横浜聡子・俳優亀岡拓次 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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横浜聡子・俳優亀岡拓次

 
 
【横浜聡子脚本・監督『俳優亀岡拓次』】
 
トンネルのうす闇を男が逃走している。憔悴した表情。女子高生とぶつかると、ふところから拳銃を落とし、女子高生に恐怖をあたえる。一挙に逃げ足をはやめる男。刑事が追う。線路際の階段を駆けのぼると、視界のひらけた先は神社。そこでホームレスの男とさらにぶつかる。逃げている男と刑事たちの、怒号とびかう葛藤。平常心を失った男が発砲しようとすると、警察による発砲の反撃をくらう。くらったまではいいのだが――神社の賽銭箱あたりを背に、男は七転八倒しながらも、立ち上がり、また倒れ、また身を這いあげて、なかなか死なない。展開が止まらない断末魔演技。思い入れたっぷり、未練たらしい。そこで「カット!」の声が飛ぶと、フレーム内へ映画スタッフが侵入してくる。
 
記憶ちがいがあるかもしれないが、これが横浜聡子監督『俳優亀岡拓次』の第一ショットだった(つまり長回しだったとおもう)。映画を撮影する映画では、むろん映画内映画が駆使される。映画内映画から現実への転換は、オフフレームからの「カット!」の音声が多く契機となるものだ。これが鉄則だとすると、『俳優亀岡拓次』の第一シチュエーションは、仕掛けが大がかりすぎ、映画内映画なら「おもわず」映り込んでしまうはずのスタッフを死力で遮断して、画面推移そのものの内部性をもちすぎてしまっている。『アメリカの夜』のトリュフォーなら、これをやらなかった。映画を撮る映画として何か錯誤があるのではないか――最初はそんな危惧が走った。
 
いそいでつけくわえておくと、この映画が中心化するのは、さきに紹介した第一シチュエーションでいえば、のちに駆け出し中と判明する、逃げ惑う男を熱演したイケメン俳優ではなく(彼はのち再度登場する)、彼が神社でぶつかった、風貌に何ひとつ冴えたところのないホームレスのほうだ。むろん観客はそれが主演・安田顕と知っている。「カット!」のシチュエーションのあとは、監督、さらにはスクリプター女性(助監督?)への伝言という迂回をつうじ、「なかなか死なない」目立ちたがり屋の俳優にたいし、クレームがつく。「撃たれてあっさり死ぬ」範例をその場で端役の安田顕が若手俳優にしめすことになる。スクリプターの指拳銃+「バーン!」。うしろに跳ね飛び、余剰ゼロで即死してみせる安田。
 
画面からの消えかたに「消滅」しか現象させないその潔癖さというか恬淡さは、あきらかに川谷拓三に代表される「脇役伝説」に反している。ピラニア軍団の川谷ならいつも「数瞬をいた――生きた」。一方この安田は「いないようにみえて」「いたようにもおもえる」――それだけだ。これは何か安田顕の俳優としての存在感にふかく接触しているようにみえる。
 
近年のTVドラマでなら、安田はさまざまな振幅をもつ「脇役」(「端役」ではない!)を演じてつよい印象をのこしている。実年齢よりほぼ20歳下の、しかも庵野秀明という天才型のおたく。やたら泣く厚化粧オカマのパティシエ。町工場の実直な技術者(社長に忠誠だが、多弁さが取り払われている)。
 
ところが安田本人の、たとえば「顔」はどうだろう。「奇異」を目指す設定の眼目以上に、それじたいが不安定な振幅をもっているとはいえないか。たとえば――目鼻のみをウルトラアップしてみるなら、安田の顔の造形・骨格はもっと面長のはずだが、それが縦方向に微妙に圧縮され、むしろ四角い顔を現象させている。気弱そうにみえて、顎全体から強靭さをおぼえさせる。目はいわゆる「くりくりまなこ」でかわいげがあるのに、眼光上では妙なヴァリエーションをえがく。ときに目力ゼロの「死んだ目」をみせるとすると、眼底の奥底にめらめらと不測の焔も揺曳し、しかもそれがあっさりと途絶してしまう。つまり不安定でつかみがたいのだ。
 
あるいは存在全体を「要約」しようとしても、からだ各部に装填されている多様性が、どこかで要約をはみだしてしまうかたむきがある。しかも安田はその多様性を誇示するのではない。それらをも演技の刻々で「あっさり死なす」のだった。しめす分量ではなく、捨てる分量の多さのほうが特異で、しかもそれが目立たない。「ゆれる俳優」――脇役に適用されがちな「存在感のたしかさ」という美辞では何かがずれてしまう俳優――それこそが安田顕ではないのか。とりわけ彼の真骨頂は演技でみせる「覇気のなさ」に叡智がこめられていて、ときにオフビートよりももっとタルい外しまで結果させることだとおもう。
 
