江代充について・2
【江代充について2】
(承前)
前回書いたことで、江代充の詩は「たりない」――だから読者は文意を補って読むひつようがある――もしそうおもわれたとしたら、それは誤解だ。ことばは、たりなさにめぐられたそれぞれの真芯に、かえって充実している。理路はたりないが、ことばはそれじたいで間歇しながら自立し、たりなさを過激に放散しているとみえるのだ。
そうした過激さにこそ「ただ」むかうべきで、文意を補い、読解の補助線をつくってゆくのは個々人の嗜好できる二次的な作業にすぎない。最初は「たりなさ」や錯綜に直撃され、ことばのつらなりの「不全なうつくしさ」にゆきまようべきだろう。わたしたちは苦悶する信徒のようにまよう。つまり読んでも意味のとれない(とりにくい)一回目の江代詩の体験は、そのわからなさにおいてこそ至純なのだといえる。そこに神学的体験との類似をかんがえることもある。
ある種の純粋さが江代詩にあるとしても、それが詩のなかでこれみよがし、自己再帰的に謳われることはない。禁欲的というよりも、至純さの構造がちがうのだ。江代詩は布教しない。信義の一点を俗情にむけ露出しない。至純はうすまってこそ瀰漫し、ことばの肉の内界をひろげる。聖なるものは一条の可視的な恩恵ではなく、たんに空間的・時間的なひろがり「として」、うすあかりのとらえがたい量感をもつだけだ。
ことばの時空は、ことばの時空それ以上でも以下でもない。そこをさまようことはできる。そのさいにさまよいの邪魔になるものが、詩篇から抽出されてしまう主張や教義だ。江代詩にそれらはなく、ことばの時空間だけがある。このことを、詩の純粋さといっていいだろう。修辞の手柄意識さえ江代詩では稀薄にうつる。
一例を江代の第二詩集『昇天 貝殻敷』(83)から出そう。詩篇「ダリア」――恋愛詩だ。この詩集から江代調、エシロ語が確立された。江代の著作中もっとも短詩のあつまる詩集で、この点からいまでも馴染みがふかい。考察では「たりなさをなるべく補わない」という自己戒律をまずはもうけてみる。
【ダリア】
石の上の黒いダリアを 見る姿で祈るかたちになり
舞いあがる胸 私は塀の向うへ曲がる
棘のある花のように 渇いた腕が束ねられる
肉と枯木の時刻 同一の あなたの体も黄色く
石から肌が独立してみえ
わたしの踏みしめる足の下に ダリア・ダリアの道はつづいた
かずおおい花瓣が放射状、幾何学的にひろがって肉厚の球形をなす洋種のダリアは、東洋起源の牡丹よりもさらに豊満華麗と映る。「花王」とよびたいほどだ。品種改良が盛んな園芸種で、朱から紫、黄、白と、色彩幅もおおきい。赤がつよくまされば黒ダリアとよばれる妖種もまぎれこむ。
いつものように二行目「舞いあがる胸」、三行目「渇いた腕」の所有格がわからない。前者は生命感にあふれ、後者は病弊にくるしむ。これと同様の配置が四行目(アキ行をかぞえない)に圧縮されている。《肉と枯木の時刻》がそれで、生命感と病弊の矛盾共存は時間性にも適用されているとわかる。その《肉と枯木の時刻》の直後、飛躍にとんで《同一の あなたの体…》と措辞がつづく。この「同一の」に詩篇の詩的構造が集中している。つまり時刻とあなたが同一であり、その「体が黄色」いとしるされて、時刻=あなた、さらにダリアにも架橋がなされる気色がうまれてくる。
この四行目は詩篇にちらばったことばの関係性を「中心の点在」として集約する箇所だ。このことから「それまで読んでいた各所」が再編成される。二行目「舞いあがる腕」はダリアの生気を想像力によって注入された「あなたの」腕になるしかなく、しかもそれは同道する「私」が「塀の向うへ曲がる」とき得た束の間の印象にすぎない。行間空白があって時間が飛躍すれば、あなたの顕れは途端に「棘」を生じて、仕種・姿勢を逼塞し、生命的な乳房をおおうように、「渇いた腕」が胸のまえに「束ねられ」てしまう(ここまでにもちいた「補足」が、「同道する」と「胸のまえに」に限定されているのに気づかれるだろうか)。
