近況・8月17日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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近況・8月17日

 
 
【近況・8月17日】
 
年末あたりに刊行しようとしているあたらしい詩論集の内容を確定すべく、先週まで目次の最後にあたる(だろう)江代充論に励んだ。
 
詩論にはいろいろかたちがあるだろう。原理的な詩論(そこでは「詩とはなにか」が至上命題となる)、詩史論、ひとりの詩作者の伝記的モノグラフ、などがまずおもいうかぶ。ぼくがやろうとしているのは、詩集一冊、詩一篇からたちあげる「解釈詩学」といったもの。それらの具体的な解析をつうじ、機会ごとに原理的な詩論をたちあげようという試みだ。
 
『換喩詩学』のときに割愛した詩作者ごとの個別論考を軸に、そののち書いたものもくわえ、全体構成を睨んでみる。なにが欠落しているか。かんがえは定まった。前著のときにアイデアフラッシュとしてつづった、オリジナルの詩概念「減喩」につき、より精度と具体性をたかめるひつようがあると。
 
「要素」のすくない詩風はふつうミニマリズムとよばれる。ところが日本語の詩では俳句があって、要素のすくなさ、理路のゆれがそのまま謎めいた驚異=脅威となる突破型がときにしるされる。これをアメリカ起源のミニマリズムに集約することができない。すくなさが温順な平滑面をつくりだすのではなく、たとえば喩の減少そのものが再帰的にして最少な喩機能をもち、そこに空隙の形象化やゆれが起こり、言語から自明性をうばうような、そんな反世界的な、ことばの組成。
 
俳句なら比較的分析しやすいこうした詩的機能を、現在の日本語詩にも適用しようとして、詩論集の刊行がきまってのち、個別の詩作者論を書きついできた。松井啓子論、近藤久也論、中本道代論、江代充論がそれらで、それぞれに「詩的傾向」の分岐をになわせた。しかもとりあげること自体が価値だという時機性をもはしらせている。
 
この全体構成がうまくいっているかどうかまだわからない。今後の、編集者との折衝を俟とう。だいいち、あつめあげた詩論は、厳選したつもりなのに通常の単行本レイアウトで800頁分あり、またまた半分ていどにまで割愛をしなければならない。詩篇論は落ちるだろう。また詩歌句の周辺にかかわる論評も、至純性をえるために削ることになるだろう。
 
『換喩詩学』のときには「換喩」原理論にあたる章を冒頭に書き下ろした。それが読解のナヴィゲーターになりすぎたきらいがあった。今回はプランとして、江代充と貞久秀紀にかかわる「メモ」を冒頭に置いているだけだ。編集者はこの構成に難色をしめすかもしれない。ところが「減喩」は自分でつくった詩的概念であるだけ、換喩以上にその原理論が書きにくい。
 
とりあえず詩論集の最大値を確定した重荷をとりはずし、先週は採点と成績入力のかたわら、積みあげていた恵贈本にとりくんだ。神山睦美さんの『サクリファイス』は見事だった。書評集、講演記録集という体裁はまちがいないのだが、この本は最初の頁から最後の頁までを一気通貫に読むべきだろう。共苦、供犠といった神山さんの拘泥する思考概念は、実際はばらばらに散った事象を連接する契機としていつもある。本はそのような散在こそを「並べていて」、それらアルファからオメガまでの流動に読者がまきこまれなければならない。
 
ながれのなかにいくつかの白熱する高揚箇所があって、そのひとつがぼくの『換喩詩学』への書評だった。ぼくの本を土台に、神山さんの思考が奔流し、そこへ原理的なミメーシス論がはいりこんでくる。神山さんは文学の芯は詩性にあるという立場のひとだが、その詩性を神山さんの文字の洪水が体現していた。めがしらがあつくなった。
 
神山さんのゆたかな奔流性にたいし、北川朱実さんの『三度のめしより』は、いっけん平滑で穏やかな詩書だ。北川さんの日常性や人生に、北川さんのこのむライトヴァースが連接され、「詩のある世界」が魅力的にゆらめいてくる。詩篇のピックアップがゆたかなふところをおもわせて絶妙なのだが、生が詩をささえ、詩が生をささえるという円環的な再帰性には、じつは厳密な世界規定が介在している。
 
文章は平易だが、彼女の視線が水平性をもっているのか鉛直性をもっているか判別できない「高揚点」すらかくされている。すごい。徹底的に脱帽してしまった。ながれの終わりに松下育男さんの詩篇「はずれる」が出てくる。ぼくがこれまで言及していなかったこの詩に、強烈なひかりがあてられていた。その衝撃が、ぼくに昨日、「くずれる」という詩篇を書かせた。
 
「現代詩手帖」8月号、「戦後70年特集」もすばらしかった。巻頭にある苦心のアンソロジー「1945年詩集」がまず鮮烈だ。松旭齋天勝への竹中郁の追悼詩「魔女追慕」は、「時局の抑圧」にたいする抵抗詩だったのではないだろうか。三島由紀夫がこの詩を読んだ公算はある。
 
詩の分野での「敗戦体験者」の述懐が、そのままセルフモノグラフの饗宴だった。生はのこされていない――いま語らなければもう語る機会がない、という限定が、そのまま詩的なものを強烈に生成する。これらのひとは逆説的に、歴史にめぐまれていると羨望すべきだろうか。生がのこされていない、という切迫感は、よくかんがえれば、現存する中年世代にさえあると銘記しなければならない。
 
そういえば、目立たないが今年はすばらしい詩論集があった。紹介する機会がもてず、申し訳ないことをしている。水島英己さんの記事によって知った、川島洋さんの『詩の所在(主体・時間・形)』がそれだ。六月刊。この本はネット注文でのみ買える。アマゾンで検索してもらえれば。
 
 

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2015年08月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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