中本道代について・上 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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中本道代について・上

 
 
【中本道代について(上)】
 
『現代詩文庫197・中本道代詩集』には未収録だが、第一詩集『春の空き家』(82)にみえる詩篇「夜」も彼女の代表作のひとつだとおもう。全篇、転記してみよう。
 
【夜】
 
コップの水が
飲まれた
水は
どこにもなくなった
コップの中の空間はゆがんで
ゆがんだまま固定した
コップには
うすい影があった
立っているものにはみな
うすい影があった
しだいに白熱する電球の下で
女の顔が ガラス窓に
仮面のように
固定した
 
冒頭《コップの水が/飲まれた》がすでにして不穏だ。受動態構文が採られることで、水を飲んだ真の主体――たぶん「わたし」が詩文上、過激に消去されているのだ。この詩はそうした消去のあとの残響が主題になっている。
 
水を飲めば、水はわたしのなかへときえる。コップはガラス面の水滴をのこし、なにもなさを湛えるようになる。ところが「水がきえたこと」と「水があったこと」とのあいだには時間のゆがみがあって、そのためコップのなかはむしろ「いまも」ゆれながらとどまっている――作者はきっとそうみている。
 
「気配」はやがてうまれるもの、かつてあったものの両極で不可知性をただよわせる。それこそを現存とみるなら、すべてはうすい影になる。しかも現存はこの世に「立っている」。ふとんのまくらも、ゆかのスリッパも這いつくばるようにみえてじつは立っている。立棺のように。そのことがうすい影を感知させ、それが遡及して「かつてあったものの気配」になる。時間の可逆性のなかで、ものは在不在の双方に連絡している。
 
冒頭の受動態構文で「わたし」が消去されたのと似た機微がこの詩篇にさらにある。《うすい影があった》の一行挟んだルフランがそれだ。べつの言い回しが二度目の出現時に消去されているのだ。しかも二度というルフランの最小単位により、「すくなさ」がぶきみなしずかさでもたげてくる。「薄い」とせずに「うすい」としたことで視覚性は聴覚性の残響とつながる。
 
「わたし」は水を飲むという暴挙をおかし、食卓のかたわらに立ちすくんでいる。茫然という形容でいいだろう。コップにあった水と、「いま」「わたしに」「きえてゆく」水とが、ゆがみながら橋渡しをされている。すくない世界では同質性の置き換えが反響空間をつくる。そう気づくにはミニマルな感知力がそなわっていなければならない。
 
水を湛えていたコップがガラス質であったことと、「わたし」のいる個室にガラス窓のあること、これら入れ子状態の同質性がさらに作者に意識される。このとき、冒頭二行で省略された「わたし」が図像的な反響を敢行する。それでガラス窓に「わたし」が写っていると気づかれるのだが、それは「女(の顔)」というように、突き放された客観状態で形容され、「わたし」は固有性をきびしく剥奪される。この剥奪が反復された「固定した」へと残酷に結語されているのだった。「しだいに白熱する電球」が急迫を演出している。ひかりによって、ものはうすまる。
 
みられるように、中本道代の詩篇、その基本は「すくない」。詩的修辞と語彙と構文の種類が最小限に抑えられ、声はくぐもる。たとえばナルシスの自己愛の危険を気づかせるエーコ―の女声なら、それじたい魅惑や豊饒をしるしていてだから振り向かせることの蹉跌が哀しさにもわたったはずだが、中本の空間的な詩は、いわば提示された「うつわ」のなかで交響性を途絶えさせ、結果的には「うつわ」のみをのこす。だから彼女のすぐれた詩では、読者の側からの図示の欲求がおこるが、「うつわ」は「うつろ」のみをあふれさせて、図示の欲望に歯止めをかけてしまう。
 
しめされたことばによる方向や内外に読者がみずからを代入させることは、読んだ者を親和させる以上に、みずからをひとつの方向や内外に移行させ縮減させることで、読者側に換喩や減喩を結果させる。それにしても決定的な事後をはらんだ中本的な空間性のなかで、ほんとうのところ親和はなにに安らうのか。おおむねは平叙文でしるされ、誤読の危険がなく、文法破壊や散乱がないとみえる温順な中本の詩法で難問となるのはこの点だろう。このとき「清潔」とともに、「さみしさ」がひとつの積極的な価値をたちあげていると気づく。
 