「あなた」の「みえかた」の盛衰が、時間の盛衰、個々のダリアの盛衰とともにあっても、あなたのからだはおのれに似た周囲に溶融同調しない。「石」を背景にしてもその「肌が独立してみえ」る。そうさせているのは、「わたし」の視線が「あなた」の本質をえぐろうと干渉的になっているためではないか。「あなた」に「渇いた腕」を「束ね」る防備の仕種をとらせたのも、この視線なのだ(ここでは補足は「背景にして」と「わたし」の視線にまつわる言及にふえだした)。
それじたいのなかで盛衰をゆらすものが聖なるものだ。その聖なるものは、時間とダリアへの類縁性をもった「あなた」として詩の中央から前半に浸潤して、「舞い上がる胸」「渇いた腕」を「あなた」の署名にする。この遡及的拡張運動こそが愛そのものの属性だろう。属性は「うごく」。このことも聖なるものの質なのだ。それで全篇が聖なる恋愛詩へと、読むそばから変成し、多様なダリアをながめるように、色を変えてゆく。たった六行なのにすばらしい。
さて以上の分析からとりのこされたふたつの行がある。最終行と冒頭行だ。前者から論及すると、最終フレーズ《ダリア・ダリアの道はつづいた》では、中黒で連鎖された「ダリア・ダリア」の措辞が異様とうつる。唄う感覚にとんで、恋愛の昂揚をつたえるかのようだ。しかもそれは、江代的な命名行為にもかかわる。江代の恋愛詩では、対象として「エリカ」の名が頻出する。朔太郎が恋人・馬場仲子を洗礼名の「エレナ」でしるしたようなものだろうか。となって、「ダリア・ダリア」は、「実際の花・恋人の呼び替え」の構造をもつのではないかと思料されてくる。
さて冒頭行《石の上の黒いダリアを 見る姿で祈るかたちになり》だけが四行目から恋愛感情が四方に横溢しているこの詩篇の行構造のなかで、他に馴致されない孤独な浸潤不能性をたもつとかんじられてくる(再読をして、とくにその感触がきわまってゆく)。黒いダリア――ダリアの魔的な異種が気づくと足許にあって、それを俯瞰する視線。この瞰下ろしが憔悴の様相をたたえ、それが自己祈祷のひろがりまでにじませてゆく――となると、見ることは祈りとおなじでありながら、憔悴ともおなじと言外に語られている気になる。これがこの詩篇でなされるべき最大の「補足」だ。
気をつけるべきは、「姿かたち」という連鎖的成語がありながら、それが分離し、しかも動作の振り分けが上乗せされて、《見る姿で祈るかたちになり》という措辞がうまれている点だ。ここから「姿」のはらむもの、「かたち」のかたどるものがかえって稀薄、もっといえば無にちかづく反作用が生ずる。このフレーズにうすくかんじられるのは、虚辞、減喩のたぐいで、じっさいここで減っているのは身体なのだ。
この身体の所有格がだれかといえば、「わたし」と捉えたい。結果、「わたし」にかかわる一行目と、その後の「あなた」「わたし」さらには「ダリア」「時刻」の錯綜する二行目以降に恢復しがたい寸断線がひかれている読みになる。これらの読みは発散される意味以上に、行構造からもたらされるのだ。
万物――とりわけそれがいきものならば、「姿」をもつ。自明の理だ。「姿」のないものはいきものではないのだから、姿は個別性を示唆されない純白の姿のままでは、いきものの質どころか存在そのものすら保証しない。この鉄則を侵犯した江代詩がある。エシロ語が完全確立されるまえの第一詩集『公孫樹』(78)にはタイトルではなく序数のみをつけられた詩篇が間歇性の印象つよくならべられているが、そのうちの以下が「姿」にたいする江代の異様な見解をしめしていて忘れがたい(『現代詩文庫212・江代充詩集』には未収録)。
