質問に答えられない生徒
【質問に答えられない生徒】
中村直行『沈黙と無言の哲学』では、ヴィトゲンシュタインのいう「語りえぬもの」にたいし、すぐれたケース出しをしている。たとえば「忘れ物はない?」という質問。これをぼくなりに言い換えてみよう。
「ある」と答えれば、「忘れ物」として想起された対象が意識化されるのだから、それは忘れ物の範疇から外れる。つまりその言い方は論理的に答とならない。逆に「ない」といえば、質問にたいする単純な同語反復となるか、「ないものがある」という矛盾を言外に惹起するかで、これまた答とならない。つまり唯一の正答は「ないはずだけど」という言い淀みにならざるをえない。この答のなかにある「はず」が、忘れ物特有の潜在性を転写していて、この潜在性が「語りえぬもの」の領域をしめすことになるが、じつはこの答もまた潜在性=潜在性の同語反復であって、答となってはいない。このような「答ええぬ」質問により、語りえぬものの問題がまず浮上するといっていい。
敷衍しよう。質問そのものに解答不能性をひきだす契機がすでにあるのではないか。たとえば「熱、ある?」という質問。体温のことが訊かれているとすれば、生きているかぎり体温はある。「ある」「ない」の単純返答はしたがって返答時の表情を度外視すれば誠実な回答といえなくなる。平熱の分布が35度台の後半から36度台の半ば過ぎとするなら、それにたいする「現在の程度」がたとえば「37度ちかくある」といった具体的数値をともなって語られなければならないが、有無を訊く問にたいし、程度を明示することで、質問にたいする応答性が横ずれしてしまっている。これまた設問の罠により解答不能性が強制されていることになる。
「あたし、きれい?」という質問はどうか。「きれい」と答えれば、相手の言から疑問符を除去した鏡像反映であって、これも答ではない。つまり質問がすでに答である構造に屈したことになる。「きれいじゃない」と応ずれば、それは質問内容への批評とはなるが、回答者のそうした主観は、主観内で閉じていて、じっさいは質問者の属性変化をもたらさない。あるいは「同意しない」が答の内容にすりかわるが、そういうものも回答期待性から逸れている。だから唯一の正答は「わからない」となるが、もちろんこの「わからない」も、是非を問うことばへのたしかな対応ではない。このとき質問がそのなかにはらんでいる自己言及性がすでに回答の障碍となっていると理解される。
「空、青い?」「花は咲いている?」といった外界規定にたいしてしか、ひとは答えられないのだ。それも「こちら」の状況を判断できない相手から訊かれたばあいにのみ成立する質疑応答であって、たとえば「いま」「たがいに」視認できる領域にたいして上記の問が発せられたならば、ぎょっとしてしまうだろう。主観間の相違が論題になっているような拡張が起こるためだ。
それゆえに生徒への質問は「1たす1は?」からはじめなくてはならず、根本的に質問は学校内ではそのヴァリエーションとなる。むろんたしかに「○○についてどうおもう?」は個々人の対象規定が期待される領域では成立するが、それは「語りえぬもの」と危険に交錯してもいる。たとえば「風についてどうおもう?」と設問をかえてみればいい。
「ある/なし」の質問でもさらに異様な事態が起こる。たとえば吉岡実『夏の宴』中の詩篇「楽園」は、《謎〔エニグマ〕/沖は在る》という有名な結句でおわるが、ならば「沖は在る?」という質問はどうだろう。それが隣在している相手から無媒介に出されたとすれば、「共有している光景の」「なににたいして」「沖を見いだそうとしているのか」が、自分自身にたいするのと同時に、相手の思考・感覚のなかにも忖度されることになる。この忖度の時間はたぶん無言でのみ言い表される。そうしてそれがなんと回答となる。つまり沈黙が答となる事例のみから、語りえぬものの詩的もしくは共愛的な性格がわかるのだ。ただしこの逆転は詩の効能にかかわるものに限定されていて、たとえば上記「熱はある?」では起こらないだろう。
以上、仕事で疲れたあとにかんがえたこと。だからまちがっているかもしれない。