『花と死王』(2008)の丸山豊賞受賞のあとの打ち上げだったかで、中本さん、井坂洋子さんと酒席をともにしたことがあった。中本詩の「すくなさ」が話題になった。このすくなさにより、ひとつの詩的把握とべつの詩的把握がひそかに直結し、目立たないながらも理路のくずれができる。読者はそこにみずからを代入するのだから、じっさいのところ中本詩では親和と非親和とが等価だ。ところが順脈がひそかな乱脈になるためには脈そのものの削減が必要だろう。それでみじかい詩を成就するために中本さんは相当の推敲(削減)をかさねているのでしょうと訊いたのだった。
 
中本さんはおよそ以下のことを語った。自分は膂力が「すくない」。だから一篇の詩はそのすくなさで精いっぱい「書いたきり」で、ながさを圧縮しているわけではないのだ。中本詩にきびしい推敲の痕を幻想していたぼくはおどろいたし、同席していた、彼女と長年の付き合いの井坂さんも、「推敲派」だとおもっていた、と驚愕を隠さなかった。つまり中本詩では、「すくなさそのものが書く」のが土台であり、「書いたものがすくなくなる」のではないのだった。
 
「すくなさ」は空間や時間とむすばれる。それで「空き家(廃屋)」、「水」(形象のすくなさを実現する)、「その先」(「ここ」「いま」のすくなさを反照する)、形容詞「長い」(事象判断の共通項をぐらつかせて逆に世界をすくなさの集合体へと変容させる)など、語彙上の媒質ができてゆく。奇妙なのは、「すくなさ」と双生関係にある「うつわ(のなかみ)」という語彙のない点だろう。このことがむしろ中本詩の空間性を確定する。うつわが具体化されるのだ。空間性と減喩が不即不離な点こそが中本詩の独壇場だろう。
 
中本詩のどこを読み、なにに感応するのかはかんたんなようで、むずかしいもんだいだ。おなじ『春の空き家』からべつの詩篇を引こう。
 
【季節の刃】
 
冬がおわるころ
雨がふるようになる
みぞれのときはかさがキシキシ音をたてる
女は血を流しているとき
ざんこくになり
顔がはれる
遠くをバスが走っていく
運転手が帽子で顔をかくし
乗客は窓にひたいをおしつけて陰気に走るバスだ
うもれている刃のきれはしのようなもので
空間はきずだらけだ
 
叙景詩のようにみえる。冬のおわりの雨はまぢかな春の到来を予感させるものだろうが、そうしたあかるさはない。いま降っているのが「雨」か嘘寒い「みぞれ」かすらはっきりしない。語法の不安定が意図されている。
 
かさが鳴るというとき、音響体は柄なのか骨なのか取っ手なのか覆いなのか。そうかんがえて、次の展開から生理中の内観をもちだして、傘と女と世界のすべてが、閉塞性を協和させて鳴っているような錯視へもおちいってゆく。「顔がはれる」がすごい。晴れる、ではなく、腫れる。むくみの域を超えている。なにものに殴打されたのか。
 
《遠くをバスが走っていく》と詩の主体がみるとき、主体とバス、あるいは道との位置関係を読者がかんがえはじめる。道の正面遠方にバスが存在しているとなれば縦構図だが、具体語にともなう根拠は薄弱なものの、ロングの水平構図をかんがえてしまう。主体はとおい道を真横によぎるバスをみている。だから乗客ひとりひとりが一覧できる。とすれば道は土手をとおっていて、主体はひくい湿地にいるのではないか。降雨による主体の濡れを倍化するよう読みが形成されてゆくのだ。
 