【60】
鳥はあがっている わたしが姿をしている
棚で花瓶が折れて
やわらかい割れものは出ている
鳥はあがっている わたしが姿をしている
エシロ語が未発達というのは、遅読作用が形成されず、初見でスッと読まれてしまうためだ。それでも簡潔な主述により連鎖されている諸構文からその暗喩の奥行を吟味する余地が生じてくる。まんなかから行こう。
《棚で花瓶が折れ〔る〕》――動詞の誤用により、(こわれた)「かたち」から「姿」が顕れている。それが《やわらかい割れものは出ている》とさらに「姿」を強化されるが、いいおおせた途端に、いっさいはまた「かたち」に再還元される――そんな認識の振り子運動がここにあるのではないか。ところが回収されないのは「こわれたこと」、その事実の厳密さだ。
侵犯的認知もある。「割れもの」とは「こわれてしまった」花瓶そのもののはずなのだが、それが花瓶の亀裂から、その内側をもりあげるように露出していて、「かたち」としての花瓶の範囲が脱自明化するのだ。「かたち」を規定性、「姿」を脱規定性ながら感知できるものと二分してみるといい。「割れもの」が「やわらかく」「出ている」という措辞は、姿の姿であるゆえんも複雑に脱臼してしまう。
揚雲雀をおもわせる《鳥はあがっている》はどうか。春、どこまでも空の高みをあがり、眼路のはてへときえてゆく生命力あふれる雲雀は、たぶん「かたち」と「姿」の共存だろう。その共存は詩的直観によってしかほどけない。永田耕衣の名句《腸のまず古びゆく揚雲雀》がそれだ。運動の渦中に頽勢を予感すること。耕衣には《天心にして脇見せり春の雁》もある。そこではさらに明瞭に、かたちから姿が微分されている。
そうしてもんだいの《わたしが姿をしている》の出番となる。生物が姿をしているのは自明と前言したが、ここでは「姿」の実際が欠落し、記述されていない。まさに減喩だ。結果、「姿」の脱色により、「わたし」の匿名化・無名化が遡及するようになる。「なにもいわれていないこと」がここでいわれていて、それが「わたし」の「姿」をからめてゆく恐怖が感知されなければならない。この回転的な消却運動に、「かたち」という「わたし」の余波がやどる。
ところがこの「60」の意味性は、これら構文の質を「姿」「かたち」に腑分けするだけでは完成されない。一聯が最終聯に反復=ルフランされている行構造そのものが吟味されなければならない。二聯が「かたち」の「姿」への脱自明的な移行を最終的に示唆しているとする。すると、その意味形成前の第一聯と形成後の最終聯では含有物の反射性がことなるのだ。中間を省略して結論をのべれば、繙読経験のまだ純白な第一聯は、そのものが「姿」の抹消をともなう「かたち」であるのにたいし、最終聯は、「姿」の抹消をともなう「姿」そのものへと転じているのではないか。ただこうした見解は穿ちすぎた内分割ととられるかもしれない。
江代『昇天 貝殻敷』から、さらに自らをユダに擬した熾烈な恋愛詩篇「ユダ」をかんがえてみよう。全篇を引く。
【ユダ】
私は水を把握しようとし
石のように持つことができず
血ばかり流した
かわいた木の枝から
女のように恋人の家をうかがうと
背後にはエリカの枯木が見え
わたしの肉体が先取りされたようで
暗くなっていくことを覚えた
