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中本道代について・中 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

中本道代について・中のページです。

中本道代について・中

 
 
【中本道代について(中)】
 
(承前)
 

 
音声として読めないものを、詩文にくりこむのをなるべく避けたいと、とくに最近おもうようになっている。詩篇が朗読されるうえでのことばの純化、ことばの掃除ということではない。むしろ朗読は苦手なのだ。詩のかたわらで書いている評論と区別をつけたいと、なんとなくおもっているていどだ。
 
音声として読めないものにはまず符号がある。括弧類。フォントの種類、おおきさの区別。詩では読点は読めるが改行詩なら句点も要らないだろう。引き伸ばされる三点リーダーや引き伸ばされるハイフンもうっとうしい。立原道造的な視覚文飾がきらいなのだ。聯間空白の一行あきは読めるが二行あき以上は、たとえば朗読のとき、間奏でもはいらないかぎり、一行あきと区別のつかない惧れがある。それと字下げ。出所のちがう一連を字下げでしめすのは適切とおもうが、レイアウト効果でちがう字下げがたとえば行ごとに乱打されると、その字下げは読めないと反撥してしまう。
 
これらの自己抑制はなにか。詩の権能にかかわる制限だろう。詩が成りあがって文学になってしまうのがいまや現在的でないとおもうのだ。詩は作品それじたいではなく、その用途が弱体化している。だからこそ文飾や学殖をとりはらって原点回帰している詩篇、そのつつましさが掬されるべきなのだが、詩の劣勢は、ことばをいかめしく武装しようとするほうへかたむく。窮鼠になった詩はながくなり、散文化し、そのことで文学性と隣接しようとする。
 
詩の本義にむけたみずからの解除ではなく他との競争におもむくものは、おおかたが自意識的なのだ。もちろん現在の詩では自意識と近接する独善が倦厭されているのだから、詩の多くの賭けはあぶない方向に突き出ている。
 
それでも詩は、詩集というかたちの書物化を志向する。そうするとその極限のひとつにマラルメ『骰子一擲』の達成がみえてしまう。後期吉岡実も字下げのヴァリエーションを駆使して詩行を散らし、フレーズの断絶性をつよめる複雑さを盛った。ここから期待されるのが、ぼくが「散喩」とよぶものだったかもしれない。
 
力線の傷のような錯綜、フレーズにフレーズごとの時空を負わせながら、それらを遊離的に展覧すること。そこでは印字の位置そのものが時空との交渉結果となり、フレーズのあらわれが分布的に多元化する。散ることで回収できなくなった意味=断絶こそがあたらしい意味になる。散乱状態が再読可能性に編入される逆転。そうした詩集の技術的な達成が、たとえば石田瑞穂『片鱗篇』だったり藤原安紀子の諸詩集だったりした。
 
むろんこれらは詩の危機の産物とよべる。ただし80年代後半、詩がまだ多幸症におちいっていた時代は、詩行をどう置くかのレイアウトの自由は単純な解放と映っていたはずだ。時代の気分。結果、詩は70年代のうすぐらい、それでもいとおしいミニマリズムを自壊させ、拡散していった。そんな個人的な実感がある。以上はやや還元主義的な整理だが。
 
中本道代『ミルキーメイ』(88)はぼくが唯一所持していなかった詩集だったが、『現代詩文庫197・中本道代詩集』に抄録され、それで原本の雰囲気をはじめて掴むことができた。この詩集から字下げと行あきの多様性を彼女が駆使しだしたとわかる。もともときびしい「すくなさ」「減喩」のなかに力線の錯綜をくわえていた彼女の詩は、こうした詩行レイアウトの自由によって拡散を明示しはじめたのだった。ただしはっきりいうと、彼女の詩はこの段階であまくなった。このことと、構文末尾での、女性会話語尾の積極的導入とが相即している。
 
むろん名手中本だ、抑制はたもたれ、聯ごとに字下げがことなってもそれは恣意ではなく自己法則につらぬかれている。たとえば「私」の一次記述、客観記述、内心の感慨、それぞれのたかさがちがうことで、「私」が、立体化というより弱体化することであわさがみちびかれてもいる。減喩の主体から散喩の主体へと「私」が変化したのだ。それでも〔yellow〕と〔red〕に二分された集中「Winding August」が、字下げヴァリエーションをはらみつつもその詩行の、クルマの走路の進行と対応する「単純な」水平加算によって時空をひらいた佳篇となっている。
 
このころの中本は「ことの生起」が分離的にみえていて、それが天付詩篇の体裁の厳粛をほどいたのではないか。詩のことばが光景をかためるのではない。光景が時間推移によって分離する刻々は分離するレイアウトでこそ可及的に追われ、しかもその発語も必敗でなければならないと。
 
必敗はどうあらわれるか。たとえば迅速とスローモーションを分離する感覚の失調としてあらわれる。「Cracked November」には字下げによって孤島化された以下の群がある。《このごろあなたは/このごろあなたは目に/このごろあなたは目に影》《小さな円/もっと小さな円/中くらいに小さな円/別々に音をたてている/小さく確実な音》。引用後者での、音の存在の多元化に注意してほしい。
 
