大根仁・バクマン。 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

大根仁・バクマン。のページです。

大根仁・バクマン。

 
 
【大根仁監督・脚本『バクマン。』】
 
大根仁は優秀だ。膂力と洞察力と執念、この三幅対状態が、日本の映像シーンのなかにあって抜群に優秀だ。敬意を表する以外に態度選択がみつからない。
 
個人的体験をしるせば、最初に卒倒したのがテレビ版『モテキ。』だった。たまに「モテキ」の到来する冴えない自意識過剰男・森山未來にたいしその一時期の恋人らしくなるのが、当時売出し中の満島ひかりだった。映画の照明助手という役柄で、その「おたく女子」の臭さが見事にリアル、それがあって森山と初夜にいたるかいたらないか、森山の部屋で手が触れ合うか触れ合わないかで、「現象的な」動悸をみちびいた。それだけではない。ほんとうの思い人にたいし失恋した満島がカラオケで神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」を絶叫し、そのあまりの寒さに同席者から引かれる、かなしい伝説のシーンがある。このときに大根監督のサブカル精度がきわめてたかいことにも驚嘆した。
 
ストーリーの驀進力、そのなかでの俳優の実在化(体技/容貌/感性がにじみ出て、身体的なリアル精度が極小画素化する)、映像技術を駆使してバラエティ場面を定番で挿入するなどの組成法は、じつはエイゼンシュタインの「アトラクションのモンタージュ」に負っているのでもないか。勢いとノリで映像を完成させているようにみえて、そこに伏在している映像史的な叡智の分厚い地層をかんじてしまう。底知れない。
 
それが深夜テレビ番組のカルトとなった『モテキ。』までの段階だった。これがたとえば映画版『モテキ。』では、長澤まさみをスケベさによって生々しく画面に定着する余禄などをうみだした。
 
次に映画『恋の渦』がくる。複数対複数の閉鎖的な男女関係(しかもみな偏差値がひくい)が基本。ステディがありながら、だれもがキアスム的な浮気成立の機会を姑息に狙っている。男子のバカさにたいし女子の陋劣さも印象的。ところが恋=セックスのゆくたては、同時連発的で、その状態が複雑に継続するためいつしか観客の記憶容量を超えてしまう。そのとき全体的な「気分」に乗ったうえでの、「瞬間」への注視がはじまり、いわば「にんげん」への高度な文明批評精神が醸成されてゆく。この威力は抜群で、ぼくは公開当時、渋谷の上映館で観たのだが、大挙して訪れていたJK世代が、きわどく、背徳的なシーンに接して、もしかすると自笑もふくめて笑いを爆発させるのに驚嘆した。大根作品は、観客を悧巧にさせる訓育効果まではらんでいたのだった。
 
「記憶容量を超える」点がポイントだろう。細部が充満し、展開が速く、しかもその状態が長丁場化するからそれが起こる。この三つが合成されると通常は疲弊へ導かれるのに、そうならないのは、大根作劇にたぶん音楽洞察を淵源とした緩急(クレッシェンド/デクレッシェンド/フェルマータなど)とリズム感があるためだろう。人は大根映画を「音楽的に」体感しつつ、その一瞬一瞬にとりこまれてゆく。容量超えをしているので、鑑賞後は「おもしろかったあ」という体感だけが身体に親和している。身体を勝手に(乱暴に)運転された強圧がのこらないのは、大根の視線が配役に実際は温かく、それが観客自身の存在をも肯定してゆく反射構造があるためだ。
 
ともあれこの段階の大根作品では「全体に配置される部分」から「部分による全体の内破」へと逸脱が起こり、全体は体感レベルに抽象化されて、記憶不能となる。つまり主題系を軸に記憶を再編成して映画の作品原理に迫る、蓮實重彦型の鑑賞態度が無効を宣告されることになる。この点で画面のありようはちがうが、大根作品はCGと高速編集とモーションコントロール撮影を駆使した(つまり画面展開をショット単位で分節化させない)ハリウッドの想像的アクション大作と、ありようが同等になる。ただし大根作品のとらえるものは、ひたすら日本化している事象だという点に差異がある。
 
週刊少年ジャンプでのマンガ原作・作画のコラボチームの自己形成を壮大なビルドゥングスロマンとしてえがく大場つぐみ・小畑健(もちろん『デス・ノート』コンビ)のリアルなマンガ業界マンガ『バクマン。』を映画化した大根の圧倒的な新作『バクマン。』はどうか。
 