前半は述懐で、「水」「石」「血」によって暗喩化されている。ただし「水」を「石のように持つことがで」きないのは、ものへの「把握」の必然的にたどる自明性の域にあるとしかいえず、だから「私」は自明性にたいして流血したと三行を縮約してかまわないかもしれない。似た感触をもつ述懐としてジョン・レノンの「マザー」をおもった。「ぼくはあるけなかった/なのに、はしろうとした」。
後半――錯綜をほどいてみる。季節は冬場。「わたし」はいまでいうストーカーに似て、対象執着のつよさを抑えられない。ともあれ「見たい」。それで敷地の裏側から恋人=エリカの家を「うかがうと」、エリカは窓のうちがわに人間のすがたとして顕れず、家の背後の枯木のすがたとしてみえてしまう。生身よりも弱体化したものとして憧れは顕れるのだ。ところが枯木であるエリカは、枯木立のなかにいる「わたし」の場所を反映しているにすぎない。愛されないかぎり、見ることの欲望は不可能性に逢着してしまう。
枯木を媒介に、わたしとエリカが対照されることは、枯木がエリカにみえるわたしの衰勢があかしされることと表裏だ。枯木がわたしの「みること」であり「肉体」なのだ。わたしはそのように対象と視線の質を自らの行為のなかに「先取り」されているようで、肉体を暗くしてゆく。さらにいうと、この自覚が「みること」と「肉体」の不分離、あるいはエリカと枯木の不分離なのだ。
気づかれるように、詩篇を意味化しようとすると、意味の再帰性が「肉体のように」わだかまってゆく。これに気づくことがこの詩篇での読解線といえるだろう。理路があやういながら簡潔な措辞。それは顕れとしてあきらかに「たりない」が、そのたりなさへの充填が充実にむかわず、おなじものの再帰だけを蓄積してゆくのだ。最終行《暗くなっていくことを覚えた》。単純で再帰性をふくむ言い回しのなかにある冗語性のたわみ、そのうつくしい衝撃。
もちろん詩篇タイトルにつけられている「ユダ」が詩篇全体を包含する意味形成をさらにつくりあげる。単純には、「ユダ」はこの詩篇の一人称「私=わたし」への形容で、一人称に裏切り者の色彩を付与するほか、わたしの対象=女=じつは「エリカ」に、反作用的に聖性をともす。この聖性のなかに枯木もあるということになる。
さらには「私=わたし」の恋人の域への侵入(未遂)を口実(寓喩)にして、ユダそのものの属性考察が詩篇細部に脈打っているととらえかえすこともできる。「水」と「石」に弁別をつけられぬ者は流血する――イエスと銀貨――もっというと愛と憎悪に弁別のつけられなかったユダがみずから縊り果てて精液をながしたように。
「呪われよ」――それがイエスのユダへの愛のことばだったし、ユダはその呪いにはいることで結果的にイエスの復活劇と永遠化を宰領した。そこに共謀や黙契をみる者もいて、福音書(偽書)すらある。だが枯木立から対象を見ると対象が枯木の場所に枯木としてみえ、そのことが窃視者の肉体を暗くするというのは、ユダのイエスへの視覚そのものを高度にいいあてていて、ここからユダの役割をたかめようとする詭弁に、作者が与していないとつたわってくる。
それでも結局、そのユダの位置に詩篇の主体「私=わたし」が折り返される残酷が不変だった。自己穿孔的な恋愛詩だが、ところがその自己は減喩によりどこかで定位未然となる。この構造がすごい。「わたし」は詩篇内に実際は結像していない。結像があるとすれば、それもまた「枯木」のすがたなのだ。そこで身の毛がよだつ。なのにうつくしい。アクタイオンとディアナ、キリスト教にとっては異教的な神話構造を、詩篇が秘匿しているためかもしれない。
神性を対象に期待すると、対象から神性が分離し、対象そのものはきえる――そういう逆説があることも若い日の江代が意識していたかもしれない。「想起」のよびだす「分離」が、想起主体を修復不能にしてゆくこわさがこの時代の江代の詩にはあり、想起が円満化した『梢にて』の詩作とは様相がことなる。