デュシャン〈階段を降りる裸体〉の意義とはなんだろうか。うごくものにむけたマイブリッジやマレーの分解写真の、絵画への我有化というだけではたりない。分解こそが生成の基盤でありながら、その生成が多数化し統合されない失調がこの分解によって逆証されると、その意義をいわなればならない。眼が負うのは証言ではなく逆証の機能なのだ。そのことを事象の散喩をとらえるこの時期の中本のうつくしい眼も知った。だからこそ以下の秀抜なフレーズがある。
 
雨が階段状にふる
知らない人々のざわめきが
雨の音に混って再生されはじめている
――「通路」部分
 
雨域はちかづいてくる。そこでは雨ではなく段階が降っている。じっさい雨域に「私」がはいっても、降雨は時空にかけあわせて分離が可能なのだ。そうして降雨の迅速とスローモーションとが弁別不能となる。くわえてこの不能感が雨を空間ではなく音そのものにし、それでそれは人声にまで変化を遂げる。たしからしさなどすべてないということが雨を契機にして捉えられる。すばらしい耳目だ。
 
『ミルキーメイ』随一の佳篇は、それでも天付を護持した以下の詩篇だとおもう。全篇を引用しよう。
 
【緑】
 
目がさめるとすぐに窓をのぞくのが習慣になった。このごろはもう私が起きるよほど前に夜は明けきっている。窓の外ではまたあれが増えている。私はそれを確認するために外を見る。
 
私は窓をあけて身を乗り出してみる。今日の気温を測ってみる。半袖の服か長袖の服かを決めるために。朝の匂いがする。冷たくて甘い。
 
何か夢をみたと思う。大勢の人といっしょだった、ざわめいていた、と思う。それでもどうしても思い出せない。
 
私は体温計をくわえて歩き回る。すぐに口の中に唾液があふれてくる。
 
窓の外ではまたあれが増えている。あれは全く音もたてずに毎日増えていく。あれの間には区別がある。色も形も少しずつ違っている。それでもあれはみな同じものだ。同質のもの、同一の欲望を持つものだ。
 
私は夢について考えようとする。大勢の人々。そのざわめき。口の中の熱。それでもどうしても思い出せない。
 
一読されれば、この詩篇の命が、「あれ」=代名詞=シフターだという感慨が生ずるだろう。中原中也「言葉なき歌」中の「あれ」、その最終不明性=永遠が、中本に意識されているかもしれない。ところが中原の「茜の空にたなびく」「あれ」が茫洋とした一体性なのにたいし、この詩篇での中本の「あれ」は朝ごとにあらわれ、おもいだせない夢の残響という性質をもち、しかもそれは説明すら試みられて、その奇妙きわまりない分節性を指摘されているのだ。
 
音のないもの。毎日増えるもの。そのなかに区別のあるもの。それでも同一性として一括されるもの。欲望をもつもの。それはなんだ、と問われれば謎々めくが、おそらく解答は出ない。解の不能性こそが、「あれ」を実質化させ、永遠の捕獲目標にするからだ。
 
だからそれはたとえば「私」のゆううつや不如意のように定位できないし、矮小化もできない。むしろ中本は空間や時間の遠近をつづるシフターが、遠地に置かれたときのあられもない不可能性を剔抉している。それが「あれ」という亡霊、すなわち時空の自壊要素なのだった。むろん詩篇タイトルが「緑」なのだから、「あれ」はその緑を指すという一次的な読解が可能になる。だがその読みはアリバイ探しに似ていないか。創造的に読むなら、「あれ」の解答はない。
 
それよりも中本的な空間がここでは「窓」としてあらわれているのに注意したい。それは「うつわ」内外の境界であり、希望めいて開口していて、身を乗り出すごとの異変ともなり、しかもひとつの窓は、第五聯冒頭「窓の外ではまた」により、時間上べつの窓として矩形連鎖さえしているのだった。
 
じっさいは詩篇に時間がながれていて、「私」の「口の中」も、何かみたようにおもう「夢」も時空ごとにばらまかれている。ひとつの「これ」にたいし、おなじものが「あれ」として連鎖している「区別」。区別を基軸にすれば統合不能であるものが、同質性を基軸にすればすべて無差異・無媒介になるとして、「この窓」「あの窓」、「この夢」「あの夢」がつらなっている。つらなりをみることは空隙をみることに帰結する。だからそれはみた夢のように可視対象とならない。
 
うつくしい瞳は証言ではなく逆証を負わされる、と書いた。しずかなものには撞着がゆれている。それを視野のまんなかに置くと、証言にむけられた視線の義務が逆証に転じるといってもいい。「みたものをみた」とはいえない、石原吉郎的でない女性性。『ミルキーメイ』につづく中本道代の第四詩集『春分 vernal equinox』には視線によってもたらされたたとえば以下の逆証がある。詩篇「鏡」からのふたつのフレーズを字下げ省略して引こう。
 
