連詩大興行(1)
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こないだの土曜日は立教の小池・阿部研究室に
今度メール上で連詩のやりとりするメンバーが集まった。
詩人がお馴染み小池昌代さん、森川雅美さん、
杉本真維子さん、久谷雉くん、湯川紅美さん、
詩の愛好者としては歌手の三村京子さん、
学生時代、僕と連詩をやりとげた明道聡子さん
(その連詩は「阿部嘉昭ファンサイト」の「コラボ」欄に掲載)、
立教の詩のコンテストでグランプリを獲った松岡美希さん
(小池さんと僕の、共通の教え子でもある)、
それに、僕が面子。
この日、所用や遠隔地在住で出席できなかった
連詩のメンバーとしてはほかに
「ヴィジュアル系」歌人の黒瀬珂瀾さん、
この日記欄でも言及した詩集『鶴町』の松本秀文さん、
mixi日記欄に意欲的に詩を書いている、
映像作家志望の依田冬派くんもいる。
小池さん、森川さん、僕以外はみな若い。
あ、小池お姉さん、ゴメン(笑)。
総勢12人。
この12人の順番を決めて詩篇作成を3巡まわし、
計36篇となる「連詩」をつくりあげる――
一回のみならず何回かこの試みを継続したいという
意気込みでもある。
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「連詩」というと馴染みが薄いという人も多いかもしれない。
「連句」の間違いじゃないの、とか。
そう、僕らがイメージしているのは
具体的にはやはりその芭蕉「連句」だ。
その精神を具体的詩作にどう変換しようか、ということで
今回の連詩についての方法模索がはじまったといっていい。
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現状、試みられている連詩で多いのは
たとえば4行一聯の短詩を
参加者同士が決められた順番で
ずっと書き継いでゆくというパターンだろう。
前のひとの詩想を受けて
当番となった自分がそこにさらに詩想を付け加える。
それで次の担当に渡す。
「受ける」「付ける」「渡す」「運ぶ」などが連詩の「連」の字に
籠められる運動となる。
なるほど、それで詩の時間性が確かに延長されてゆくが、
何かトータルでは、一篇の長編詩ができるだけで
連詩特有のズレがあまり生まれていない作例が多い気もする。
あ、この場合の「4行」というのは
連句にあった「五・七・五」と「七・七」の単位を
現代詩における適正な分節量に単純翻訳したものだろう。
連句の一行が詩では4行程度になるというのは
「濃度」を考えた場合、すごくありうる発想だとおもう。
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連句の原型は和歌に由来する言語遊戯だったろう。
石川淳の『修羅』ではないが、
対峙者のひとりが「五・七・五」を提示すると
もう一方が「七・七」を返す。
これを「付け合い」というのだが、
二人で一首の和歌をつくりあげるのではなく
上句と下句には「切断」が意識されている。
つまり上句の心情や背景を「解釈」し、
その上句のもとめている下句にたいし
機知でズラシを組み入れて
上句制作者とはちがう立脚点から
下句を付けるというのが基本だろう。
それで句体が大きくなる。
それだからこそ、言語遊戯、「やりとり」として
付け合いが面白いということでもあるだろう。
この付け合いをずっと延長していったら――これが連歌の発想だ。
百句の長丁場が基本だったが、芭蕉がこれをコンパクト化した。
小さな紙を折って句を書き込む用紙をつくり
その裏表に36句の応酬をしるすことで
一座がたまたまつくりあげるものの全体を区切った。
これが「歌仙」。
芭蕉連句にいたり、「付け」の法則が多様なままに確定してゆく。
たとえば上句がある行為を表しているとする。
その行為をした人を見立て替える「付け」がある
(たとえば侍→遊女の転換)。
あるいは下句がある季節を前提としているとする。
すると空間延長して、その下句と同じ季節の別の景物を詠みこむ。
ここでも先のが「自然」なら、あとのが「人事」など
やはりズレがあったほうが面白い。
同じ季節を前提とした句が続くと単調になる――
ならばたとえば一句の喚起する故事成語などに着眼して
時間も季節も別次元に飛ばしてしまおう――云々。
連句には第一句の「挨拶」、最終句の「祝言」、
それとは別に必ず月や花を詠みこむ「月の座」「花の座」といった
細かい設定や約束事があるし、
ズレを意識してA→Bと進んだ句想の流れが
さらにズレを意識したことでB→Aと逆戻りするのを禁じる