もう一篇、『昇天 貝殻敷』から「顕現」(全篇)。これは詩文庫に収録されていない。ただしいわれているのはたったいま述べたのとは逆のことだ。神性の降誕を期待すると過去の恋人が顕れ、その性交記憶が神々しさに変転することで、神がそこから分離し、過去の恋人も性夢に出現した役割を終える――詩篇の砕片性を「復顔」してゆくと、あらわれてくるのはこんな認識だろう。
解説は付さない。ただし読解は、「あなた」「恋人」「似た者」「あのひと」「あかり」「同じ神」を腑分けすることにかかわる。このとき「眠り」「夢」「部屋内の点灯」という時空の変転が付帯してゆく。「分離」が江代詩の効果なら、「付帯」もそうなのだ。それと注意したいのは、詩篇「ダリア」で考察した「同一の」という措辞が、ここでは最終行「同じ神」に変化して、おなじ効果を発揮している点だろう。となると、「同一性の分離」が「付帯」だという江代詩の真諦がかんがえられるかもしれない。
【顕現】
あなたの顕現をはかるために
再び起きて 悲しい眠りにふけらねばならぬ
するとこの夢のなかに
過去の恋人に似た者が突然あらわれ
あのひとがわたしに 交わったときを知らせたまい
汚れた机上にあかりが点されると
そこにふたたび 同じ神はい給う
さほど「遅読生成」の顕著でない――それゆえに取扱い容易な江代詩篇ばかりを対象化してきたかもしれない。その反省にたち、初読と次読が「分離」し、措辞の原理性・原初性に畏怖した見返りに、読者の自発的な補足をしいられてゆく詩篇を、『昇天 貝殻敷』から招聘しよう。詩集タイトルの一角ともなっている「昇天」(全篇)――
【昇天】
手のあたたかな冬 わたしが速く流れ
土砂とともに水に燃える
砂利と砂利 身を曲げて馬の腰にのり
地膚の見える所まで血を投げかけても
守護の天使たちが見る者のからだにさわり
地につきまとうとはどういう傷か
「まったくわからない」者が出るかもしれない。「速く流れ」「水に燃える」「馬の腰にのり」「血を投げかけ」「守護の天使たち」「どういう傷か」と、各行ごとに意味形成の障碍フレーズがちりばめられ、そこに詩篇の厚みや奥行がやどるとかんがえても、最終行中「とは」でそれまでの総体を引き受け、間髪いれずに「どういう傷か」と急転直下する成行が、修辞的な衝撃をおぼえても、意味的には了解できない――そんな感慨になるのではないだろうか。
むろん音韻がすばらしいのだから、荒々しいことばの顕れと連関をまるごと掬せばいいという見解も出るだろう。ところが呪文は解読されなければ、呪文ではなく時間に意義が生じないとするかんがえもある。後者の立場にたち、この詩篇の難関を突破できるだろうか。「みおのお舟」でつかった方策をふたたび採用してみる。( )により詩篇の脱落部分を補足することで読解線をまずは近似的につくりあげるのだ(「みおのお舟」よりもずっと読解者の恣意の混入度がたかまる)。そのあと、ちがうことをいおう。
(しばれる砂礫の外気のなか)(それでも踏破の情熱をもって)手のあたたかな(とおぼえる)冬 わたしが(連戦も厭わず馬にのって)(遍歴地を)速く流れ
(ふきあげるかわいた)土砂とともに(騎乗をはげしくゆらし)(結果超える川の)水に(みずから)燃える(錯覚までかんじる)
(川べりの)砂利と砂利(砂利につぐ砂利の悪路) (とおい射手を予感して)(矢を避けるため)身を曲げて馬の(背ではなく後方の)腰にのり
(それでも回避にしくじり)(矢をつらぬかれ)地膚の(まぢかに)見える所まで血を投げかけ(るようにしたたらせ)ても
