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チョン・ジュリ『私の少女』 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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チョン・ジュリ『私の少女』

 
 
【チョン・ジュリ監督『私の少女』】
 
韓国の女性監督チョン・ジュリによる、これが長篇第一作という『私の少女』(2014)は予想を上回る傑作だった。予想というのは、劇場予告篇やチラシなどで、「エリート女性警察官」が「虐待されている少女」を救う正義の物語だろうと高を括っていたためで、その大枠を超えてゆく終盤は「予想しなかった展開」そのものが圧倒的に「複雑な」映画的感動をもたらした。
 
まず結論を抽象的にいうなら、正義の映画に終始するものなどではけっしてなかった。観客に「みえたことのみを信頼する」選択を厳しく付与する倫理的な映画だったし、しかもなお、僻村をおおう「前近代的な非開明」「悪の連鎖」、そこにひそかに横断するフェミニズム由来の「やわらかい光明」を見分けさせるという意味で、視線の精度すら問う挑発的な作品でもあった。
 
札幌シアターキノで上映が開始されたのは6月20日。昨日が上映最終日だった。その最終回に、ペ・ドゥナの主演作はやはり観ておこうと駆け込んだ。結果はもっと早くに観て、学生にも薦めるべき上述のような傑作だったわけで、以下の感想ネットアップも公開期間に間に合わないことになる。キノにも申し訳ないことをした。このタイミングなので、あるところからは注意喚起を明示してネタバレの域に論評を踏み込ませることにする。
 
映画は古典的な「ものがたりの単線」をえらぶ。一人物がある場所に来て、土地柄やそこにいる成員を順番に説明されるうち、作品の用意する関係構成そのものが、観客にまで伝えられる。中心化されたその一人物と、観客がおなじ場所を得る、ブレのない結構。この結構を脚本も手掛けたチョン・ジュリ監督は、無駄のない適確さで消化してゆく。古典的な語りが可能なスタチックな才能。それにたいする信頼がまず惹起されてゆく。
 
ところが最後のくだりを観、この映画の最初のくだりを遡行的に捉えなおしてみれば、監督の仕掛けはそれだけではなかったとわかる。ともに進行するクルマのフロントグラス越しに、前進移動で風景の変転が捉えられ、最初はペ・ドゥナ扮するヨンナムひとりの運転だったものが、最後はヨンナムが救い出した少女ドヒが助手席に同乗している「加算」が生じた――とりあえず作品は相似設定による円環構造をもつ――じつは問題はこの点だけではなかった。
 
最初のくだりでのクルマの移動は、フロントガラス越しによる前進移動光景、運転するヨンナムの後姿を入れ込んでのクルマ後部からの前方へのショットと、展開のはじめが二分される。最初は暗い日中の雨。次第に雨が晴れる推移があり、行路のながさ、つまりヨンナムの目指している場所がいかに僻地かが間接的に伝達される。やがて横の車窓はるかに海がみえはじめ、クルマが海岸地方に到達したとわかる。
 
陥没があちこちにあり水溜りをつくっている整備されていない田舎の道路で、異様さを印象させ道路脇にしゃがんでいる少女(のちに彼女がドヒという名だとわかる)にたいして、クルマの走行がはげしい泥はねを起こす。ヨンナムはクルマを停め、いそいで少女に詫びを入れようとするが少女は逃げ出してしまう。少女が駆けるのは稲田の一本線の畦道。ロングの縦構図で「線」に分け入って線型が遠ざかってゆく運動が印象的に捉えられる。
 
もしかすると、会田誠の奇作「あぜ道」が参照されているかもしれない。ツインテールにしたセーラー服姿(それだけでロリコン萌えを形成する)の少女、その後頭部が一直線の奥行に稲田の畦道をみている。少女の後頭部を貫通する頭髪の分け目と、畦道とが、挑戦的な遠近法として同一線上に配剤されている。結果、風景の少女化が起こり、「農」の領域が脱文脈的にざわめく。同時に、稲穂のなかの一筋という図像性は、対象である少女に育ち始めた女性器の形状をも妄想させる。もし会田のこの絵画に監督チョン・ジュリが敬意を払っているとするなら、田舎の僻村を舞台にした『私の少女』に伏流しているものはモダンな感覚だという判定が生ずる。
 