ここでは二元論が有機的に(つまり分離感なしに)作動し、大根的映像の新境地を告げている。作品の「物語」は定番のバディムーヴィー、青春テーマ、恋愛のはかなさ、自己達成テーマで、これは観客だれにとっても把握と記憶化が自然に起こる。ところが作品の主要ディテールである「マンガを描く行為」「ライバルとの対決」はそのディテールの目盛が異様にこまかく、高速化し、展開が自由で圧倒的なので記憶容量を超えてしまう。この二面化によって、理解と体感高揚が同時に結果する。映像にたいする方策は見事としかいえない。
 
集英社、週刊少年ジャンプに高校男児が原稿持ち込みをするシーンからはじまる。集英社の社屋の諸側面が「ジャンプ」の表紙で高速に頁めくりされるようなCG。美学的にいうと、グリッド(枠の矩形)が自己展開する――「平面」が過剰化・自乗化する――という日本的な運動達成のためにスタッフの諸力が結集されている。それにたいし、マンガ業界における週刊少年ジャンプの位置、生原稿の持ち込みの実際などが、説明的に科白で表現される。このとき「理解」への適切な誘導と、映像の過剰化が、すでに象徴的に「同居」していたのだった。
 
マンガ家を目指す原作-作画のコラボチームの成立は、映画ではただしい順番でじつにすっきりと描かれる。原作(ストーリー/コンテ)担当が神木隆之介、作画担当が佐藤健。高校でおなじクラスだったこのふたりはもともと距離感があった。佐藤はひそかにクラスメイトの小松菜奈を想っていて、その小松そっくりのキャラをデッサンしたイラスト画帖をこっそりつくりあげている。そこにしめされていた卓抜な画力を、勝手にそれをとりあげて神木が称賛、自分の文才とあわせてコンビを組めば、最強のマンガ作成コラボチームができる、と盛り上げ、それにたいし懐疑的な佐藤とのあいだに行きつ戻りつのやりとりがある。
 
このやりとりにイラストの対象・小松までもがまきこまれる。そこで「声優になりたい」小松の夢もが話題にもちだされて、それぞれの夢の成就への目標があっという間に設定されてしまうのだった。ふと現れた小松が飛び散った佐藤のイラストを拾いあげるのが定番、イラストに描かれた対象が自分自身なのに動悸しながら愛着するのも、三人の芝居が校舎の階段を舞台にしているのも定番。ただし意外性は、佐藤と小松が意志疎通のないままに相思相愛状態だったという事実確認だ。小松はイマドキのJKっぽくスカート丈が短く脚のラインもきれいだが、スカート内部までを欲望させる煽りショットのない点に、作品が設定している倫理ラインもかんじられる。
 
マンガ家への成功に懐疑的なのに、佐藤がマンガ創作の実際に通暁している謎は「伏線→判明」といったおもわせぶりな径路を辿ることなく即座に判明してしまう。彼の叔父(宮藤官九郎)は「ジャンプ」で活躍したマンガ家だった。ところが人気凋落と疲労のために憤死する。その一部始終をマンガ好きだった幼少期の佐藤(子役が佐藤健にすごく似ている)が、叔父の仕事場で実地見聞していたのだった。
 
この仕事場は叔父生存時の状態のまま残されていて、これがコラボチームでマンガ家を目指す神木・佐藤の仕事場に転用される。画柄の獲得という点だけではなく、矩形のグリッドでこまかく形成された細部的な様相のある点が、設定上の勝利だった。この後この作品でのグリッドは飛翔し、展開する――その第一の素地=基底がこの叔父の仕事場だったからだ。ちなみに矩形重畳は書庫にならぶコミックの背表紙、フィギュアをならべる棚、原画、ブラインド窓などで複層的に形成されている。
 
ストーリーの詳しい説明は端折ろう。以下の分節が理解されればよい。自負どおりの神木の構想力発現(のち、彼の眼鏡のガラス面に作品の構想が画柄として展開する秀抜なディテールもある)。佐藤の画力の向上。夏休みを利用、満を持して持ち込んだ原稿は(このようにして冒頭場面に復帰した)、粗削りだったが、ふたりのマンガ創作開始からあまりに短期間での提示なので編集・山田孝之も驚嘆することになる。その山田の適確な技術的難点の指摘をふたりは信頼する。山田の提案により、ふたりが技術的に成長したマンガを完成、それが手塚賞の入選作になる。天才的なライバル染谷将太の出現。冷静な編集長リリー・フランキーの出現。手塚賞で佳作となった、それぞれ作風のちがう新進マンガたち――桐谷健太、新井浩文、皆川猿時が「仲間」となる。これらが作品の大団円でのアクション化の要件となる。
 