まとめると、安田は「多さ」を、ひとくくりのなかで、ときに不安定に明滅させる新しい類型だった。その自我の遮断には狂気がひそむ。同時に、『俳優亀岡拓次』で横浜聡子監督がとった方策も、「多元性をひとくくりにしてしまう圧縮」だった。安田の面長のはずの顔が、四角く圧縮されている現実とそれはちかい。もちろん前言した、独立性のつよすぎる冒頭シチュエーションの「映画内映画」がその範疇に入るし、あるいはやがて「ことばなし」のリアクションだけで安田=亀岡拓次が、ひとめぼれしたと見事にわかるシーンも後続する。相手は、長野の飲み屋街のちいさな居酒屋「ムロタ」の若い女将・安曇(というか大将=不破万作を手伝う出戻り娘)=麻生久美子だが、このときもちいさいながら「多元性をひとくくりにしてしまう」術策が露呈する。手前に安田、奥行に麻生を置いた顔向け構図が、カット割りされず、あからさまに古典的なピント送りでしめされたのだった。
 
カウンターの向こう、厨房内にいる若女将にみえる麻生に、自分の熱燗をおごる安田。「ボウリングの球のセールスマン」という安田の嘘の自己紹介や、何気なくふたりが見上げるTV内、スペインのバルでのタコ料理の紹介画面、艶っぽい麻生のおちょこの傾け方と嚥下、それと注文のつまみ=タコブツと寒天のもつ清冽、あるいは紙おむつの話題――驚くべきことに、巧まないそれらの話題がすべてのちの展開の伏線になっていたと判明する。
 
タコからタコに飛び火したかぎりは、TVのスペインは映画のスペインをのちによぶ。しろいとっくりセーターに小振りのラインがやたらに色っぽく目立つ麻生の胸元は、やがてはフィリピン娘「ベン」ちゃんの胸元、さらには安田=亀岡が慣れない舞台出演のオファーをうけて共演した、杉村春子めいた大女優、三田佳子の、芝居上、安田によって揉まれる乳へと発展してゆく。ピント送りの話題を出したが、飲み屋「ムロタ」のシーンでは麻生の父親役の不破万作は、画面オフしているか、ロングにいる場合は必ずピントを外されていて、声とぼやけた風体のみで不破と「予想」されるだけだ。これは俳優への不当な扱いなのか。ちがう。つまり不破は最初の画面でそう処理されることで、ちゃんと写されるのちのシーンを「予期」されることになるのだった。
 
どの細部も映画内で有機的な連絡をもち、それじたいのみでは独立していない――これがこの映画の、「多元性をひとくくりにしてしまう」荒業の次に成立している法則だろう。これらがやがてシチュエーション同士、さらにはシチュエーションの内部性=展開を、みたこともない創意へと織り上げてゆく。もともと多元性は、横浜作品の特許にちかいものだった。『ちえみちゃんとこっくんぱっちょ』の女優三人、『ジャーマン+雨』での子供たちの夢幻的な落書きシーン、『ウルトラミラクルラブストーリー』におけるエンディングの多肢性、さらには『真夜中からとびうつれ』の展開そのもの。ところがそれを今作で横浜監督は、俳優のいる現場へとさらに過激に適用したのだった。
 
それぞれが複雑な展開なので、説明が長くなってしまわざるをえないが、びっくりしたのは次のシチュエーションだった。とある現場。亀岡はフィリピンパブで酔客を演じている。彼についたのが、麻生とともに出番は限定的ながら、その人の良いあかるいラテン系の外見が観客を魅了せずにはいないメラニーふんする「ベンちゃん」。彼女は外見を買われて起用された素人という設定で、日本語は喋りが堪能だが、台本が「読めない」、しかも映画と現実との虚実の振り分けもできない厄介者だ。ともあれ彼女の意気の良さを活かすため、ふたりのシーンは亀岡リードのアドリブとなるが、映画の虚構を食い破り、現実をバラしてしまう「ベンちゃん」の数々の暴走により、NGつづきとなる。しかもベンちゃんの主張により現実にアルコールを飲まされている安田が酔眼朦朧としてくる。この流れ、NG原因に多様性があって、じつに可笑しい。
 
