表紙デザイン
【表紙デザイン】
詩集の表紙デザインというのは、映画評論集ほどではないにしても、なかなか難しい。はじめにいってしまうと、映画評論集は何か代表的に扱っている作品が集のなかにあるとして、そのスチルなどを表紙にあしらってしまうと、おカネ(使用料)もかかるし、また読解や紹介の可能性が限定されてしまう惧れもあって、それから離れようとするとき、ことさらデザイン選定が難しくなるのだ。
むかしなら本の装幀は無頓着だった。カットのあしらい、地紋などの模様がすこしはいれば、表紙でいえば本のタイトル、著者名、版元名だけの地味なデザインで、本がそのまま流通できた。本のタイトルそのものがデザイン要素だったともいえる。むろん、出版不況の現今、書店の平棚に置かれた本の表紙デザインに、来店者の気をひくアイキャッチがひつようだとする版元の心情は、編集者の経験もあるだけに痛いほどわかる。
そうなって、詩集はどうかというと――これはほとんど実売が期待できない代物(出版ジャンル)なのだから、本の原点に立ち帰って、その表紙は基本的に書名、著者名、版元名だけでよいのではないのかという気がしてしまう。むろん本の表紙は本の顔であり、「顔馴染み」感も要る。フォントの選択と、レイアウト配分、さらには若干の罫やら小図版やらがちらつけば体をなすだろう。ものをいうのが詩集タイトルだというのが、詩集の表紙にありうべき造りではないか。
ところが、現在の詩集は、著者お気に入りの絵画や写真が図版としておおきくつかわれることが多い。詩集タイトルそのものが一種のイメージを発するというのに、それではイメージの重畳で、しかも相殺の危険まである。つかわれる画柄の多くは、著者の趣味をしめすのみで、詩集一冊を読了し改めて表紙をみると、図版が詩篇群に「似ていない」とおもうこともままある。「本の顔=イメージ=図版」、この三連式を短絡だとするのが、ことばをあつかう詩作者の心意気ではないだろうか。
むろん良い詩集は良い表紙をもつのが原則だ。図版をあしらったものであれば、図版もあしらいかたも良く、そこに繊細な感触が出ている。今年の詩集でいえば、金井雄二さんの『朝起きてぼくは』は馴化され同時に思索化されたエゴン・シーレの素描というかんじの、辻憲さんの装画の置き方が見事だった。斎藤恵子さんの『夜を叩く人』では微妙な青の、パウル・クレーの抽象的具象をおもわせる松本冬美さんの装画が表紙段階から余韻をかもして飽きない。角版写真をあしらった松岡政則さんの『艸の、息』、切抜き写真をあしらった高木敏次さんの『私の男』が微妙なところだ。どちらも内容はすばらしいのだが。
大先達・岡井隆さんの『暮れてゆくバッハ』は大胆にも表紙本体は書名・著者名を横にずらして縦に組み、表紙にはおおきく余白がひろがる。ところがオビに神話をとらえた泰西名画がモノクロ化されて使用されている。
オンデマンド詩集は書店置きがなく、書店で目立つひつようもさらさらないから、ぼくとしてはその表紙は完全に書名、著者名、版元名だけでいいとおもっているのだが、それではあまりにそっけないから、前回の三冊同時刊行では、罫をつかった抽象的なプロポーション図形に、書名、著者名、版元名を入れてもらった。和菓子屋の包装紙のような表紙、といわれたが、べつにいいんじゃないかとおもっている。
こんど出す『束』については、罫による抽象的なプロポーション図形ということで、いわば本丸――イヴ・サン=ローランのこのんだモンドリアン風がいいのでは、といい、しかもメインカラーにポップなレモンイエローはどうかと著者提案してみた。詩集を完成したときは、そんなあかるい気分だったのだ。ところが間を置いてデザイン案が出てみると、ぼくのいうとおりにデザイナーがつくってくれたその表紙が、あまり収録詩篇に似ていない。ぼくだけではなく、編集をやってくれた亀岡さんも同意見のようで、一旦はオンデマンドサーヴィス開始時期の危急性から受け入れたそのデザインを、やはり最初からかんがえなおしたほうがいいのではないかと意見が落ち着いた。
ぼくがいったのは、やはり原点。つまり、書名、著者名、版元名だけが中心の表紙デザインだ。ぼく自身は徐々に趣味が地味(老人的)になり、派手派手しい自己アピールも恥じるようになっている。この現状から、詩集『束』には、むかしの函入り本の函のほうのデザインをイメージしてしまった。小沢書店の本のように、灰色の函の上方に寄らせ、しかも左右中央に小さな紙が貼ってある。その「面積」内ですべて必要情報が処理され、あとは函の基底が余白となっているだけのもの。「あんなかんじにならないかなあ」。
函入りでも紙貼りでもないが、それは川田絢音さんの『雁の世』の表紙の発想じゃないですかと亀岡さんがすかさずいう。ああそうだ――川田さんはわかっている、とぼくもおもった。あの表紙の地味さ、単純さが詩集デザインの王道なのだった。それでこそ、タイトル「雁の世」がじわりと迫ってくる。あの路線でゆこう、ただし表紙の地の色と、そこに比例的に組みこむ矩形は、デザイナーがぼくの詩からかんじる色にしてもらおう――それならデザイナーへの縛りがすくなく、改変にも時間がかからないだろう、ということになった。
タイトル「束」はしずかに浮きあがるだろうか。ちなみに「束」と題された詩篇集ならば読者に手渡される「花束」めいたものがまず聯想されるだろうが、その「束」は「たば」と読まれるか「つか」と読まれるかで決定不能性を帯びているつもりでいる。そのうえで漢字図形の「束」は、「東」からは横線が一本欠落していて、それが東京から放逐された著者の位置をあらわしている――著者自身はそう意味をこめているのだった。むろん収録された一詩篇のタイトルを無頓着に書名にしたにすぎないのだが。
わあ、いまとどいた小川三郎さんの新詩集『フィラメント』も、表紙の端に紙を貼り、そこに書名、著者名、版元名が記載されているだけだった。あとの余白は表紙の紙のぬくもり。そのしたにうすく蝶がみえる。わかってるなあ