あたらしい詩集のゲラをチェックした
【あたらしい詩集のゲラをチェックした】
分数においては分子が作用域で分母が作用道具――そう理解しているが、これが数学的にただしいかどうかわからない。いずれにせよ、おそろしい戒律がある――《ゼロはほかの数で割れるが、ほかの数はゼロでは割れない》。
なぜそうなるのか。「ないもの」をいくら分割しようとしても、それはないものにすぎない(平穏はたもたれる)――のにたいし、「あるもの」を「ないもの」で分割しようとすると、「あるもの」が悲鳴をあげる。存在からそれ以外の余波がでる。悲鳴など、あげさせておけばいいのだが、分割にかかわるこの干渉的な逸脱が、数学そのものの禁忌にじつはふれるらしいのだ。自己言及パラドックスが露呈してしまうということだろうか。いずれにせよ、《ゼロで割れば、せかいが破裂する》《瓦礫になる》。
「わたしじしん」を記述するときに起こるもんだいもこれに似ている。たとえば「わたしは義しい」という自己言明は信憑をえない。処刑直前、刑吏たちにかこまれればすぐにわかることだ。《おまえはじぶんじしんの領域を、ゼロ=「ないもの」で割っているにすぎない。じぶんじしんから要らぬ余波をだしてどうする。さっさと処刑されてしまえ》。
そんな局面ではどうすればよかったのか。刑吏のひとりはいった。「みたものを、みたものとして列挙すればよかった」「おまえの感官の所在はわかるが、おまえじしんはきえているだろう」「きえているだろう」「おまえは感官と手にすぎない」「この、すぎないことがおまえだ」「おまえはおまえの反響にすぎないが、そのこだまにはもともとの音すらないのだ」。
なにかをしたとか、なにかをかんがえたとか、動作や思考は記録してはならないのだろうか。「ある――やりかたはある――動作や思考は、おまえじしんのものでないまでに、かすませるのなら、それを記述できるのだ。こつは、ぎりぎりゼロでないもので、じぶんじしんを割ること。おまえのしたことから、ぽろぽろことばが落ちていって、やった場所と、書かれているそことが、いよいよ離れてゆく。だから記述されているのも、おまえじしんのしたことではなく、せかいのしたことにかわるだろう」。
納得した。さてそのようなものを書いただろうか。めんどうをかんがえるのをやめ、処刑された。
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分数というのは、演算であり、同時に値=解ですよね。その演算は自由な条件設定でもある。このときただひとつ、0で割るのがなぜ禁忌になるのかが、中学生のぼくにはよくわかりませんでした。コンピュータ上でも0で割る演算をするとエラーが出るのでしょう。宏輔さんのいわれるように「a/a」は分母分子の等価性をしめす値=解だから「1」にならざるをえないのに、ただひとつ「0/0」だけが演算不能となってしまう。このときいわば演算の恣意が解を浸食する逸脱が起こるとみえます。しかしこれはどういうことなのか。数値の系そのものに、系以外が自己言及パラドックスとしてふくまれていて、それが演算の例外状態をとるということではないのか。よくわかりませんが。
とりあえずこれは詩のもんだいにも敷衍できます。《自己の系に自己以外が自己言及パラドックスとしてふくまれている》。この命題のために「わたしは嘘つきです」がよく用いられますが、よりもんだいのなさそうな「わたしはあるいた」でもじつはそれが成立するのではないか。書き手と対象が一致することにはそういう怖さがある。書いたことはそういうことでした。漸近のもんだいにも伸ばせます。「b-b’/a-a’」のとき、aとa’を次第に同値に近づける緊張がそれです
2015年07月03日 阿部嘉昭 URL 編集