木田澄子・kleinの水管
(2014年度、「現代詩手帖」の年間回顧記事でぼくが真打にあげた木田澄子さんの詩集『kleinの水管』は、複数の経緯から当年度刊行詩集と誤解したもので、ほんとうは2004年度刊行だった。あろうことか第38回北海道新聞文学賞さえ受賞していて、じっさいは道内で著名な著作だった。なんたる不明。著者の木田は函館在住、詩集は緑鯨社という釧路の版元から出ている。回顧記事では他の詩集と抱き合わせで論じたため、充分な考察をしなかった。ここに分離独立させ、その作品世界を眺めなおしておく)
「変容」をおもいえがくと、それがそのまま辞になり、音韻ともなる――おそらく詩作のよろこびのひとつは、そんなたんじゅんな原理に負っている。木田澄子の詩にはたしかに「変容素」とでもよびたい媒質がいくつかあり、「水」「樹」「親族」「馬」などがそのみやすい例だろう。むろん「水」は現代詩においては詩的保証として、濫喩気味に詩作者たちにあつかわれてきたが、木田の「水」は稠密性と不気味さにおいて独自の運動をおこし、他の詩作者とは一線を画している。
圧倒的な出来の巻頭詩篇「水相(みずのすがた)」を、聯ごとにとらえてみよう。
みずのうちがわなど だれもふれたことがないから
ひとはすいどうかんの器械構造をかりて
かたちづけようとしてみる。
そのために みずは いつも不良性貧血になやまされていて
あらためて水にうちがわがあるのかと問われれば、きゅうにこころもとなくなる。水の属性はたとえばしずくがたがいにつながり、最終的には「たまり」となるような相互組織力にある。相互連接される水はいわばたがいの外部を無差異に外延していて、水の単位的な内部性など微少なのだから、そこに手をふれても水のつながりは触知できるが、その内部にはふれることがほぼできない。接するとなんでぬれるのかわからないひとつの不可能が水、ということができるのではないか。
相互組織力でつながり、たとえばくぼみでゆれるかわりに、つながる水はそれじたいのかたちをもてない。水が固体のようにみえるときには、それを容れる「うつわ」が形象化を代行する。このようにつづれば水がなにに類縁するかがすぐわかる。ことばだ。俳句や短歌の短詩型では、ことばそれじたいと型=うつわとが、たがいに像を相殺しあう点滅をえんじることさえある。くわえて原理にたちかえれば、変容をおもいえがくことばは、ことばそのものを変容させる。この意味で、水状、ことば状のものには、おもてと裏がない。クラインの壺の想起はだからただしい。
水は暗黒化し彷徨過程にはいる。それが水道の機構だ。水はゆくべき動線をかぎられ、ほとばしりやつながりのよろこびをうしなう。だから「不良性貧血」におちいるが、そうおもいこむと、水なかに白血球のようなものが増殖してゆくことになる。それはしかし、ことばを不全にしかあつかえない者のすがたが、水体のなかにぼんやりと映るにすぎない。
ゆうどうするシステム・キッチンの排水口に
きょうの領域分のながれ
降下するちかすいどうで どこからがきのうのものか
稜線をもたないみずは
どこまでも自身に平衡でありつづけ
水に区分があるのかといえば、それがとどまらなくなることで、それじたいのなかに区分をなくしつつ、「きょうの水」「きのうの水」というように、時間内にのみ区分ができる。ところがヘラクレイトスのいうように、おなじながれのなかにたとえばからだは干渉できない。区分でありながら区分不能なものが、水的な時間とよべる。
これもことばとの類縁性をしるしづける。発語では、ほんとうは詞と辞のくべつなどできはしない。辞が付着してはじめて詞にいのちがあたえられるのだから、ことばの分離はことばの死物化にひとしい。死物をならべても詩などうまれない。もっというと、ことばの分析=分解は、かならず自己再帰パラドックスをえんじる。新進気鋭のヴィトゲンシュタイン学者、中村直行の著作『沈黙と無言の哲学』(2005、大学教育出版)からの一例。《「ポチは 白い」の言語の構造は、主語―述語形式である》。