《水面に映るものは揺れる/揺れながら不動である/水面に映るものは》
《犬は水に映らない/犬はどこにも行けない》
 
『春分』には大好きな詩篇がふたつある。ひとつは中本的な主題としての形容詞「長い」を完成させた「異国物語」だが、これは『現代詩文庫197・中本道代詩集』に収録されていない。分析したいところだが、以前ちらりとこの詩篇に論及したのでこの場では控えておく。もう一篇のほう、巻末に置かれた「母の部屋」を全長で引こう。
 
【母の部屋】
 
病院の午前四時に母は退院する
私は母と車に乗ってハイウエイを走る
夜明けが近づいても知らない 夜明けはもういらない
 
病室はただちに静かな空室にしなければならない
廊下は夜中息づいて様々なものを抱きこんでいる
私も廊下と同じ息づかいになった
 
苦痛が生み落としていく汚物
私もそれになった
 
ハイウエイの母と私
見知らぬまっ白な夜明けの部屋になった
 
恢復か寛解をみたのか、入院先から実母を家に連れ帰った事実にのった体験詩のようにいっけんおもえるが、一行目の「午前四時」からして現実性があやあやだ。常識ではその時間帯にひとは退院しない。舞台装置に「夜明け」が必要で、現実が歪曲されたということなのか。そうではないだろう。稜角がばらばらな水晶を覗きこんだようなゆがみは詩篇ぜんたいにわたっているのだから。
 
母の退院ではなく、「部屋をつくること」「部屋になること」がむしろテーマなのだ。部屋は三段階に変化する。「母のいる病室」「母の退院によって生じた空き室」「母と付き添いの私を運んでゆく、クルマという部屋」。後二者に曙光が浸潤し、ここでも「区別」と「同質性」が綯い混ぜにされている。結果、「これ」から「あれ」を分光して進展する矩形が、詩の進行にしたがって連鎖している感触がうまれる。
 
さきにみたように、おなじものの生成はちがうものを分離する。これが永劫回帰だとすると、この詩篇は生成動詞「なる」にたいし、ドゥルーズのように意識的だ。「私」は無生物へと生成する。なににでもなれるのが少女性なら、無生物への生成がもっとも少女的生成を過激化する。中本にはいつでもそんな残存がある。そうしてすばらしいフレーズがまず出来する――《私も廊下と同じ息づかいになった》。
 
中本は自分には信奉する詩語がないとあかすように、たとえば「汚物」など倦厭語彙をすすんでつかうきらいもあるが、第三聯一行めで唐突に出現する《苦痛が生み落としていく汚物》とは何の喩なのか。理知的には走行するクルマの排気ガスかもしれないが、この暗喩の解のおさまりはわるい。「汚物」は母の属性をかすめ母を汚物と規定し、それが「私」にも反射するためだ。第三聯には修辞の精確さが意図的に欠けていて、だから《私もそれになった》の二行めもでてくる。文法的には「それ」は「汚物」だが、この聯は暗喩のズレを感知させる点で換喩的だといえるだろう。
 
さきに言及した詩篇「緑」で「あれ」が解不能だったように、この詩の「それ」も解不能というべきではないのか。つまりすべての時空を整序づけるはずのシフターすべてが不可能だと中本はいうのではないか。なぜなら差異が同質に連鎖して同一性のかたまりが人界にできるためだ。「このひと」は「あのひと」でないのと同程度に「あのひと」だという同一性内部の乖離、分解。
 
だから《私もそれになった》の一文は、最終聯(第四聯)で《ハイウエイの上の母と私/見知らぬまっ白な夜明けの部屋になった》へと変成する。「それ」があっさりずれたときの時間の亀裂がみえる。最終行の語尾が「部屋にいた」ではなく「部屋になった」という生成文を喚起したことの、ずれのちいさな衝撃。ところがこの衝撃は同時にミニマル音楽のように脱衝撃的だという点が、このちいさな詩篇の味だろう。こうした「すくなさ」のなかで母と私とクルマと曙光が差異をもったままひとつに「なる」。
 
音楽の比喩をだしてしまったのでつづけてみる。非常勤出講先でぼくは日本のインディデュオ「テニスコーツ」の音楽を今週あつかった。80年代前半のベルギー・インディ・レーベルのような抒情性。「テニスコート」はもともと構成的な矩形だが、それが複数化された「テニスコーツ」になると、「構成的な矩形が構成的に連鎖している」「空間のあわさ」が印象される――だから「テニスコーツ」はうつくしいユニット名だと語った。そのあわい構成的な矩形連鎖は絵画でいえばモンドリアンに外在されるものではなく、クレーに内在されるものだろう。
 
詩篇「母の部屋」は「母の部屋」の生成変化をえがきながら、変化の音色がベルギー・インディ・レーベルの「すくなさの抒情性」に似ている。日本のミュージシャンでいえばブランキー・ジェット・シティ時代の浅井健一がつくったソロユニット、「シャーベッツ」のアルバム『シベリア』の最終収録曲「水上の月」の幻影性をおもわせる。そこにも奥行に向けた矩形領域の連鎖があった。手前から「コップの水」「レストランの透明なドア」「そのむこうの月下の道」だった。
 
(つづく)
 
 

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2015年07月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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