雨が晴れに転ずるという天候変化は、作品の終結部のもつ価値転位の予告とみえる。ところがラストではそういった予定調和性を上回る加算がみられる。最初のシーンにはなかった、横位置からクルマの移動を並行的にとらえる移動ショットがあって(じっさいは、クルマのボディサイドに装着された張り台から撮影されているのだろう)、雨粒に覆われた窓の向こうにみえる少女ドヒの顔が大写しになるのだ。物憂げな顔。映画の最初に定着された童女の風情からすでに脱し、終盤では少女的エロスが兆している。
 
このあたりからエンディングのために用意されたウィスパー女声歌唱によるギターアコースティックとディレイをつかった夢幻的なバラード(人魚の歌?)がながれはじめる。4ADでのエリザベス・フレイザーのソロ曲のような、作品の雰囲気に合致しない卓抜なセンスのエンディング曲だった。監督自身のセンスはやはりモダンなのではないだろうか。
 
それは「横から」という方向性にこそあたえられたオルタナティヴだった。最初の段階、村へのヨンナムの到着をしめすときには「奥行へ」「真理へ」という方向性がしるされただけだったとすると、ラストの一瞬に現れる「横から」は、作品の滲ませる、未来へとわたる本当の暗雲をしめしている。とりあえずラストでドラマ上は光明が生じたはずなのに、そこに降雨のシミがつけられている。その中心人物が車窓の雨滴越しにとらえられた少女ドヒなのだった。
 
「縦」「奥行」は作品の勘所で反復される。少女ドヒに仄かに、しかも反価値的にアリス的な夢幻性を付与したことを、監督チョン・ジュリはそれで表現しようとしている。田舎の漁村に、「訳あり」で警察所長として赴任したキャリア警察官ヨンナム(これが不祥事後の左遷だったことがやはり作品の適確な進行で判明する)はおなじ学校の生徒にいじめられているドヒを救いだし、そののちドヒの深夜の浮遊を、気配をかんじ、なにか夢幻性に囚われたように追う展開となる。月明下の細道が奥行へ奥行へとのびてゆく。
 
この作品では酒が飲まれる場所、さらには「道」の描写が素晴らしく秀逸なのだが、ドヒの特権的な場所が、貧しい港湾部に突き出たシンプルな桟橋だという点は、2シーンの複合によって判明する。そこでドヒは苛酷な家庭環境から抜け出てダンスの練習をしている(劣悪な生活環境にもかかわらず身体能力のたかさが窺われる)。桟橋は、奥行への伸長が中途で挫折した図像性をもつ。すなわち奥行の不可能性こそがドヒの棲処だったのだ。
 
ペ・ドゥナ扮するヨンナムは正面性対峙を身の置き方の基本にする。ドヒにたいしても、ドヒの継父ヨンハ(この二者にたいしてはヨンナムの住居のドアの開口がとくに付帯する)、のちに重要な役割を担って登場する女ともだちにたいしてもそうだ。あるいは交番と警察署との中間形態にある勤務場所、その入り口にだれかが事件性をもたらして登場する場合にも、勤務場所の奥行から彼女は来訪者に正対している。
 
それにたいし、ドヒは正対を無効化する位置に身を置く、存在方法のオルタナティヴを変奏する。ヨンナムが風呂にはいり、飲酒をしている。就眠の準備と作中で説明されるが、そのからだの「冷え」を癒すことは存在論的な要請なのだろう。トイレと一体型の風呂場に、小用でドヒが入ってきて、小用ののち湯舟にみずからも入る。このときはヨンナムの背中側に密着する。だからふたりのやりとりは成瀬的な、相互の顔が前方に向いた縦構図となる。ところが縦は密着により距離感を殺されている。
 