バスは「うつわ」で、きみわるい。図像化がはじまる。おしなべて乗客は窓にひたいをおしつけ窓外を窺っている。かれらは斥候だ。時刻が雨の降りそぼるうすぐらい昼か夕方まえだとして、車内灯との相関でかれらの顔は逆光のなか影につぶれているだろう。帽子をふかくかぶり、その庇で顔を影にしている運転手の「黒化」がそうして分有され、斡旋された語「陰気に」が実質化する。窓外をみる乗客からの標的の位置に、とおくぽつねんと「わたし」が立ち尽くしているとすれば、「わたし」はあいまいなまま乗客の閲覧あるいは遠隔窃視にさらされているのだ。懲罰なのだろうか。
 
注意しなければならないのは、先の詩篇「夜」とおなじ事態が起こっている点だろう。主語「わたし」は潔癖に排除され、一般名辞「女」がそこに代位されている。それが「女というものは……なのだ」という主体の押し上げ的な普遍化の罪をおかさず、いわば「わたし」の減算のぶっきらぼうな解として緊急避難的に置かれている。
 
この詩篇は力線をばらまいていて、それが一種の散喩を結果させている(『現代詩文庫・中本道代詩集』の論考で、鳥居万由実が中本詩の一潮流として組成の分散状態を指摘し、それらにあらわれる「部分」が「全体」を支えていない過激さを剔出しているのはただしい)。降雨の鉛直、生理の血の洩れ、バスの走路が志向する前方。これら方向のねじれる錯綜が真空化すれば全体が鎌鼬になる。
 
それで「空間」を「きずだらけ」にする「うもれている刃のきれはしのようなもの」が潜勢域から「気配」として浮上してくる。修辞に気をつけなければならない。「うもれている」「きれはし」「のようなもの」と、いわば出現する語のつらなりにたいし、三重にも抽象化(疎隔化)がほどこされ、可視性にとおいものがかろうじて気配として可視化されているのだ。減喩とよびたくなるゆえんだ。
 
「すくないこと」は通常、目減りの「事後」のようにいっけん捉えられるが、前言のように中本詩にあってはそれすら目減りの「事前」なのだった。もっというと、「すくなさ」「減り」は事前と事後にはさまれる「渦中」そのもののうすさがたたえているのではないか。この極点を見据え、中本的主体は異変に気づく。そうした事件性は受苦的存在に特権的なものだ。事前と事後を漸近させて得られる渦中のほそさ。第二詩集『四月の第一日曜日』(86)からその事例を出そう――
 
昼のいちばん深いところで
たえきれなくなり
ふいに自分を手放してしまう人がいる
――「祝祭」部分
 
女は自分の腕に口をあて
しだいに自分自身を吸いとり
形を崩していく
ついには小さくひからび
だれも見たことのないものになり果てる
――「悪い時刻」部分
 
これらでは「減少」と「自己蚕食」とが直結され、すくなさは刻々実現されるものとして、事件的で酸鼻な光景をくりひろげている。「人」は「女」にすりかわる。この詩脈を追求してゆけば、中本は恐怖詩の達人ともなったことだろう。部分的にそういう着想の実現される詩はこの後もいくつかあるが、その全面化をゆるさなかったのが、たとえば彼女の詩の美質「さみしさ」だったとおもう。
 
それでも不安定な光景性をもち、読者に図示をせまる点で換喩機能をもつ中本詩はつづく。たとえば「からだ」「開口部」「多数」「たてもの=うつわ」を詩の絵画的な主題にして、なにか定義できないものを叙景した詩篇「紐」は、カフカ的なリアルさゆえの不安定をしるすが、不安は詩篇タイトルを勘案して、なにが中心化されているか判明できない点からも、もたらされている。全篇を引こう――
 
【紐】
 
空は輝き
人は長い列になって立っている。
どの人も口をあけ顔いっぱいに笑っている。
そこらじゅうまぶしく白い靄のようなものが光っている。
人の列の頭の方は建物の長方形にあいた口の中に入りこんだままだ。
外のあまりの明るさのためその口はいっそう暗い。
もうすでにどれだけを飲みこんだのだろう。
のどから腹まで入っていく長いざらざらした紐。
屋上から黒い服を着た少女たち少年たちがのぞいている。
何かをさかんに叫んでは笑っている。
まっ青な空を背に彼らは烏にそっくりだ。
発光する靄はちぎれてはくっついてただよっている。
人のあいた口の端にも絡みつきそのうち細く中へ入って行くようだ。
体の中をらせん状に降りて行き底で重く堆積するもの。
列に並んでいる私がふと気づくと、人はみな口もとに金属の匂いを発散させて立ったまま笑ったままで失神している。
 
