが持続形となって親和している。
古代ギリシャでは時間概念を三分した。「クロノス=持続」「カイロス=瞬間」「アイオーン=永遠」。持続から瞬間がとりだされるのは,死や性や事件など、不可逆性をもつ強度に接したときだろう。その強度的瞬間が可逆性や円環へもやわらかにほどかれると感慨がうごけば、やがてかわりにというように永遠がみいだされることになる。
とまあ大層なことをつづっているが、もうすこし。
瞬間の存在性が拡大したのは、まずは絵画表象による。絵画はつうじょう持続をえがけないとされている。構図は凍結状態であらわれる。ところが絵画にたいする視線移動は、じっさいは持続している。いや音楽表象もかんがえるべきかもしれない。一定の持続しかあらわせない音楽には、逆に瞬間の裂け目もある。一音の存在論とでもいうべきものがそれだ。つまりもともと持続と瞬間は分離できないのだ。
瞬間の意義が拡大したのは、とうぜん写真によってだ。持続が世界そのもののおおきな有意識だとすれば、写真はそこから時間の無意識をとりだした。風景の無意識といってもいい。むろんこれはベンヤミンのかんがえだが、かれが風景の無意識を概念化したのは、実際は露光時間のながい――つまり持続状態のなかで、ひとなどの素早いうごきが捨象される――アジェの写真だったことには注意を要する。
それでも持続にかかわる意識性にたいし、瞬間はそれをくつがえすくらい無意識として、時間のなかに伏在している。もしくは宝蔵されている。それはたぶんに今日的な問題だ。たとえば「報道写真」「放送事故」「ポルノグラフィ」「ホラー」などにかかわる「瞬間的破局」は、いまや平穏なクロノス的時間をとおくに追いやってしまった。今日的な瞬間はグロテスクで妖怪的なものとなって、アイオーンには回収されないのだ。それは未確認な知覚閾のなかから露頭した馴致しえない潜勢であって、それじたいが怪物的な人格をもつかのようにもおもえる。だからこそ捕捉されなければならない。
さてここからが本題。
あるときぼくは女房とともに、なんとなく、のりしお味のポテトチップスをつまんでいた。いつしか夫婦間の差異に気づく。女房のゆびには青のり粉はついておらず、きれいなままだ。ぼくのほうは青のり粉に小指いがいがまみれている。この差異はなんだろう。
ぼくがいう。ぼくのゆびの腹はいわばアブラ性で、なにかとくべつな粘着力があって、それが青のり粉を付着させているんだ。自分を特別視してさらには宿命論をさえいいだしかねない、ナルシスティックな物言い。女房は「またか」とおもっただろう。
すこしだまってから女房がすげなくいう。「指をなめているのよ。あんたは塩味がすきだし」。ぼくは指を舐めている自覚などまったくなかったから、「それはありえない」と、つよくではないが、発語のみじかさによって内実はつよくひびくよう否定した。それっきり女房はだまり、また、のりしお味のポテトチップスを、TV番組かなにかをみながら、つまみはじめる。ぼくもそれにしたがう。
TV画面に気をやりながら、ポテトチップスを口になにげなく入れていたとある「瞬間」、女房のつよい声がひびいた。「ホラ、ゆびをなめている!」。ぼくは瞬間を把捉され、うごきが動作の途中で停止した。たしかにゆびが口のなかにはいって、しかも舌がゆびを舐めていた。
…
このときにこそ、ぼくに所属している「瞬間というばけもの」にひかりがあてられ、それがいわば標本化された。無意識のグロテスクに、持続を織りあげられた自分だったにすぎない。その事実が女房の「言い当て手術」により、剔出されたのだった。悪事をとがめられたように、バツがわるかった。格言としてはこういえる。「ひとは自分を知らない」。
とまあ、大風呂敷な書きかたはともかく、結論が凡庸な小噺。
以上稚拙な文体で恐縮ですが、私の思った事をコメントに書かせていただきます。
2015年06月16日 URL 編集
コメント、ありがとうございます。そのとおりですね。不用意な書き方をしたとおもいます2015年06月23日 阿部嘉昭 URL 編集