それじたいの「輪郭」をもたない水、ではなく、それじたいの「稜線」をもたない水、といってみる。このとき水に論難されているのは垂直に立ってみえる遠景をもてない水じしんの分散性だろう。水がもし「立つ」ことがあればそれは幽霊になりかわる。
このことは木田澄子にもするどく観察もしくは自覚されている。集中の詩篇「水の島を遠く」では、「水」の縁語的連接=換喩のはてに、水の潜勢力が減衰してしまうおそろしいながめがえがかれる。換喩がこわれて減喩になるときには、徴候として脱落が指摘できる。こんなフレーズだ――《たくさんの水をくぐってみえているのは わたしです あなたです/水菜を切る、水屋にすわる、水桶をかつぐ、かたちであることは/案外たやすいが/ときおり 水、の、繭、が/鱗のようにそのひとから剥がれおちるのをみる》。「水屋」に注意。水の脱規定力は水屋の意味でさえふたつに分岐させてしまう。水難からの避難場所と、台所とに。
水の相互連接力は静穏なのだろうか。水はたまればその最上部をたいらにする。ながれればその並行性により相互破滅をたやすくする。けれどもそういう水の叛意のなさをかなしみの範疇にいれるのはまちがいかもしれない。水はそれじしんの単位に一種すくいがたい罪障を負っている――木田の直観によれば「どこまでも自身に平衡でありつづける」ことで付帯される水の自己否定的な延長力がもんだいなのだ。水の単位は天秤状といえる。しかしなにと釣り合っているのか。自身のみと釣り合っているのなら、水はそれじたいを規定できなくなる。そう、またもやことばと水の類縁がめくれあがってくる。
深海に似るという木から 海市のように枝がのび
木もまた みずであったことで
みずは 記述する幼年期をもたず
みずを釣りあげようと栓孔をひらくと
管のかたちが てをぬらす
水が「深海」をよぶが、その深海がさらに木を喚起する。「深海と木が似る」というのは、しかし木田のうちでのみつくられている架橋で、その恣意をたぶん知りつつ、木田はことば=水をあえてほとばしらせる。木の枝もまた海市=かいやぐらになってしまう。そのように倒立朦朧化した視界にこそ、水は再帰的に侵入してくる。
いままで言及しなかったことをいくつか。まずこの詩篇では「水」は「みず」と表記され、その原則がくずされない。この鑑賞じたいはひらがなにみずがうもれるのをさけるべく水をつかっているが、たぶん木田は水の脱視覚性に忠実であるため、無意識の奥で「見ず」にも連絡できる「みず」と表記している。この脱視覚性をつうじ、この詩では第二聯―第三聯間ではげしく対象がずれ、しかもその第三聯それじたいの法則が、表裏の弁別ができないクラインの壺よろしく「綿密に」組織される。
しかもそれまでの各聯はすべて連用形で止められ、それじしんの終始をはばみ、水のように外延しようとしていたが、連用形でつながれるこの聯の終わり「ぬらす」の止めでついに一旦の終局が生じるよう按配されている。ただし水にとって「一旦の終局」は、「微分的な破局」へとつながるだろう。
「木もまた みずであった」のなかにある「もまた」は、どんな効果をうむのか。なるほど木の体液は水で、木は地中からみずからを「濾しあげる」いとなみをそのもののかたちにしている。おそろしいこと、見方によっては恥しいことだ。けれども「もまた」は「水でできているもの」の言外のひろがりを予定させる。つぎの聯でたしかに「海月」はでてくる。あるいはこの論考でくりかえしたように、自体性のあやふやなことで、水とことばにも類縁がなりたつ。ただしここでの「もまた」は「にんげん」の言外の示唆をふくんでいるようにみえる。
水はむろん記憶をかさねがきする羊皮紙ではない。水はむろん主体でもない。それでもさまよったすえに、「そこにある」のだ。だからひとつの水の幼年期をかんがえるだけで気が遠くなる。おとろえたイヌなら水に発狂する。なぜなら水は現前である以上に再誕といえるからだ。そのためには、じぶんの身からも水がもれでている減退が意識されなければならない。「じぶんから」―「みずから」。水は「みずから」再帰性であることで脱視覚化する手近な恐怖だ。水は詩が視像化しない最初の歯止めなのだった。
