土日
昨日・一昨日(土・日)は新詩論集、その最後の書下ろしパートに取り組もうと、江代充さんの既刊詩集を時代順に精読していったのだが(もう何度目だろう)、どうしても論の書き出しと、その後の線型的な展開をおもいうかべられず、けっきょく執筆を断念してしまった。自分を楽天的な性格、とはおもうが、こうした蹉跌に現実的に打ちのめされると、自分がやっぱり才能なしの無価値人間ではないかと、しぜんにおもえてくる。見た目どおりだ。
おまけに金曜日、仲の良い博士課程の中国人院生から、院ゼミでなぜ受講者の発言を辛抱づよくまたずに、自分の意見を全体化して開陳、学生の発言可能性を抑圧してしまうのかとお叱りをうけたばかりだった。もっともぼくはいつも全体的な結論をいわず、「複数の思考葛藤」を暗示しているだけだとおもっているし、発言をいくら待っても出て来ないのは彼らの顔色でわかるともおもっているのだが。要は、対象の映画が「これだけは示唆してほしい」と暗黙に訴えているものを、(ときに図式的に)提示するだけだ。たとえ「せっかち」といわれようともそうする。そうでなければ、映画がかわいそうだ。
ともあれゼミ授業も不評、書下ろし原稿も首尾わるい、おまけに、現在、詩作は作成過多防止のため連作を中断していて、依頼詩篇しか書いていない(もう二か月以上)――となると、自分が一挙になんにもできない(のこしていない)「無価値人間」におもえてくる。「このまま詩論を一生書けないんじゃないか」。そんな恐怖まではしる。ぼくはせっかちではなく、不安神経症なのだった。
昨日など、誕生日だというのに、そうしてどんどんダウナーになっていった。おまけにぼくの好きな料理を誕生日につくってくれる女房すらちかくにいないのだ。そういえばなんでぼくはひとりなのだろう。
なので今朝は、自分にもまだポテンシャルがある、と自己励起するため、まだだいぶ先の〆切なのだが、河野聡子さんから依頼のあったTOLTA「現代詩百周年特集」の詩稿を、自分のポテンシャル測定のため一気呵成に仕上げてしまう。書こうとしたら書けた。たまっていたわけだ。濃すぎたかもしれない。作者としてはまあ会心の出来なのだが(ぼくは恰好よさで自作の出来を判断する)――
それでも完成した詩は、やっぱりダウナーだった!(笑)。これ、なんとかしなくちゃ…
ちなみに厄介な自己課題をかかえていると、恵贈された本にさえひるむことになる。他人が偉大にみえて。白井明大さんの新詩集はそれでも届いてすぐに読了した。いろいろおもった。入不二基義くんの運命論の哲学書『あるようにあり、なるようになる』も、劇薬まちがいなしなのに、我慢しきれずに100頁ほど読んでしまった。やっぱり「しつこくて」すごいなあ(笑)。
そういえばTOLTAに書いた詩篇では、入不二くん自身も示唆している本タイトルのキアスム、「なるようにあり、あるようになる」をフレーズにつかっている。そっちのタイトルのほうがいいとおもうのは、ぼくが運命論の門外漢で、生成論をかんがえているからだろう。