存在のくろい開口部は叫びのためにある。しめされる存在が多数化すれば、それは歴史上の表象にすらなる――そうしめしたのが、ゴダール『映画史』の一節だった。ところがこの詩篇で存在の多数はくろい開口を笑いのために消費し、そのズレをもって建物の開口部に喰われている。なんのための「長い列」なのかといえば、それは自己消去、順応のため、おおいなるもののためだが、建物はお構いなく、人びとを「飲みこむ」だけだ。
 
夢の記述とみえる。「空は輝き」と一行目で明言されながら、眼路の水平方向には「白い靄のようなもの」がひかりながら瀰漫していて、それら透明と不透明を現実文脈では了解できないためだ。
 
建物の口が人の列をゆっくりながらもつぎつぎ飲みこむ――そう叙景されていると認知した途端、建物は擬人化され、のどと腹にまで内部分節されて、逆に列は「紐」へと縮減される。それだけでもう一幅の恐怖絵図なのに、またもや力線が錯綜し、建物屋上の少年少女たちの哄笑が「烏(からす)」の比喩をともなって挿入される。一瞬にして、「開口」は列の人びとの顔に逆位され、少年少女たちの哄笑が靄をばらまき、それらが人びとの口にはいってゆくことになる。建物=人体=うつわの等式連鎖。
 
咽喉の奥は腹までふかい。だからそこへ浸すようにはいってゆくものは紐状にながくなければならないが、時間を巻き戻せば、サナダムシのようなものを嘔吐しているようにすらおもえないか。そうした時間の可逆性の公算が、事前と事後のぎりぎりのすきまで停められて、紐、体内らせんがおなじ形状となり、それが体内の「堆積部分」をつくりあげている認識にいたる。魔術的な構文がもちいられていないのに魔法が出来している点には驚愕しなければならない。
 
「紐」といえばおもいだすのは河原枇杷男『閻浮提考』のつぎの一句だ。
 
秋の暮掴めば紐の喚〔おら〕ぶかな
 
紐がたとえばどこからどこを垂れ、掴まれて、しかもその叫喚の理由がわからない(理路が減らされている)――と捉えれば、この一句は減喩句の一大達成ともみえる。足りないことが(ことば上)みちて、そんなものに感銘をうけることじたいに、ぶきみがはしるのだ。
 
実際、紐は遍在している。空の組成基礎となり、多時間の相互性となり、ひとの臓器のチューバのようならせんをおもいたどることでも紐が出現し、さけびのながさそのものが発声のフキダシ(バルーン)を紐状へも変成させる。紐は他者とのあいだにあり、他者をしばり、そのしばりが同調にすりかわって他者との無限関係を列につくりかえる。紐は嘔吐の実質であり、時間を逆にすれば喰われるもののすべての形状だ。
 
紐はどう殺されるのか。紐ではなく、鏡の殺しかたなら知られているだろう。鏡面と鏡面とを真向かわせ密着のまま鏡板を縛りつけるのだ。停めること。すると、紐を発散させ、紐を飲みこむ開口部を「固定」しなければならない。ところが固定=停止はじっさいには「穴」にたいしてなされるのではなく、時間にたいしてなされるのだ。対象の空間化はそうして時間化へと飛躍する。しかも飛躍したまま凍結される。
 
もういちど気味のわるいこの詩篇の終結部を貼ろう。《人はみな口もとに金属の匂いを発散させて立ったまま笑ったままで失神している》。笑いながらストップモーションをかけられて、死が笑顔になる特権が、なぜ女の作者から女の作者へと脈動してゆくのか。斎藤恵子の詩篇にも以下のフレーズがあった。
 
のどもとから紺青にそまってゆく
笑いながら死んでいったものたちが
底に折りかさなっている
――「機織」(斎藤恵子『海と夜祭』)最終聯
 
(つづく)
 
 

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2015年07月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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