そうして縦を無効化させたのち、家庭での虐待から救い出されてヨンナムの仮の居宅に入り込みベッドをあてがわれていたドヒは、とある深夜、居間のソファーに眠るヨンナムの「横から」密着して、「ともに眠る」姿勢をとるだろう。ここでは距離の抹殺と「横から」の方向性が複合する。
 
終盤、ドヒの義理の祖母の死因をヨンナムが問い詰めるクライマックスがある。このときはヨンナムの深刻な闡明態度により、ドヒが正対をしいられる。ところがナメ構図、後姿のヨンナムの顔の間近で、ドヒの落涙が降雨そのもののように圧倒的なうつくしさを帯びる。この異変により、正対がそのまま密着して、正対性を殺されているような感慨がやはり生じてしまう。ドヒが「横から」を戦略にする点は、継父を性的暴力の嫌疑にかける謀略場面にもあきらかだろう。
 
話をいそぎすぎたかもしれない。忘れないうちに作品の前提をしるしておこう。舞台となるのは朝鮮半島のリアス式海岸のどこかに存在するまずしい漁村。おとなしく左遷期間を一年ほど勤めあげればソウルへの復帰も約束されていると先輩上司から太鼓判を捺される女性キャリア警官ヨンナムにとって、「僻村の非開明」が次々に露呈してゆき、やりすごすべき一切に、彼女は巻き込まれてゆかざるをえない。巻き込まれ型サスペンスの「奥行」を作品はひそかにもつ。
 
彼女の引越し荷物のなかにペットボトルを並べていれた重い段ボールがあり、それをあたらしい同僚の助けを断って、彼女は新住居(一軒家の二階部分)に自身で運びいれる。むろんここでそれがなにを意味するかの伏線が張られる。やがてコンビニ酒屋での真露的な透明な焼酎の大量買い、そのあとの水用の大型ペットボトルへの移し替え(なんとその蛮行は夜の酒屋の入り口そばに停めた車中でおこなわれる)により、彼女自身のアルコール中毒の深甚さをつたえてくる。負荷を背負っているのはドヒだけではないのだった。
 
整序された順番ながら、やがて「悪」が作中に満載される気色になってくる(以下、悪については鉤括弧付でしるす)。まずは少女ドヒの局面からみてみよう。おなじ学校の生徒から「いじめ」に遭っていた。その理由はたぶん彼女が汚く、打ち解けず、コミュニケーションの輪から外れた周縁存在だという点による。このために彼女は作品に出現当初、外景の周縁部分に身を置いていた。彼女の家庭環境に問題があった。ドヒの実の母親は「育児放棄」をして出奔していた。継父ヨンハがドヒを憎むのは母親に類似した表情造作と「淫蕩」の血がまだ幼いドヒ(小学校高学年だろうか)に二重写しになるためだ。
 
ドヒの祖母の不慮の死(荷台付オートバイ=変型トラクターのようにみえる=を運転中にまるごと落下、溺死した)があったのち、すでに温かい(それでもいじめられたままではダメだという峻厳な)警告をヨンナムから受けて、ヨンナムのあとをことあるごとに追うようになっていたドヒがヨンナムの居宅に転がり込む。このとき雨で冷えたからだを温めようとドヒを風呂に入れて、ドヒの裸身(画面では背中がしめされる)に深刻な「虐待」痕をヨンナムは見出す。
 
こうしるすと、ドヒは受難の渦中にあるだけのようだが、実際は魔性を秘めている。のちあきらかになるのは、「虚言」「陰謀」さらには「殺し」なのだが、これについては後段にゆずろう。
 
村に唯一のこった“ヤングマン”の継父ヨンハにたいし、その生業の乱暴な切り盛りには警察レベルでの黙認が働いて、庇護の擬制が成立していると次第に理解されてくる。彼は、ブローカーをつうじインドや東南アジアからの「不法」就労者を買い、「劣悪な低賃金」で漁業に従事させ、就労者の親の危篤にさいしても帰国をみとめない「恐怖体制」による「労働強要」をおこなっている。「酒癖がわるく」、「義娘に手をかける」だけではないのだ。ここに女性警官ヨンナムの「アル中」さらには「性的選択」までもが関わるのだから、この僻地の閉鎖性のなかに、悪が満艦飾にひしめいている気色になる。ヨンナムの段ボール内のペットボトルと事はどうようなのだった。
 