(天空にある)守護の天使たちが(「見る者はまもる者」という信念をくずさず)(地上の艱難にむけて降臨し)見る者(である十字軍のわたし)のからだにさわり
(それでわたしに付帯したまま)(馬ともどもほうほうの)地につきまとうとは(わたしのすがたにとっての)どういう傷(にみえる)か
(それは癒えないことですでに癒えている不死のあかしなのか)
ところが詩篇をこのように潤色してみると、穴埋めのむなしさに逢着するしかなくなる。つまり「たりないこと」が疎外され、ことばの荒々しい、謎にみちた連関がむしろ矮小化されてしまうのだ。読まれるべきは意味ではなく――むしろ馴致できない用語とその物質感にとんだ「語順」のほうではないか。たとえば「水に燃える」には感覚主体も感覚対象も途絶していて、詩篇のながれの須臾に「侵入」してくるなにかの暴圧だし、「馬の腰にの」る騎乗の謎もついに解けない。
最後の「傷」は「ありもの」だけで愚直に、文法的に解釈するひつようがある。試験問題的にいうなら、「傷」は「血を投げかけ」ることと関連があるようにみえて、直截には、「守護の天使が見る者のからだにさわり/地につきまとう」ことで現象化されているのだ。「わたし」の「すがた」の外在性のひとつを言い換えたとすら捉えられる。
ところが結語(疑問文だが)に向けた「とはどういう傷か」の急転直下じたいが、そのまま傷の感触をもち、「どういう」のシフターによる意味布置より先験的に、「傷とはどういう傷か」という同語反復疑問文の衝撃をつたえてくる。ならばそうした気色をうながしているものはなにか――くりかえすが、それこそが用語と語順の即物性なのだった。
この即物性が江代の言語感覚のするどさに並行している。結局、語順への惑溺は意味のとりこぼしまで付帯する――しかもそれは補足とは絶対に相容れないのだ。「それでも」詩篇はたとえば上記のような恣意の介入によって、抒情化される。「ないもの」が「ないままに」抒情化されるときは、かならず「あるもの」が捏造され、それが読者側の罪を形成するのだ。けれども江代詩に敗北した悲哀はいつも生じない。「ないもの」が「ひろがっている」空間の余裕。それがあらかじめ読者を救抜している。
「語順」のもんだいにするどく邂逅した趣の断章序数詩篇が第一詩集『公孫樹』にある。
【73】(全篇)
12の耳に海がきこえた
わたしは砂にちらばり
飛びあがる鳥が舞う
影がうつるあのひとの体を
動きながら見た
ごつごつと異物感のある「語順」で、ふつうの詩作者はこのようにしるさない。凡庸さと円滑にむけさらに助詞を添えて訂正をおこなえばたとえば解はこうなる――《砂にちらばって/やがて飛びあがる鳥の舞う/その鳥影がうつった/あのひとの体を/わたしは鳥を真似て/動きながら見た/12の耳に海がきこえた》。ところがこれは普通の詩篇であって、エシロ語で書かれたものではない。エシロ語は語彙ではなく、むしろ語順(の不適正と捉えられがちなもの)によって生成される。
語順は抒情を「73」のように遅延させる。抒情は最終的に皮一枚で読者を救出の域に寸止めされるが、これが反転し、粕谷栄市的な恐怖に連絡してしまうばあいもある。因果の脱落がそのまま因果となる――という意味で。序数断章「46」の全篇を、最後に解説を付さずに引いておこう(それにしても『公孫樹』からの引用は「鳥」にかかわるものばかりだ)。ちなみにこれは江代の現代詩文庫には未収録。
【46】
内部に拷問を受けている
完膚の鶴が舞いあがった夜更
刺客はひらかれた窓からしのび
いるひとの後頭へ剣を入れた
いるひとはわからないので
片足をあげ 鶴を真似た
(つづく)