雑感 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

雑感のページです。

雑感

 
 
地政学的にいって、日本が中国の「傍流」であり、同時に「独自性」であることは明白な歴史的事実だ。日本における漢字のアレンジメントの経緯をかんがえるだけでもわかる。現今の中国の覇権主義にたいしアメリカと相乗りして戦争法案を通そうとしている現政権は、日本に条件づけられている地政学に反する「西洋主義」を誤って自己適用しようとしているにすぎない。これが、戦前の軍事帝国主義の、かたちをかえた錯誤にすぎないことはだれにでもわかる。もちろん世界の色塗りは覇権ではなく文化によるのがただしい。
 
文科省が哲学科など「不要な人文学部」の削減を威圧的にもとめている昨今だが、実学主義が仮想敵である中国の実利効率主義とつうじているのはいうまでもない。敵とみずからを分離しようとする態度選択が、かえって敵とそのまま一致してしまう誤りはいつでも繰り返される。対中国をかんがえれば、日本のオルタナティヴはたぶん「すくなさ」の意義をかんがえつくしたことにある。芭蕉の俳論にあたるものは、ほかの国の詩論におもいあたらない。パウンドですら届かないのだ。
 
いまも西洋的な枠組にとらわれがちな詩論が恐れるのは、俳論だという直観がある。同時に、藤井貞和の詩論上の独走にたいし、俳人・阿部完市の俳論が、やはりアジア詩観としてみごとに拮抗している。それらが目指すのはことば=韻律の地政学的な歴史確認と、日本的に奇妙な「すくなさ」の顕揚だとおもう。
 
こうした着眼が通常の現代詩作者の詩論には存在しない。藤井や阿部ならば政治的に歴史的中国とどう隣りあおうかという知見戦略までふくんでいる。書割のように単純な安倍ファシズムの自己達成的な物言いとはまったくちがう地政学的なふかみをもっている。欠落は体制じしんに意識されている。だから文科省が人文系の大学学部の制限をもちだしたのだ。これを体制のやつあたりとも緊急避難といってもいいだろう。むろん闘わなくてはならない。
 
オルタナティヴ、あるいは日本性としての「すくなさ」は軍備のもんだいというより、さらに本質的には、俳句に代表されることばや論理、あるいは身体性のすくなさにこそ逢着する。
 
このごろぼくは、写真論の研究文献をひつようあって立て続けに読んでいるのだが、ベンヤミン―バルト―ソンタグの西洋的なトリアーデでは括りきれない現在的・日本的な写真作家(たとえば大橋仁)が範疇外に置かれている視野狭窄をかんじつづけている。大橋仁的なものはAV的ドキュにも連結しているが、たぶんそれを対象化するには俳論的なアプローチこそが有効で、お定まりの写真論上の西洋的トリアーデではとりにがすものが多すぎ、対象化すらおこなわれていないのだった。安倍政権のやっていることと部分的に似ている。
 
阿部完市。たぶん彼の名は、こんご詩論史のうえで、最重要のなまえのひとつになる。これを認知しているのが、現状、筑紫盤井だけだというのが、詩論全般にわたる逼塞の一事例だろう。むろん俳論=詩論の提案者として阿部完市をとりあげるには本一冊くらいの分量が要求される。
 
しかも完市は俳句作者としては永田耕衣や赤尾兜子や安井浩司の怪物性に劣るという「難問」もある。減喩の名にあたいするのは、完市よりもいま掲げた作家たちで、完市にあるのは規則性からの創意的なずらしのほうなのだった。じっさいは音韻上の換喩が思考の中心になっている。それでもその作品はやはり魅力的だが。
 
いま新しい詩論集のため、既存発表原稿の外側に「パーツ」をつくっている最中なのだが、阿部完市論をくわえるか否かでまよっている。ダイジェスト的にとりあげる対象でないためだ。むろんとりあげれば詩論集のいわば「偏差値」もあがるが、分量など論集の全体性をかんがえれば過重、さらには拡散の生じてしまうおそれがある。
 
阿部完市の詩論=俳論の可能性はひとことでいえるだろう。「すくなさのもつ、それじたいの拡散」。これが前言した、地政学的なオルタナティヴと連結しているのはいうまでもない。
 
さて、どうしようか。
 
 

スポンサーサイト

2015年07月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する