小松菜奈が声優への階段を着実にのぼるために退学する。「傾向と対策」を重視したふたりの作品をリリー・フランキーが否定するが「自分たちのみに描ける」学園SFものでさらなる成長をしるしたふたりを今度はリリーが評価、とうとう高校生ながらふたりの連載が決定すると、同齢の高校生であるライバル染谷(さきに連載をしている)との対決が、「ジャンプ」特有の読者人気アンケート結果の一位獲得を指標にいよいよ本格化する。
 
さて、ものを書く(描く)という、遅延的な時間がかかわり、しかも地味で個室化する営為を、映画はどうやって描写するのだろうか。小説修行なら原稿用紙に刻々文字が書かれ、その内容が作家自身の声でナレーション化するのが定番だった。絵画ならアンリ=ジョルジュ・クルーゾー『ミステリアス・ピカソ 天才の秘密』のように、画筆の進展を画家自身の努力で高速化させたものを可視化する方策もありえるだろう。ジャック・リヴェット『美しき諍い女』が画期だった。エマニュエル・ベアールの裸体を前にミシェル・ピコリがデッサンを繰り返すときの、炭筆が画布をこすり、叩き、裂くような「音」こそが、描く行為を換喩的にアクション化するとしめされたのだ。『バクマン。』ではGペンその他のペンを佐藤がマンガ創作のため本格的に使用したその瞬間から、紙にペンをうごかす音が、はげしい摩擦音として画面を裏打ちしはじめる。画面には音の雨がふる。
 
『バクマン。』のマンガ原作はコミックスにして20巻もある長丁場らしい。そのすべてを対象域にして映画化がおこなわれると、いくら「高速の語り」に定評のある大根映画にしてもダイジェスト以下になってしまう。大根は脚本化の範囲を、主演ふたりのマンガ家デビュー、連載開始、人気獲得、人気凋落――時期にするとふたりの高3夏休み前から高校卒業――までに絞った。一旦の挫折があってもさきゆきにはまだ希望がのこっている段階。それを映画化すれば、「俺たちもう終わっちゃったのかな」「ばか野郎、まだ始まってもいねえよ」を結語にもつ北野武『キッズ・リターン』と同様の、「中間期の完結性」が実質化できるという着眼だった。この発想は見事だとおもう。
 
それでも「ものがたり」の高速化・効率化は至上の課題だ。作品を観ると、即座に「欠落」「省略」が判明してくる。まず女性キャラクターとして粒立つのは、ヒロイン役小松菜奈しかいない。ところが彼女は連載マンガの人気下落にかかわる窮余の打開策としてマンガ中にキャラ化され、現実と表象、二様の「彼女」が交錯するようになる。それがあってもミニマルすぎる配置だ。教室で昼寝をくりかえすふたりの授業時のようすも教師の顔が実質化しないまでに抽象化されている。登場人物の布置を煩雑にするアシスタントの存在も作中、捨象されている(桐谷健太の仕事場のみにアシスタントが表象される)。
 
連載時の過重労働によりついに作画の佐藤健が血尿を排出して気絶し、せっかく決定していた巻頭カラー掲載が暗礁にのりあげる山場がある。手塚賞のときの「仲間」が加勢のためふたりの仕事場に結集して、編集長リリー・フランキーの「休載決定」をくつがえすくだり(最後は「殴り込み」「直訴」にちかい画柄となる)。リリーは往年、佐藤の叔父・宮藤官九郎の憤死にかかわった編集担当で、その慚愧もあるから、甥の佐藤をおもんぱかって休載を決定したはずなのだが、その背景説明は科白として発語されない。これも重大な省略だろうか。
 
大根作品でのリリー・フランキーの登場頻度はたかい。リリーはイラストレイター&映画ライターという出自もかかわって、もともと高踏派の印象があるだろう。となるとギョーカイ的な「則天去私」「余裕」を雰囲気にした素人演技を披露してくれればという要請がリリーに多かったはずだ。その彼が自分の姿・顔貌の物質性に自覚的な「怖い」演技をするようになったのは最近のことだとおもう。松永大司監督『トイレのピエタ』、塚本晋也監督『野火』が今年の達成だ。ここでもリリーの俳優的変貌を知悉する大根は、リリーに「説明」ではなくたんなる「存在提示」をもとめた。リリーはその要請に見事に応え、その外貌と視線の質だけで、画面にふかみをあたえたのだった。
 
