2015年の笑い ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

2015年の笑いのページです。

2015年の笑い

 
 
本日の「北海道新聞」夕刊に、ぼくの連載「サブカルの海泳ぐ」が載ります。今回、串刺しにしたのは、又吉直樹『火花』、10月放映の「キングオブコント」、そして先ごろの「M-1グランプリ」。はい、今年のお笑い界の総括という気色でした。
 
コラムに書かなかったことをいうと、『火花』は人物の出し入れ、脇役の利用法がすばらしい。井の頭公園など場所の召喚も生き生きしている。ラストの破滅的な衝撃のまえに、熱海の花火が再登場するなど、円環構造がびみょうにゆがんでいる点も良い。文章は一瞬危なっかしいこともあるが、その小説的結構には創意がみちていて、そこが話題となり239万部の発行に達したのだろう。
 
ただし爆笑を呼びこまない。「非凡」を目指す、神谷と「僕」のやりとりは、「非凡」の論理化のみを経由していて、脱論理性そのものを運動できないままなのだ。これは又吉のコンビ「ピース」、その笑いの質とも共通している。脱論理性の欠落のかわりに、『火花』では漫才芸人たちの青春の悲哀、さらには時間そのものの悲哀が代置されている。「充填」感があり、戯作小説の看板は、人物「神谷」の墜落性のみではない。太宰のみならず、織田作なども想起させる。
 
笑いということでぼくがまずかんがえるのは、道化の知性だ。無頼派文学の好きな又吉は、たぶんそのながれで、花田清輝の『大衆のエネルギー』中、「スカラベ・サクレ」を読んでいるだろう。笑いとは、虫が糞をまるめ転がしはこぶことだとして、しかもその道化のすがたにはシェイクスピア学を経由すると三種ある。愚行でひとを笑わせるビター・フール、悪辣さで共感をみちびくスライ・フール、恐怖ですべて凍らせるドライ・フール。
 
花田はその三類型を日本の文学者に適合させた。おなじみ、安吾、荷風、石川淳だった。又吉の標的に石川淳ははいっているのかいないのか。微妙だとおもう。たしかに『火花』のラスト、「神谷」の変貌は笑いというより凍結のすごみがあり、同時に哀しいためだ。
 
コラムでは現在の笑いの趨勢が「言語化できないもの」にシフトしていると説いた。これには魯鈍化、幼児化、転覆化、音楽化、脱論理化など、さまざまな要素がもつれている。笑いの急進が、かつての松本人志、かつての千原兄弟(ライヴ)をたどっていった経緯を、ぼくは単著で追ったことがあった。その笑いを描写するとき、文章が異様に精密化していった。だがそこまでだった。第1回「M-1グランプリ」で「われがちにボケまくる」「交替リズムが高速化するだけの」「無償性のたかい」笑い飯が登場したとき、ついに言説化不能とシャッポを脱ぐしかなかった。日芸の放送学科でぼくの授業をうけた学生なら、そんなぼくのすがたをおぼえているかもしれない。
 
「キングオブコント」のバンビーノとコロコロチキチキペッパーズの「リズムネタ」は言語化できないが、まだ「カワイイ」領域にある。リズムがじつは論理化されているし、他愛のなさにこそ共感をまねく縮減も機能していて、彼らのもたらす笑いを「演奏」ととらえると、それは妖精的と定義できるだろう。花田の分類では、ビター・フールにはいる。それは不要な混乱をこのまない現在の世相と合致している。
 
「M-1グランプリ」でもっともラディカルだったのは、ボケ役の風合いそのものに脱論理性が窺えた「馬鹿よ貴方は」とスーパーマラドーナだった。どんなパフォーマンスをしたかはコラムで書いたのでくりかえさないが、彼らはいずれも最終決戦にのこれなかった。審査員席にならぶ歴代の「M-1」覇者たち(のうちのネタ担当、アンタッチャブルの柴田のみ欠落)が評価にあたって既得権を保持、笑いの構造的な瓦解(それは「恐怖」にむすびつく)を認めなかったためだ。「世のなかの洗礼」とはそんなものだろう。コラムでは言外に、この点に異議をとなえた。
 
あ、そうそう、関係ないが、最近の笑いで最も知性的なのは、バカリズムだとおもう。スライ・フールとドライ・フールのあいだを高速に振幅している――そうかんじるときがある。多才なのはむろんだが、多才さが振幅振動的なのが肝要なのだ。
 
まあ、気になったかたは、本日の道新夕刊を――
 
 

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2015年12月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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