二倍速と通常速 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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二倍速と通常速

 
 
【二倍速と通常速】
 
日常生活では時間は「いつのまにか」すぎる。雪国に春がくるのもいつのまにかだし、昼が夕方になるのもほとんどがそうだ。恋人が現れるのも、いつのまにかそうなるよう工夫したほうがいい。だから相手の遅刻にじれないように本屋で待ち合わせなどをしたものだ。
 
読書ではわれをわすれている。そしていつのまにか読み終える。そうなるようにしたいが、物理的にのこり頁数というものが眼に見えるし、半分読んだなどと進行具合が測られたりする。退屈しているのではない。手の感覚を眼が追認するのだ。それでも興奮するときは、自分の設定している読書ペースが、本の仕掛けてくる時間の脈動と奇妙に一致して、時間の自他に弁別がなくなるような気がする。時間そのものが身に近づいている。密着している。それが読書を愉しんでいる時間かもしれない。
 
日常にくらべ、時間芸術とよばれるものに接しているときは感覚がずいぶんことなる。時間芸術の時間のおおむねは、さらさらしていない。無感覚ではない。期待・待機、暴発の不安、不発の哀しみ、驚愕、多数化と細分化、飛躍にかかわる少なからぬ眩暈、自体的実体化、繰り返しにたいする倦みや歓び、心情化、退屈、遅延、判明など、さまざまな時間作用で、時間に機能や色彩や形象がくわわっている。
 
そうした多元化により時間は粘性をつよめ、稠密度をたかめてもゆく。時間はひとつの蛇体のようになり、うごめきがかたどられ鱗まできらめかせる。輪状のながさがいま通過してゆく。通過はいつも音楽的で、ふかく注意すれば、その細部はいつでもきえてしまう事前性を、かなしみに径路をつなぎながら、たたえている。摩擦をかんじる。
 
時間単位の可変設定は、まず映画によってなしとげられた。スローモーションやコマ抜き(早送り)がそれだ。最初は人間の感覚を超えていたはずだが、すぐに了解化された。もともと映画のコメディなどのテンポが、コマ抜きに馴染んだのがおおきいだろう。速いものはわらえるのだ。
 
スローモーションはおくれてあらわれた。スペクタクル化している局面、その細部の経路をさらに暴露し強調するやりかたはエロチックだが、ひとつまちがえるとポルノグラフィックになってしまう。実際にあるのは、コマ抜きにあったような感覚上の充実した了解ではなく、日常時間では意識化のよわかったものにたいする異様な覚醒強制だ。これは脱臼であり、圏点化であり、眼の幽閉だろう。風紋はあっても空気がうしなわれる。時間はさらに粘着度をつよめ、蜜のようにどろりとながれる。そうしてそのなかにしるされている引き伸ばされた愛のしぐさなどが溺死寸前となる。そう気づけば実際は水を介して対象をながめなおすような、疎隔化をかんじざるをえない。
 
現在のTVについている二倍速早送り視聴機能はよくしたもので、感覚生理学にのっとって精錬されたにちがいない。音声の変型が最小限に抑えられている。また撮影のほうも、手持ちによる不安定な視角移動が二倍速視聴でゆれをもたらすとかんがえられているのか、手持ちであっても音楽のスラーのようななめらかさがいまや金科玉条となったようだ。
 
むろん時間の短縮・節約のため二倍速で鑑賞しているのだが、たとえばTVドラマでそうさせるものを、あながち軽視しているわけでもない。俳優の演技上のニュアンスの見落とし、科白の聴きのがしが「ない」(それだけ俳優の滑舌がしっかりしている)と前提したうえで、むしろ二倍速視聴ではっきりしてくるものがある。人物の行為が召喚してくる空間の変転(これには外界のもつ情報が行動を規定するアフォーダンスの知見がかかわっている)、配役上の対置、物語の構造と呼吸などがかえって明確に把握されるのだ。哲学書の早読みにちかいだろう。むろんアクションは先鋭になる。
 
難点は、ひとつの時間単位のなかで印象や思考を叩きこむ物理的時間が減るため、細部の記憶がとうぜんながらうすくなることだ。ただし二倍速視聴をうながす良質な作品では、実際の難点はたったそれだけだとも逆言できる。むろん二倍速視聴だからこそ、通常にもまして視聴に集中が要求されるのだが。
 
ひとつのクールがはじまると、TVドラマはすべてチェックする。きらいな俳優が主演していようと、才能を買っていない脚本家が執筆していようと、なにが変化するかわからないからそうする。ただし撮影や音楽づけや俳優への演出、あるいはカッティングの稚拙は開巻2分ほどでわかってしまう。そうなると視聴条件を二倍速に変え、それでもさらに退屈をおぼえると、早送りをしてエンドクレジットを確認、一覧表にメモしたのちは、当該放映分を消去、継続録画も解除してしまう。
 
けれども、見方のこつをつかんだものも二倍速になる。その状態のまま初回放映を見終えて満足にいたったものは、継続視聴の積極的な対象なのだった。このタイプのおおむねは話法が良い。話法の良さがよりつたわるために、二倍速視聴をドラマみずからがもとめているとおもうほどだ。
 
となって、二倍速視聴をはばむドラマが稀少価値ということになる。すぐれた映画同様に、時間進行が稠密でねばつき(通常速度なのにスローモーションの感触が誘致される)、しかも暴発の予感をかかえ、時間作用が物語提示だけでなく、たとえば「時間のかたち」を多元的に繰り出してくるような作品だ。一時間弱のうちに数百の穴をみてしまう。数百のひかりの創意をおぼえてしまう。俳優の内面を臓腑のように物理的に感知させてしまう恐怖もある。視線変動とまばたきの連関を記憶の芯に灼きつける誘惑だってある。
 
前クールの白眉は幾度でもしるすが、NHK土曜ドラマの『64』だった。あのドラマの時間はダイヤモンドのようなするどい稜角をもって複雑に内部反射した。ところが結晶内にみえたものは、世界がもたらす通常に反するように、ざらざらしていた。やすりの摩擦が眼にあたって、物語に乗る以前に、感覚そのものが緊張にいたったのだった。
 
今クールの第一回放映のドラマで、暴発の予感をたたえていたため二倍速視聴をゆるさなかったのは、いまのところ『探偵の探偵』だろう。北川景子は飛躍の渦中で、目線のするどさ以外にアクションも切れるようになった。しかもあしどりさえ良いのだ。結果、ある領域に闖入するときの緊迫感や、不意に現れたときの唐突感が、身体レベルでごく自然に生産される。演技ではなく所与が前面化しているから鑑賞が混濁しない。それに、『64』同様の「くらい画面の蠱惑」もくわわっている。探偵物のメタドラマとして、今後も期待できるだろう。そのために不穏な起爆剤として川口春奈も配剤されている。
 
ちなみに二倍速視聴できもちよかったのは、いまのところ『ホテル・コンシェルジュ』『リスクの神様』だった。ほか、お払い箱か否か、決めかねているものもある。来週開始のドラマもふくめ、いずれさらになにかを具体的に書くかもしれない。
 
 

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2015年07月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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