これら省略が画面進展に驀進力と躍動感をあたえる素地をなした点はたしかだろう。ところがこの作品には、記憶不能性を増殖しながら、「それじたい」が驀進・躍動する細部がある。それがマンガを描く営為、その時間性だった。これはおもに佐藤・神木のふたり、さらには染谷に中心的に適用される。
 
佐藤・神木の仕事場が、もともと矩形変転の潜勢力(可能性)をざわめかせている点は前言した。その土台のうえマンガの画柄が描き込まれていってグリッドが多数化、炸裂運動をしるす。この映像的な驚異=脅威がこの映画で最も観客に呑ませるものだろう。具体的には――通常描写でネームに佐藤がペン入れをしている。それがやがて高速化、キャラの輪郭が確定したのち、ベタがほどこされる進展まで加速する。やがてふたりの仕事場の壁に、コマ単位の画面や頁が飛翔しだす。それはプロジェクション・マッピングとCG合成による。位相の変転、コーポレーション、うごきの付与そのものがはらはらするほどの躍動性にみちる。
 
気づくと、描かれているコマ、頁そのものにアニメ化された「動画」まで象嵌され、画面が細部多発的に「林立」するようになる。「林立」とは地と図を逆転してとらえれば中間の前面化だ。カメラワークはモーションコントロールされている。これらの複合は音楽性につうじる映像の驚異的な自体化とよべるだろう。むろん要約はできない。だからそれらは観客の記憶不能ゾーンを快楽的に摩擦するだけになる。
 
こうした映像処理への跳躍は、「描いて描いて描きまくる」というストーリー上の動勢にのって説得化される。映画は通常それを小刻みなディゾルヴで表現してきた。それは「同一面」にかかわる多時間の重畳だったが、この大根作品では運動するグリッドの多元化へと転位される。時間は進展ではなく炸裂する。複数はいつも単数の炸裂だろう。ところが平面性が護持され、平面と平面とのかずかずの関係性が点滅的に躍動しているのだ。たとえば卓越した身体能力のアクション化、モンスターの生態変貌などにハリウッド型のCG使用の軸足があるとすると、大根のこのような場面は平面記号の変転という点ですこぶる日本的な発想――しかもそれでハリウッドを突破する方法、ともよべるのではないだろうか。
 
一旦つくりあげられた驚異は、ペンを剣のようにもった佐藤・神木と染谷との対決場面でさらに増幅化する。そこでは俳優たちに体技=殺陣のようなものが付帯する。あるいは眼もくらむような多数性の、サブカル傾斜したざわめきは、「ジャンプ」連載の伝説的な作品群(のコミック背表紙)をパロディ=オマージュ使用した本作のエンディング・クレジット表示へも発展してゆく。こうした増幅的な進展こそが本作における時間性の「力感」の真骨頂だったのはたしかだ。
 
時間軸上にあらわれる「増幅」は、観客の体感上の増幅にむろん並行する。それだけがあれば、思想的な主題の提示はむしろ時間増幅を阻害し停滞させる異物だから整理されなければならない――それが大根仁監督のスタンスだろうか。なるほど前言したように、通常ならドラマの主軸のひとつをなすはずのリリー・フランキーの「慚愧」は最少限度でしか作劇上、表象されなかった。だが看過しがたい思想上の概念提示がべつにこの作品には存在していた。「中間」とは何か、がそれだ。最後にこれをのべる。
 
原作にたいする大根の脚色は、北野武『キッズ・リターン』を範例にして、主人公たちの邂逅・勃興・一旦の挫折・希望の残存までの「中間期」をとらえている点は前言した。ところがそれは作品の前提条件で、作品細部それじたいにさらに「中間性」が浸潤している。
 
小松菜奈ふんする作品唯一の女性性=マドンナは、声優修行のため退学したのちは、ケータイでの応答、パソコンでの画面内存在となり、その代わりというように、彼女の形姿はマンガ的な形象化をともなって、連載マンガの起死回生のためにマンガ内に転位される。このとき彼女の実像と画柄(それらはおどろくほど似ている)にダブル関係ができるほか、その実像と画柄の「あいだ」が「中間」化して作劇に作用するようになるのだ。神木の配慮により、小松はひとり倒れた佐藤を見舞う。切り返されるふたりの像には透明なカーテン地による浸食が起こり、それでふたりのあいだに疎隔感ともいうべき「侵食的中間性」がただようようになる。
 
