元少年A『絶歌』 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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元少年A『絶歌』

 
 
【元少年A『絶歌』】
 
 
畏友・切通理作くんから、「元少年A」の著した『絶歌』について、メールかチャットのやりとりで意見交換しませんか? という提案が先週、とどいた。その記録を切通くんが主宰しているメルマガに転載したいという。ぼくが『平成ボーダー文化論』で酒鬼薔薇聖斗についてながく言及・考察をしている点を睨んでのものだ。むろん切通くんも事件当時、酒鬼薔薇については積極的に発言・執筆していた。
 
ネットやマスコミからの情報を判断し、一時は『絶歌』につき、「ひとり不買運動」をつらぬいていたのだが、切通くんの薦めもあって、まずは読んでみた。感慨は複雑だ。「分裂」が仕込まれ、しかもそれが連続しているからそうなる。この本は複雑に読まれなければならない。とてもマスコミが著者の「卑劣」を言い募るときの断片引用では括れ切れない本だと、まずは銘記されなければならないだろう。
 
構成的には、97年の犯行前後と、その後の連行から医療少年院での「精神治療」までを回顧した第一部、それに出所後の保護観察下での生活自立の苦闘と悔恨を現在に連続するかたちでつづる第二部とに二分されている。この第一部と第二部が分裂的に並置されながら、同時にそれが「連続している」、書物全体の構造がまず吟味されなければならない。
 
第一部では三島由紀夫や村上春樹からの影響(著者はこの影響源を隠さず綴っている)のもと、自己の性向を分析する。ところが再帰的な自己対象化は、ネット的現在と同調するように、多くは自己愛的に映る。そこに三島的な文飾まで相俟うのだから、陶酔や自己顕示を言い募る「気分」はわかる。
 
ところが事件の本質に横たわっていた「離人感覚」が「この書かれているいま」にさえ温存されているとわかると、失笑で事は済まされなくなる。つまり自己愛と離人症的自己疎隔が、ここでも「分裂的に連続している」のだった。
 
ひとむかし前の高校文芸部な「美文」に傾斜してしまっている細部が確かにあり、とうぜん当人のなした事柄からの出し入れ勘定をおもえば看過できないと憤慨させつつ、たとえば著者が親炙した古谷実のコミック『ヒミズ』を分析するときの、マンガ評論家さえ蒼褪めさせるような端的な把握力の素晴らしさはどうだろう。書くことの能力が欠落に基づくと別言すれば、この本は「運命的に書かれている」のであって、著者の生活改変欲や自己顕示欲によって書かれているのではないと素直におもってしまう。この本に欲望があるのか否かはこれまた「複雑に読まれなければならない」。著者が「食べること」を機能的にしか捉えられない点だけでも深い考察が要る。
 
事件「周囲」を回顧するときの不気味な精神的混入物が、そのまま事実と離反しないだろう点が、いわば著者の「書く資格」そのものを直撃している。これは衆愚がかしましくなるだけのネット時代においては、あきらかな恩寵といえる。つまり病弊もふくめ、この本は高度なセルフドキュメント本に位置づけられるということだ。これらのことがマスコミ発のバッシング記事ではほぼいわれていない。
 
第二部では異様な事件ではなく出所後の生存苦闘が中心化される。それゆえ第一部にあった文飾がまず後退する。けれどもここでもやはり「分裂性」が接合的に連続展開する。カプセルホテルなどでの宿泊という生活基礎のもと、職場を変えながら、経済の底辺を放浪しなければならなかった著者の生はプレカリアートの類型のなかにある。ところがそういう生のなかで他者のかけがえのなさに逢着してしまうとき、痛ましすぎるほどの「悔恨の練習」が開始される。それでも記述の端々に、自己顕示に類するものや、犯罪者系譜のなかの聖なる極点としてみずからを捉えてしまう無意識などがもたげてしまう。
 
ここでも相互離反する分裂が、いわば統合的に発露されているのだった。これはなにか。分裂、統合ということばを意図的にもちいているのだが、ある種の精神疾患が疾患のまま自足してしまう逆転が生じているのではないか。このことを専門的な知見を動員して、著者の保護観察下時代同様の庇護と精神分析的註釈の必要とを説いた香山リカだけが、ひとりバッシング特有の単純化から逃れているのはいうまでもない。
 
修道僧的な倹約生活のなかで著者は図書館にかよいつめる。それで書物を得てゆく。このときに彼のケアチームがしかるべきナヴィゲーターを用意すべきだったかもしれない。そうすれば本はたぶん三島的な文飾という弱点からさえ離陸できたのだ。まずは著者と類同する資質をもつロートレアモン。その『マルドロールの唄』に看過できない自殺否定の一節があることをつたえる。カフカの箴言でもよかっただろう。そこでは内包と外延との同時性によって身体を中間化させてしまう「悪」の疎外が考察できるはずだ。これらを装填して、たとえばハイデガーにさえ著者は向かうことができたのではないか。それだけの思考力が彼にはあるとおもえる。
 
この本の「あとがき」がネットで転載されているのをみて、薄甘い後知恵によって、酒鬼薔薇の犯罪の怪物性が当事者自身によって稀釈され、勢いをそがれたまま再構成されている――結果、この本は酒鬼薔薇のカリスマ化を阻止する効用しかないと当初かんがえたのだが、それはまちがいだった。「悔恨の練習」「その必然的な挫折」「さらにその反復」――これらが本の執筆動機の中枢をなしていて、このこと自体が書くことの現在性をはげしく抉っているのだ。
 
彼は自分を「ドリル」に比した。この徹底的な「穿孔」によって起こるのは、穿孔とはまるでちがう変動、たとえば「褶曲」のような事態だ。むろん著者の身体がまず褶曲する。同時に、彼と読者の距離も褶曲する。著者に近づけないのに、いわば照応する力線が著者とのあいだに幾重にも横断されるから、結果、地勢そのものが褶曲するしかないのだ。
 
おなじく少年犯罪の伝説的な服役者だった永山則夫、その最高傑作はナイーヴな二元論・反映論・還元論に終始した最初の『無知の涙』だった。元少年A=酒鬼薔薇に今後も著作がありうるとするなら、この本の印税獲得(被害者家族は印税を受け取らないと表明している)によってより幅を得た読書結果を反映できる、『絶歌』よりもさらにあとの著作になるだろう(事実提示の衝撃性はなくなるとはいえ)。たぶん彼の離人性向は所与的なものだとおもう。つまり彼は症例として哲学化せざるをえない。哲学と精神分析との非ドゥルーズ的な架橋。そうなっていい「潜勢」「可能態」だというのが、『絶歌』を読了しての最初の感想だった。以上、予断を訂正した。
 
というわけで、切通くんと相談し、この本をどう議論に乗せるかをかんがえてゆこうとおもう。
 
 

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2015年07月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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