悪の多形的な満艦飾状態といえば初期の三池崇史が得意の主題としたものだが、三池とはちがった経路で監督チョン・ジュリは悪の転位を図る。三池が悪の魅惑的な無限化を悪の速度拡大から志向したとすると、チョン・ジュリは悪の生起する場所の、グローカリズム的な普遍性を剔抉し、それを貧しいながらもうつくしい風光によって囲んで、悪を減殺する。チョン・ジュリの悪の哲学は風合がやさしい。
 
作品で酒の飲まれる場所、あるいは道の風情がすべて実在性に富み、材料のすくなさをはねのけて映画的にすばらしいとは前言したが、たとえば普段は漁網を編み直すだけで無聊をかこつ村の中年以上の主婦らが蝟集する“何でも美容室”の空間の、すかすかな充実感と実在性はどうだろう。あるいは悪の権化としてみなされそうな、継父ヨンハとその母(ドヒにとっては義理の祖母にあたる)の、不逞な悪の活力はどうだろう。ヨンハにいたってはその千鳥足すら逼塞の哀しみをふくんですばらしいのだ。悪に区分される者たちに実存の魅惑をあたえる。こうした二面性が、作品の奥行を豊饒にしている点が意識されなければならない。この監督は告発しない。もっとふかい奥行を世界に見据えている。
 
俳優の「みえかた」の多元性という点で、監督チョン・ジュリのフェミニンな感覚がそのふかい部分を統御している点にも気づく必要がある。肩章を警官制服に負うペ・ドゥナ扮するヨンナムは、中盤以後に現れる女ともだちから、「髪を切って」「ダサくなった」といわれるし、職業柄、あるかなきかのナチュラルメイクで通している。ところが制服の下半身のパンツルックが、ボディコンシャスを意識させずにそれでも颯爽としていて、採寸の絶妙さをおぼえずにはいられない。それで彼女のあるきや走りに一層の躍動がしるされる。「やつし」がそうなっていない制服姿ということでおもいだしたのが、TVドラマ『青い鳥』での、豊川悦司の駅員制服姿だった。ペ・ドゥナを裸身でつかいとおした往年の日本映画の暴挙は、なにを着てもそこに花を添えるペ・ドゥナを目にして、いまだに告発されつづける必要があるとおもった。
 
ところで、俳優の容姿にかかわる多元性という点で、ほとんど恐怖の域にさえ達しているのが、ドヒを演じた子役キム・セロンだろう。彼女はざんばら髪、愛情を配慮されていない、あてがわれた着衣(しかもそれは着倒されている)、顔の汚れ、顔の暴力痕によって、「やつし」の極限にいる。汚いだけではなく、表情の端々ににじませる卑屈さ、相手の反応を測る狡猾さなどにより、実際は観客に、「身の毛のよだつ」感触をあたえるはずだ。ところが彼女には、劇中、ダンスの才能、TV画面でのタレントの振りの高度な模倣能力、芸の再現能力があたえられ、才能や生存の「奥行」が暗示される。それだけではない。さすがに彼女の恰好を見かねたヨンナムによって「可愛い」「その年頃用の」衣服を恵まれた途端に、危険な色気がその身体と顔から揺曳するようになる。
 
絶妙の起用だった。ドヒに扮したキム・セロンは、表情に貧しさと邪気をただよわせながら、その造作が将来の美人ぶりを予定している多重性をもっていたのだ。作品が要請する栄養失調により細身で最初現れた彼女は、夏休み一杯という条件でヨンナムの庇護下に置かれ、摂取栄養が潤沢になると、微妙な性徴をしるしてくる。夏休み前に着ていた制服がきつくなったとしめされたとき、この点がはっきりする。それが目出たいのではなく、むしろひそかな淫蕩性を発現してしまう点が、作品の恐ろしい終盤を用意することになる。それまでは魔性出現にむけての序曲にすぎなかったのだ。
 