このとき彼女は、所属事務所の恋愛禁止の制約もあって、「もう会えない」と落涙しながら語る。神木・佐藤のマンガ作品のアニメ化、そのヒロインの声優を小松がつとめた暁には、佐藤・小松のひそかな相思相愛が結婚というかたちで成就する――この約束は反故になったのか。着々と声優スターの座にちかづく小松。その彼女が最後にかたったことばは「先に行くね」だったが、それは実際に彼女をキャラとして組み込んだ神木・佐藤マンガのヒロインのおなじ科白として共鳴し、そこで時空がダブル化している。これこそが「中間性」の実相なのだ。
 
ところがそのように暗雲のたれこめるまえ、希望的な将来を幻想していたふたりのあいだでは、小松から佐藤に「ずっと待ってる」と発語されていたのだった。これは本作の終結間際、結局、読者投票の成績悪化によって連載打ち切りとなった神木・佐藤のマンガで、小松をモデルにしたヒロインが巻末で語る科白=残す思想性だった。時間的進展によって生じる「包含関係」を( )をつかった図式でしめせば、以下のようになるだろう。
 
中間性→〔「ずっと待ってる」(「先に行くね」)⇔(「先に行くね」)「ずっと待ってる」〕←現在
 
別離と待機が同時化する入れ子構造が、実在と虚構、双方の次元にわたり、時間が中間性としか捉えられないその実相こそが現在時だ――映画『バクマン。』はそんな時間哲学を提示しているのではないか。
 
そう気づくと、この作品では人間関係もまた「中間性」の具現化として到来としているとさらにわかる。巻頭カラー掲載実現のために佐藤・神木の仕事場へ、桐谷、新井、皆川ら手塚賞のときの「仲間」が援軍として出現したとき、仲間そのものが世界の空間性に中間的な緩衝性をつくりなしていると気づくべきなのではないのか。「仲間」と「中間」の字面が似ているだけではないのだ。世界のもつ弾力性は他者性の親和的な干渉により実現継続される。そうかんがえると、この作品で黒色と猫背と異様な空気感で表象される天才ライバル・染谷将太も、主人公ふたりにとっては「中間性の内挿」として現象しているはずなのだ。
 
さてこの作品での明瞭な「中間者」はべつにいる――ふたりの編集担当となる山田孝之がそうだ。彼はリリー・フランキーからつたえられた編集者心得、《マンガ家と編集部が対立したときには、かならずマンガ家につけ》を金科玉条として、それゆえ神木・佐藤の連載中断にかかわる蹶起を組織、完成物をつきつけてリリーのまえにたちはだかる、マンガ家内のただひとりの編集者となる。この金科玉条は敷衍=普遍化できる。《体制と現場に齟齬の生じた場合は、中間者は必ず現場を支援せよ》。これはさらにたとえば以下のように具体化もできる。《TPPと牧畜業者に齟齬の生じた場合は、中間官僚は必ず牧畜業者を支援せよ》。むろん中間者の自覚がこれら格言めいたものの芯をなしているのだが、中間者が消去されたときこうした格言はどのように純粋化するだろうか。答えはわかっている。カフカがノートにしるした格言がそれだ。《おまえと世界との闘いでは、世界に支援せよ》。映画『バクマン。』の思想的な提示物とは、透明性におおわれているものの、実際はそうしたものだった。それこそが音楽的な作品の「交響」部分にゆらめいていたのだ。この意味で思想的にも見事な作品だったとおもう。必見。
 
――10月10日、札幌シネマフロンティアにて鑑賞。
 
付言:映画『バクマン。』は、マンガ家島本和彦のマンガ家としての自己形成をえがいたかつての深夜カルトドラマ『アオイホノオ』と比定されるべきかもしれない。庵野秀明らサブカルスターも配剤したこの作品は、島本自身と想定される柳楽優弥の怪演がわらえたが、多くの「内心の吐露」が原作マンガのデフォルメ表現と一致していた。したがってナレーションがドラマ上、作品の内実となる。ひるがえって映画『バクマン。』をふりかえると、こうした物語・心情の説明便宜となるナレーションがほぼ排除されている。つまりストーリーの大方が、佐藤-神木の身体/科白の相互作用性によってのみ惹起されているのだ。結果、ハイタッチや遠吠え、さらには併走など、ふたりの身体上のシンクロニシティがホモセクシュアルといえるほど魅惑的にうつる。そういえば、武藤浩史『ビートルズは音楽を超える』(平凡社新書)は、ビートルズ内、とりわけ若きジョン・レノンとポール・マッカートニーのあいだの、同一リズムと同一あるいは対照所作を符牒にした身体的シンクロニシティを強調列挙する、うつくしいとしかいえないくだりがあった。
  

スポンサーサイト

2015年10月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する