「栓孔」の語は、ぼくにとっては聴き慣れない。栓をひねれば水のでる蛇口の孔だろうか。蛇口ではなく「孔」のある「栓孔」の語がもちいられたのは、水の多孔状=境界消去力が念頭におかれたためだろう。《みずを釣りあげようと栓孔をひらく》には看過できない矛盾がしこまれている。水は栓をひねれば物理法則により落下する。ところがその落下こそが、せかいにあって「みず」を釣果にするための位相的な「ひきあげ」に変容するのだ。
ほんとうの変容は、生成変化よりもまえに、方向の錯綜を経由する。ことばには生成変化の作用点となるモノ性があるが、つながっている以上は先験的に方向性も組織されている。その方向性を読み手のからだに転写するのが換喩の本懐なのだが、それでは反転はなにをもたらすのだろうか。「減少」だろう。その減少そのものが脱視像的な「かたち」=領域を印象させて、そこに減喩が生じる。木田の減喩例――《時代を、すこしだけ気を失ってみるのはいいことだ》(集中「あめの多い水無月に」部分)。
栓をひねり蛇口からながれる水が「管のかたち」になって「てをぬらす」のはひとつの決着だ。だが管は本性的に「決着しない」。管が遍在しているためだ。木は上方への水の濾過器なのだからそれじたいが管だ。時間の後方から時間の前方をみやるときにも管が感知される。その管だけにこころをうばわれれば、じぶんが過去に向いているのか未来に向いているのかも分明でなくなる。だから「幼年期」がもてない。もちろんにんげん「もまた」、ひかりを透す眼も、おとを透す耳も、食餌をとおすからだぜんたいも、まとまりをなした宇宙的な管で、排泄が木田詩の一主題だという点は、詩集内に不敵にちりばめられている。
最終聯にゆくまえに、収録されている他の詩篇の細部から、木田のしめす「水相」をさらにとらえてみよう。
ゆれる(波間の食卓 で 私たちは確かににんげんのかたちをしているのだろう
ああ、おいしいね 幻の川茸のサラダさっくり混ぜて
世界は血がながれている
その朝 くるおしく噎るのは ドレッシングのきつい酢のせいだろうか
まだねむりの樹木から墜ちてゆけない葉擦れの
すこし痩せた潮騒のつづきのようになおも
噎かえり
いくたびも河口はほのぬるい
――「汽水/起床に」部分
すばらしい一連だ。記述域が不断のずれをかたどりながら、それでも水の縁語が連打され、それが「噎る」の動詞の斡旋により、気「管」に干渉しつづける。それでせりあがってくる病性が、水的なもののはるけさに拮抗してゆく。この拮抗は相殺ともとらえられるので、詩世界は視像において「減り」、聴像においてのみ遍満性を一定させている。こういう体感が「妖気」を放つのだ。
「幻の川茸」がきいている。幻というからには実在の自生でない。畔ではなく、川底にゆらめくものなのではないか。川苔、川海苔といった実在域が渉猟されたはてに登場した、けむりに似たなにか。そんなあやうさを引き寄せながら、「それでも」行をのばしてゆく反性が木田の創造の正体だ。
公園の枯れ木立ぬけてくる
わかい母親の腕のさみどりの嬰児
光にたどりつくのには危険な闇をいくどもくぐりぬけ
小径で ま白い息して交叉するときの
その羽毛のねむりつつんで初着のなかの細流の ふるえ
児はつよく雨裂〔ガレ〕の臭い放つ/ アア…水系のみなもと、と歩ゆるめて
――「ペーパー・ナイフの川を下る」部分
「雨裂〔ガレ〕」とはなにか。すくなくともぼくの語彙台帳にはない。雨水にしめった裂〔キレ〕。さらには雨水により裂かれた布。そんな類推がはたらくが、木田のすきな馬であれば「ガレ」は「痩せ」のことだし、エミール・ガレの、透明性をもたずに面妖化したアールヌーボーのガラス器もおもいうかぶ。ともあれ詩の勘所に、判明不能の特異点=「雨裂〔ガレ〕」があることで詩のぜんたいがくずれる。このことがすさまじいのだ。それで自己像なのか他領域の素描なのか、嬰児をかかえ公園をあるいている母親という北海道的な光景が、水の浸透力をもって不吉に顫動するさまがひろがってくる。呪詛なのだろうか。