子役キム・セロンに演技上あたえられた最大の試練は、「自罰」「自傷」の表象だった。卑屈に相手の顔色を窺うだけなら彼女の艱難は受動の位置にすっきり収まるが、その存在の困難にチョン・ジュリの脚本は、統御不能性を上乗せする。だから「かわいそうな子の救出」の枠組から作品じたいがとりあえず離脱することになる。のちに詳述するヨンナムとその旧友の再会時、キム・セロン=ドヒはヨンナムの居宅に置き去りにされた。帰宅確認などのためケータイで幾度もヨンナムに電話をかけるが、やがて煩がられて電源を切られ、救出の希求は黙殺される。
 
もともと継父ヨンハが、曰くありげに、「壁に額をぶつけつづける」ドヒの自傷をニヤつきながらヨンナムに示唆していた。その凄惨を深夜、居宅にもどったヨンナム自身が目の当たりにする。10歳前後ながらベッドで飲酒をつづけ顔を赤らめて朦朧とさせたドヒが(ヨンナムと一体化するために、その制服を羽織っている――してみると、飲酒もまたヨンナムの模倣だ)、観客自身の痛覚を刺戟するような強度で壁へ額を打ち続けていたのだった。ヨンナムは必死に止めることになるが、このシーンの衝撃が余剰を喚起することになる。「アル中」「児童虐待」「労働疎外」など「悪」のヒエラルキーのオルタナティヴに、至高の悪、つまり「自傷」が伏在しているというのが、この女性監督のほんとうの見切りなのではないか。
 
【※以下、ネタバレ】
作品が転調をしるすのは、交番=警察署に、土地柄とは異質な派手な恰好の、ヨンナムと同世代の女が訪ねてきたときだった。作話のながれからして、それをドヒの実母ではないかと誰もがおもっただろう。ヨンナムは顔色を変え、当日の早退を部下に告げ、女とふたりながらに居宅に戻り、制服からの着替えを済ませ、同居するドヒに留守居を依頼、遅くなるとだけ告げ、女とともに居宅をあとにする。このときの女とドヒの対峙の質から、その女がドヒの実母ではないとまず明白になる。
 
客がほとんどいない閑散とした呑み屋で、ヨンナムと女の酒席対峙がはじまる。対峙といったが、ヨンナムは女にたいし斜に身を構えている。女は地味になったヨンナムの容色をあげつらい、返す刀で左遷に耐えるヨンナムの人生選択の無意味を説き、「やりなおそう」「オーストラリアに一緒に行こう」と使嗾する。女の熱意にたいし、ヨンナムは焼酎をあおり、気まずい膠着がしるされる。このあたりでふたりがかつて同性愛カップルで、それが威信に重きを置く警察に筒抜けになって、ヨンナムが「飛ばされた」事情が完全に把握されてゆくことになる。
 
ヨンナムはその場では相手の申し出に同意しなかった。職務放棄して、ドヒを虐待家庭の惨状に引き戻す不正義をかんがえもしただろう。ふたりはとりあえず別れる。飲酒しているので、女の代行運転のため同僚を呼ぶが、そのまえ、駐車場でふたりの顔が間近に正対峙する。往昔の体感が甦る。次第にふたりの顔が近づき、接吻がおこなわれる。それを、飲み会のため駐車場にはいってきたクルマのヘッドライトが偶然捉えてしまう。間のわるいことにそのクルマにはヨンハとその飲み仲間が乗っていた。彼は警察が秘匿していたヨンナムの左遷事情を一挙に把握してしまう。
 
もともと正義を貫徹するヨンナムにとって対象との正対峙は必要だった。身の置き方の正義を保証したのは、地味にみえる彼女から放たれる、それだけが光明感のある真っ直ぐな視線だった。ところがしるした接吻のように、正対峙における距離が無化すると、それが受難を喚起してしまう。距離の無化にかかわる不調や妖しさは、「横から」であれ「後ろから」であれ、同居するドヒがヨンナムにあきらかにしたものだった。相手の場所、距離の無化によって惑乱にみちびかれる身体が、ヨンナム=ペ・ドゥナに刻印されたものだった。その条件がこの作品のクライマックスで克服されることになる。
 