決まりごとなどがあったりもする。
つまりそれは全体が「進行体」なのだが
各句接合の瞬間には「意趣替え」による切断やズレが組まれていて
(この感じ、僕は映画のカッティングに似ているとおもう
――それも「遠景-室内つなぎ」「同一動作の平行つなぎ」のほか
「主題つなぎ」「図像つなぎ」「逆つなぎ」などに)、
それで単純延長される詩想よりも
さらに大きな世界や時間進行が出現してくる。
つまりそれは「世界」や「時間」を集団創作する試みだった。
連句の最終句の「祝言」は参加した個々人の労にたいしてよりも
この営みの神がかった目出度さそのものを讃えるものだろう。
いずれにせよ、前の句を解釈し、
機知で見立てを変えて集積されてゆく36句の全体は
――前の句の何に着眼したかを考えてゆかねば
後ろの句の成立意味すらはっきりしない――
という意味で、がんらい読解が難しいものでもあった。
細部にはもう消えてしまった風物さえ仕込まれ
しかもそれが圧縮された用語で書かれてもいるから
全体的な言語認識・風俗認識・歴史認識も導入しなければ
正確な解釈など、できない。
なので大露伴がおこなった芭蕉七部集の註釈を
安東次男が痛烈に批判するという事態なども起こった。
けれども「読解する知性」のこうしたやりとりは
それ自体が遊戯的な面白さをともなっている。
僕は安東次男の連句解釈本、大好きだ。
安東さんは先人の解釈につき「不可解」を連発するけれども(笑)。
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うーん、連句を説明するのは難しい(笑)。
ましてや僕らの考えている連詩を説明するのはもっと難しい。
ならばひとつ、簡単な実作例を出してみるか。
僕と女房が出した06年元旦の賀状から(07年は喪中だった)。
計4句、これは連句の手前の付け合いです。
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A 遠見せり寄添ふ犬の眼を藉りて 律
B シトの匂ひに巷らんまん 嘉
C ふらりして去年の桜の朧かな 嘉
D 眼鏡与へて粗茶を馳走す 律
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Aは日々、無聊をかこつ市井の子供が
親にいわれて犬の散歩をしている、くらいの設定だろう。
散歩の一休み。犬が眼を細める特有の目つきをしている。
それは遠景を見やるにふさわしい仕種。
「釣られて」子供も眼を細め遠くを見た。
その動作の写り(移り)に滑稽や俳味が仕込まれている。
BはAの前提となっている散歩者-犬の配合から
犬の感覚内面へとカメラがクロースアップをおこなった。
「シト」は尿。
犬は当然、排尿によるマーキングをおこない、
その尿の匂いの個別差異によって、
世界領域を細部分割し、そこから充実を受け取っている。
で、季節も温まり、犬の散歩が増えたのだろう。
それで世界のここかしこから尿の匂いが芳醇に立ってくる。
人間にとっては意味のない尿臭だが
犬にとってはそれが
「巷」が爛漫に咲き誇る感覚ともなっているはず
――句の着眼はそのあたりに落ち着いている。
Cはその「爛漫」に引きずられて「桜」を出したが
「桜」が実体か否かで謎を盛っている。
ともあれ、ふらふら近所を歩いたら
みえたのは今年でなく去年(こぞ)の桜、
それも朧ろ状態だったといっているのだった。
ともあれ、A、Bに薄っすらと感じられた春の色には
この句で否定斜線が引かれる。
たしかに打越の禁(A→B→A進行)に触れる危うさもあるが
Aとは散歩の姿がちがうだろう。
Aの散歩には実体と実質があるのにたいし
Cの散歩には覚束なさと不如意、
同時に敗者のロマンめいたものが感じられる。
Dはその「いい気な」自己愛を突いた。
桜が朧ろに見えるのは
Cの「ふらりする」主体が初老となり
老眼を患ったからだ、と揶揄する。
ならば眼鏡を(買い)与えよう、
それから散歩疲れには茶も一服如何?と混ぜ返す。
句の運びが無用に美的になるのを即座に食い止め
俳味を付け替えた瞬間の運動神経が妙。
それでB→Dでは、「シト」→「粗茶」へと液体が「飛び火」し、
動物界と人間界が一体化して、世界の広がりも出ている。
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とまあ、おもわず自画自賛しちゃったが(笑)、
まあ、こういうのが連句特有の「句運び」なのだった。
ということで次回の日記は、この「運び」を僕らが
詩にどう転換しようとしているのかを書いてみます。
(この項つづく)