なにしろ木田は水を知覚からえぐりだす。それは木田じしんが調伏できない水を内包しているためだろう。その同化は、対象との双対の局面ではさらに異化となる。このことのおそろしさを彼女は知っている。彼女のせかいではそのようにして「残余」がふえてゆく。あとがきにかえられた詩篇「曲〔きょく〕」では、水の残余に対峙してきたみずからへの、最終的な述懐が以下のようにしるされる。《このように私は日のおわりに水壺の栓をほどき数滴の水景をしらしら舐めています。》。
冒頭詩篇「水相」の最終聯におもむこう。
ときに くみあげたガラスの器〔コップ〕に 透明すぎる海月が なんびきもあって
みずが 海月のしゅうごうたいだったことに 気づいてみたりするのです。
つげ義春「ねじ式」の最終ネームのような文法だ。自体性の極限であり、どうじに自体性をはげしく欠く水を脱空間・脱視像的に、つまりは融通無碍・不敵な直観で、しずかながら叩きつけてきたこの詩篇は、最後に水をおちつかせる「器」を用意する。ところがそうなった途端、水は内部分節化し、粘性をたかめ、妖怪化する。「みず」は「海月のしゅうごうたい」へと生成変化するのだった。
動物のかしこさは、その憂鬱性にあらわれる。造物主の「造物筆跡」の秘密はそのようにして暴露されるのだ。イヌについてベンヤミンがつづった。ならクラゲはどうか。かしこいクラゲもおよがない。ながれるのみだろう。ながれればそれらはスカートの女性体になり、猥褻な中身をひるがえす。水の母というよりも、木田にとってクラゲは「海の星」よりもくずれやすいかけら、「海の月」なのだろう。
水の流謫は、水に海月を幻視することで完成に近づくが、この幻視は水を「きもちわるいもの」の隙間ない統合体にかえて、水のながれる能力をねばらせてしまう。結果、水はながれるのではなく、「そこに」「ゆらめく」。おのれのなかにある外部をぬらしつづける水の再帰性は、再帰性のたどる末路どおりに、「ないもの」として膠着してしまう。
このとき水が不在性じたいの潜勢力となる。カップの水がバートルビーよろしく声をもらすのだ、「しないほうがいいのですが」。「きづいてみたりするのです」は水の属性にたいしてだが、じつは自覚のほうがよりつよく機能している。つまり不在性じたいの潜勢力は、この作者の位置にこそ装填されるといえるだろう。
木田の詩的能力をつたえるために、つづく詩篇「桜 ――闇の器(かたち)」も全篇転記するが、あえて解説はひかえておこう。ただ一点、細部にでてくる「火の粉」は集中の別の詩篇「バード・テーブル」の以下の一行と対応していると示唆しておく。《(やがて闇、ひりひりと花ひら火になって一日を超える鳥鳥の孤独、散り散りと、)》。「一日」を「ひとひ」と訓めば「ひ」の頭韻連鎖と「反復音の語彙」が連携して、意味が音韻に変化する、もっともはげしい相の減喩がみられるとわかるだろう。
【桜 ――闇の器(かたち)】
闇がたつ
いっぽんの樹の名のように
深海のみずを
ひきあげ
ひるの宴のそば
樹は 闇の器でたちつくす
あめのもりで桜の刺青をした馬にであう そういったらきみはわらった 熱のかたちでたっていて そういうから 杜のしずけさのなか 焔〔ファイア〕! といななく声帯できみを走る
走り
ぬけて
そうであるのか
そのようにして
たわんだ枝先から火の粉に似た花片が
飛来する
やくそくのひがくる よるをまってぬけでておいで そういってきみはわらった とおくむかしからわたしは きみの闇のなか
その器の名で佇〔た〕っているのに
満開の桜並木のした 群衆は気づかないふりを装い
(乳母車に眠るわたしのちちとはは のはる)
そのひ わたしのなふだのついた苗木はたしかな予感に根をはることをためらっていたとしても