これを前段にして、さらに作品は有機的な積み重ねで、暗雲にむかってゆく。それからの局面は予告篇やチラシでは予想できないものだった。まず、港の作業場で、ヨンハの雇っているインド人が自暴自棄の狼藉を働く。激昂したヨンハが彼を打ち倒し、倒れているからだを無慈悲に蹴りつけるなど怒りを増幅させている。その彼が通報を受けた警察に現行犯逮捕され、とうとうヨンハの不法就労者の雇用と、雇用者にしいる労働基準法違反を問題にせざるをえなくなった。生業の瓦解。
 
逆恨みの感情をもった彼はヨンナムを訴える。もともとは義娘の一時預かりによって口減らし、厄介払いを喜んでもいた彼が、「同性愛者」ヨンナムにより、義娘ドヒを強制的に奪われ、いたいけなドヒは、その性的毒牙にかけられた――ドヒ自身がそう証言したと反転攻勢したのだった。ヨンナムの前非は警察内に知れている。ヨンナムはキャリアながら、逮捕拘禁されるしかなかった。
 
気をつけなければならないのは、移民の不法就労、児童虐待、自傷、アル中など、悪を満艦飾に展覧させるこの作品のなかにあって、女性同性愛が悪のリストにはいっていない点だ。性愛の選択は自由だし個性だと監督・脚本のチョン・ジュリ、そのフェミニズムはかんがえているだろう。同性愛をとりかこむ偏見のほうが旧弊な悪を構成する。問題は、映画がヨンナムのドヒにたいする同性愛傾斜をいっさい描いていないことだ。そう証言をする立場にいるのはまずは観客だし、むろん幼いながらもドヒ自身にもその責務が負わされている。
 
作品はさらなる意外性にむけて進展する。取調室はふたつある、ヨンナムにたいするものと、ドヒにたいするものとに二分されるのだ。取り調べ警官に正対峙するヨンナムは、キャリアの貫禄と持前の誠実さで、声を荒げることなく、ドヒとの生活、彼女を庇護した事情などを淡々と誠実に相手へつたえる。それにたいし児童指導員に、やさしい配慮ある質問を受けるドヒは、瞳の奥行に邪気を閃かせる。あれほど私淑し、感謝の念をおぼえるべき人道家のヨンナムにたいし、なんの邪気があるのか。サスペンスが一挙に高潮する。
 
身の上を心配し、語りたくないことは語らなくてもいいが、ほんとうは真実をつたえてほしいという、複雑で、控えめな態度をとる中年女性指導員たち。おずおずと、しかし着実にヨンナムの「悪行」「性的支配」を問わず語りしてゆくドヒ。自分から何かを聴き出さずにはいられない指導員たちにたいしての、自らの優位・役柄の中心性に陶酔しているのだろうか。彼女はありえない「虚言を弄している」。観客は衝撃をおぼえざるをえない。ドラマがまったく前提しなかった成行だ。
 
おそろしいディテールがある。自分の部位を口に出す恥辱を配慮した指導員たちは、取調室の机に、着衣状態の少女人形を置く。どこか触られたのか、その箇所を指さして、と依頼する。画面の中心に置かれたその人形の後ろから指先を伸ばしてゆくドヒ。やがて指は人形のスカートの間隙にもぐりこみ、その股間部分をさわる。触りはやがてこすりへと白熱し、ドヒの表情に恐慌が現れる。指導員たちはそこにトラウマを読みこむ。
 
画面中心にある「秘匿性の奥行」がまさぐられる精神分析的な布置。こうした画面の意味形成はこの一箇所だけだった。恐怖がつよすぎるのだ。やがてドヒは、ヨンナムに接吻されたと偽証を上乗せしてゆく。作劇が「上乗せ」というかたちで無方向化する、予想だにしなかったこの作品の暴力的なドラマツルギーに観客が直面することになるのだ。
 
