瀬崎祐の本棚
瀬崎祐さんが、ご自身のブログ「瀬崎祐の本棚」に、ぼくのオンデマンド新詩集『束』の感想をしるされた。もっとも信頼する詩書紹介ブログのひとつで、そこにとりあげられたことじたいが、まずうれしい。以下↓
http://blog.goo.ne.jp/tak4088
瀬崎さんの詩集分析はいつも勘所の設定がみごとだ。ティピカルな箇所というより、瀬崎さん自身に響いた箇所を抜き書きしながら、意外な眺望もくわえて、詩集の全体を換喩的に位置化してしまう。それでもその視点からは冷徹な裁断ではなく、対象となったもともとの詩集、その実際の繙読をさそう「余情のちから」というべきものがただよい、ふくらんでいる。
詩集紹介に要約は要らず、短評圧縮も要らず、さらには曲解をほこるような慢心も要らず、といったやさしい中庸の「スタンス」。その一方で目利きであることはしずかに賭けられていて、とりあげる対象そのものに、詩のフィールドにむけての批評がすでに発動している。
だれでもがとりあげるだろうな、とか、だれもがする指摘だろうな、といった前提から先を、瀬崎さんはことばにしている。それで作者自身が発見にみちびかれたり、挑発されたりする。今回のばあいも「現在時」「短歌的」というご指摘が作者の不意をついたが、そういわれてみると、遡行的に自分の詩作に芯棒のひかりがとおるから、興奮が呼び起される。「ああ、自分はそんな詩を書いたのだな」と。
ぼく自身の詩集は、『ふる雪のむこう』『陰であるみどり』と、謹呈さしあげるごとに瀬崎さんの「本棚」にとりあげられていて、名誉めいたきもちもかんじる。今回の『束』についての瀬崎さんの文は、私信でいただいた坂多瑩子さんの感想とともに、「作者」じしんに驚愕をほどこしつつ、とてもフィット感のあるもので、感激しているのだ。
「たゆたう言葉」という全体評がひそかにあっさり挿しこまれているくだりにうなった。ぼくは自分の「ことばづかい」がどのようにいわれるのかを他人事のようにかんがえているので。「やわらかい」「すきまある構造が稠密」「容積をもち、しずかにうごく」「決定不能性に抵触している」「抒情的だが既視感はない」「ひそかな文法破壊がある」などなどか。それらを一語でつつむと、「たゆたう」になるのだろう。
詩壇というものがあるとして、それはおおまかには「大家」「中年=中堅」「意欲的な若手」の三層で形成されているだろう。「好きな詩を書くひとにのみ、詩集を送る」方針でいると、まんなかの「中堅」が自己還流を起こし、かがやくようにいわば自足してくる。ぼく以外にそんな経験のある、中堅の詩作者たちも多いだろう。
ところがこの層は、権威意識(=大家)も野心(=若手)もすくなく、覇権行動など選択しない。もじどおり、ひとつの層で、孤立状態の並立として、自足してしまう傾向がある。
詩のフィールドの現在は、あきらかにこの中間層にしるされているのに、その事実が詩壇ではあまり強調されず、結果、大家と若手の応答により、現在的な詩史が一年ごとに捏造されてしまう(たとえば「詩手帖」年鑑の巻頭鼎談)。感受性のにぶい大家はべつにして、ぼくが痛々しくおもうのは、若手の、大家への擦り寄りのほうだ。野心的にすぎ、向上心がみえすぎるのだ。なんなのだろう。
瀬崎さんの「本棚」の清潔な中立性は、さきにしるした「中間層」を、ただしく定位しようとする気概からうまれている。もともと既得権などないのだから、既得権者間の相互承認もない。「ただ読む」「ただえらぶ」「ただしるす」――けれどもそれにより、「まんなかから詩作のオルタナティヴをたちあげる」。そうかんがえると、瀬崎さんのしずかで端的な書きように、敬意をこえた戦慄すらおぼえなければならないのではないだろうか。