減喩と明示法
今号(10月号)の「現代詩手帖」に、畏敬する詩作者・貞久秀紀さんとの対談「減喩と明示法から見えてくるもの」が掲載されています。拙著『換喩詩学』の鮎川賞受賞を契機にした対談ですが、「想起」型(「想像」型ではない)の現在の詩作がどのような精神性をもっているのかが、具体的に論じられています。ぼくのかかわった対談では、『HYSTERIC』公開時に瀬々敬久監督とおこなった「対談」に匹敵するくらい重要なものとなりました。
「減喩と明示法」対談は、後半にはいると不可思議な展開になります。貞久さんの発言にたいしぼくの発言が同調とともに微妙な齟齬をみせるようになるのです。貞久さんも同様です。その理由のひとつは、編集部による対談起こしの際に経緯省略があったことですが、もうひとつは以下の理由によるものです。
貞久さんは加藤郁乎の《五月、金貨漾う帝王切開》を例示して、飛躍のある換喩(詩)と、飛躍のある暗喩(詩)とに弁別がなくなる、そしてそれはともに作品の外延をひろげよという権力構造をもってしまう、とするどい指摘をしているのですが、ぼくがそれにたいし自分の詩作実感から、あの手この手でべつの切り口をつくり、貞久さんの確信を覆そうとしていて、やりとりが空転(旋回)している――このことが、齟齬を加算しながら、同時になお詩論的な充実につながっているのです。
ぼくは暗喩と換喩が同等にみえるときには、詩作に精確さが欠如していると自説を披露するのですが、飛躍のない換喩こそが明示法にちかいとかんがえる貞久さんはゆずらない。やがては再帰性を軸に据えると、貞久さんのいわれる明示法と、ぼくの概念「減喩」とに差異があると所説が展開されてゆく。つまり、明示法の再帰性が簡明なのにたいし、減喩は再帰性を破砕する。ところが破砕は再帰性の結果でもある。
こういう対蹠点のあいだに次々と本質的な詩観が顕れてゆくスリリングななりゆきだった――読み返すと、そんな印象をもちました。もちろん、どちらにも正論などないのですが、あらためて貞久さんに脱帽しました。そここそが読みどころです。
とりあえずは「詩手帖」今号を手にとって、実地見聞をしていただければ。