観客は、恩義のあるはずのヨンナムを窮地に陥らせようとするドヒの行動原理をとりあえず理解できない。というか、画面進展が描出してこなかった、ペドロフィリア=レスヴィアンなヨンナム―ドヒのディテールが編集の外部に伏在していたのではないかとすら自問自答してしまうかもしれない。このとき、「視たものだけに基づいて観客自身が証言をおこなう」態度選択が倫理的レベルで生動することになる。観客がよすがにするのは、ペ・ドゥナのまっすぐな視線の数々だ。結果、観客が視ていないことを証言したドヒ=キム・セロンが、映画の不気味な言外位置に置き換えられたその意味をさらにかんがえだすことになるだろう。
 
結論が出るのは、余裕ができた作品鑑賞後だとおもう。ドヒがそれまでしるしていた「自傷」の外延進展力を再考しだすのだ。自傷は継父の虐待が収められなくなったときまず起こった。相手の攻撃対象たる自分を否定しようとしたのではないか。次に悋気と寂寥のきわみでそれが起こった。取調室でのドヒはそれらの延長線上にいる。自分の証言によりヨンナムの窮地を救う英雄性が運命により付与されたとき、その幸福の渦中にいる自らを彼女はいわば自傷したのだ。その資格がないという自己判断ではない。自傷が充実にすりかわっていて暴走がとめられなかったのだとおもう。これこそが真の価値転覆を招き寄せる「悪」なのだった。問題はその悪の渦中にいるドヒ=キム・セロンに反世界的な魅惑すらあったことだ。
 
自傷と自作自演は似る。ともに再帰性の問題圏を形成するためだ。継父ヨンハは釈放された。女性警官ヨンナムはいまだ拘置されている。このタイミングでドヒは真の自由を獲得する勢いで父親にも罠をかけた。だらしなく酔い寝している父親を確認して彼女はその寝床のかたわらで裸身になる(またもや背中の換喩描写が中心だが、以前とちがい、わずかにふくらみだした乳房の側面がちらりととらえられる)。ヨンナムの部下のケータイに電話をかけ、通話のないまま電源オンのままに継父とのやりとりを聴かせる。ロトの娘のような誘惑。股間に手を伸ばす。自分の裸身を酔いぼけたまま覚醒した継父に確認させる。すべてが「横から」だ。やがてとつぜん悲鳴を立てはじめる。ヨンハは事態を把握できず茫然としている。このタイミングで現場に急行した警官たちによって、「性的虐待」の現行犯でヨンハが逮捕されてしまう。
 
ここでも観客の証言能力が問われる。観客は正義のためのみならず、悪のためにも証言をもとめられるのだ。観客は身体暴力を義娘にくわえるヨンハを目にしているが、そこに性的凌辱、性的虐待がなかった経緯をこれまでみてきた。そしてヨンハの資質からいってその踏破が不可能であること、警察が踏み込むまでの直前の経緯にそれがしるく表されていることも確信している。ところが継父の現行犯逮捕のあと、ドヒは父親との性交渉を強要されたと証言し、返す刀で、ペ・ドゥナ=ヨンナムのことは、父親の強制でいわされた、彼女を陥れるための偽証だったと前言撤回したのだった。ヨンナムはすでにその証言のようすを取調室隣りのマジックミラー越しにみている。このときヨンナムのいるだろう位置へと、椅子にすわっているドヒが視線を泳がすときの魔性がすばらしい。
 
真の少女性が魔性をふくむというロリータ・コンプレックスには監督のチョン・ジュリはおそらく同意していない。明示的主題にしてはならないとかんがえているのだ。ところが映画では「みえるもの」「みえないもの」の腑分けが起こり、その「みえないもの」の領分では、美形の可能性をもった、それでも痛ましい痩身のキム・セロンのナボコフ=ロリータ的な悪の蠱惑が滲み出すと知っている。そこで監督が道義的な歯止めとしてつかったのが、自傷性という主題だったと要約できるだろう。このことはさらなる意外な上乗せとなる最終盤の展開で判明する。
 
同性愛の醜聞以後、波風を立てないことを約束させられていたヨンナムは次の赴任地決定までたぶん(自宅)待機を余儀なくされた。それが警察的解決だったろう。ヨンナムはいまや伝統的家屋(縁先の造作は沖縄の家屋に似ている)に一人暮らしの身となったドヒを訪ねる。別れの名残を惜しむのではないことはその後のながれでわかる。狡猾さを漂わせ、姿を現すドヒ。ヨンナムはドヒの行動原理をいまやすべて把握しているかのようだ。やがて正対峙となる。じつはすべてが語られつくし透明性を把持していたこの作品で、ドヒの義理の祖母の死因、死の経緯だけが、ドヒの熟さない不透明な証言と、継父ヨンハのドヒへの憤怒が舌足らずだったことにより、不透明にのこされていた。それは脚本上、意図的なものだった。
 
ドヒとヨンナムの間近の正対峙。顔がほとんど接触しそうな緊張のうちにドヒに証言が迫られる。祖母の死がドヒの仕掛けた殺害計画によるものだった――そうヨンナムが真相をもとめると、ドヒは前述のようにきれいな涙をあふれさせながら、ついに首肯にいたる。ドヒはそうしてヨンナムとの離別を決定された。ドヒは児童養護施設へと移されるのみだろう。ここまでは因果応報、いわば報復の原理により、ドラマが構成されている。
 
ドヒと別れた車中のヨンナムは、部下だった若い警官の運転で、べつのとおくに運ばれている。その男子警官は、ドヒの身の上の哀れを知りながらも――と前提したうえで、ドヒの存在、共約不能の強度、その不気味さにつき述懐する。祖母にたいするドヒの殺人、継父にたいするドヒの自作自演劇の虚偽は、ヨンナムの心中のみに秘匿されたのだ。それはドヒの今後を、醜聞を軽減して庇護するためだったろう。
 
庇護――しかしそれはどこまでも外延進展が可能なものではないだろうか。おそらく男子警官の述懐を上の空で聴いていた車中のヨンナムは、この段階で観客にさきがけてドヒの存在がもつ謎の芯――「自傷性」に行き当たった。それで「忘れ物がある」と男子警官に言い、それまでの行路を戻ることになる。ここからの上乗せがあって、監督の正義心にみちた拡張的フェミニズムが完成するのだ。
 
ドヒのいる家屋で、ドヒと再会するヨンナム。それぞれが傷を負う。たとえドヒが卑怯で、その被害者がヨンナムであっても、傷を負う身である点でふたりの存在は共通している。ヨンナムが自分と共生する意志があるかをドヒに問う。ドヒによろこびが走る。そうして正対峙がそれまでしるされなかった距離ゼロの抱擁にいたり、「二」がついに「一」へと一体化された。ヨンナムは共苦の領域拡張という真の人間性を試練の果てに獲得したのだった。それが救出の正体だった。
 
共苦vs自傷という図式が問題設定として精確だった。あるいは負荷にくるしむ者だけが他人の負荷を理解する。だから「当人はいつも負荷に背骨を痛めなければならない」。倫理的な高次にそうして作劇がいたったのだが、その顕れじたいも倫理的な抹香臭さをもたず、映画的な仕種の展開のみがしるされていた。そのために正対や横といった身体の方向性を吟味してきたのだ。チョン・ジュリ監督の技量はまさにこの点で完全化されたといえるだろう。むろん観客の証言能力も、こうした負荷にこそ関わりがあるのだ。
 
けれども、ヨンナムがドヒをクルマではこぶラストシーンで、前言のようにドヒにたいしてまたもや「横から」が出現するとき、作品はけっして大雑把な善意の大団円に鞍替えしていない点もあきらかになる。なんと峻厳な映画なのだろう。しかも話法が円滑だという点で、顕れそのものは軽いのだ。フェミニンなものの勝利とは、こういう姿をしているのだろう。
 
――7月10日、札幌シアターキノにて鑑賞。『ペパーミント・キャンディ』のイ・チャンドン監督がプロデュースしている。
 
  

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2015年07月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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