ともあれ撮影は難航した。気分入れ替えといった風情で、パブの外が写されると、ベンちゃんはいろいろグズっているし、亀岡はマネージャーにケータイで撮影進捗状況を伝えている。おどろくべきことが起きる。このときベンちゃんは画面に「実在している」のに、亀岡はマネージャーに「相手役のベンちゃんが逃げちゃいまして」と告げていたのだった。亀岡はケータイで話しつづけ、道の角を曲がる。話柄が変化する。亀岡がひそかに憧れをいだいているスペインの監督からの、出演向けオーディションがマネージャーによって話題に出されたのだった。角を曲がる際に、カットは割られない。ところが画面全体がその前の昼間から一瞬にして夜に変貌する。場所も街中から夜の倉庫街めいたノワールな雰囲気をたたえだす。すると、亀岡はそのスペインの監督の作品の登場人物へと変化、「幻想」を確約された映画内映画へと審級がさらに進展するのだった。
 
こう書けばわかるように、この展開は、「多様性をひとつなぎのなかに組み入れた」この作品の法則実現であるとともに、長い1カットのなかで大時間を経過させてしまっているアンゲロプロス『旅芸人の記録』の大胆な手法をもおもわせる(それに影響を受けながら、派手にそれをスペクタクル化してしまった相米慎二『雪の断章』の冒頭よりも、さらに)。横浜聡子とアンゲロプロス――この予想外の配合に動悸しない者はいないだろう。
 
「映画を撮る映画」、あるいは「映画を撮れない映画」「映画を撮る直前の映画」という鉱脈が映画史にはある。さきに言及したトリュフォー『アメリカの夜』のほか、フェリーニ『8〓』、ゴダール『軽蔑』、ヴェンダース『ことの次第』、イーストウッド『ホワイトハンター ブラックハート』、北野武『監督・ばんざい!』などをあげることができる。安田が長野に行った映画の現場では共演者によって「ミシェル・ポワカール」「ラズロ・コヴァックス」と、ゴダール映画の役名が出てくるがゴダールに影響されているわけではない。多元性の一括、細部の間歇的な連絡により、結果的に映画内と現実の虚実が連絡しても、それはこの映画の独自性をむしろつくりあげるといったほうがいいだろう。
 
ただし亀岡出演の場面は何ひとつ流産していないが、そこには徒労感がひびく。「ベンちゃん」現場失踪による撮影中断がたとえば意識されるものだ。このとき『ことの次第』の空気が撮影にしのびこんでくる。『監督・ばんざい!』にあった、虚実の分離不能や「虚それじたいの判別不能性」はどうか。長野で撮影されたのは、やくざがホテルの番頭に自分たちのもとめる宿泊客を出せと迫る場面だが、最初画面に現れたのは若頭格のやくざが亀岡、という設定だった。ところがやがてそれが彼の願望で、彼は灰皿の灰でくしゃみするところをやくざに押さえつけられる、みじめな番頭へと現実化する。このときに虚の多元性が分泌される。さらに亀岡の出演シーンはビューアーでスロー再現される。すると一瞬、痛めつけられる亀岡の演技の迫真性として、彼の目玉が飛び出している冗談ディテールが混入される。これらの空気は北野映画との類推を誘うだろう。
 
それでも映画内映画は、横浜聡子映画じたいへの類推をさそう。じつは横浜作品には「減退の加算」という隠れた主題系がある。その頂点が、『ウルトラミラクルラブストーリー』における、松山ケンイチの農薬吸引による病態進化(ただしこれは知能進展という皮肉な様相をも外化する)だった。これにあたるのが、アクションシーンでなぜか予想外に亀岡が鳩尾(胃)を、相手の装備する何かで突かれる、という描写の蓄積だろう。彼はしかもげっぷを作中で数多くもらしていて、たとえばこれを亀岡の胃病死の伏線と予感する観客も多いはずだ。
 
ところが、間歇的連絡を旨とする作品法則は、やがては亀岡の鳩尾への不測攻撃を、彼の橋からの落下という別の事態へと結果させてしまう。その時代劇を撮っていたサングラス姿の黒澤明然とした監督・山崎努は、橋からの落下をも演技として構築しつづけた亀岡をみていた。重々しい間ののち、山崎は「偶然を必然にかえた」亀岡を絶賛する。つまり映画を支配しているのは、「段取り」にたいする覚醒ではなく、アフォーダンス的なものだ。これが、そのまえの、舞台大女優として亀岡を叱責励起する三田佳子がいう、亀岡のからだには「舞台の時間ではなく、映画の時間がながれている」という分析とも符合する。
 
亀岡がかかわる映画人で最もつよい印象をのこすのは、むろん親友にして飲み友だち、おなじく脇役俳優という設定の宇野祥平だろうが、アラン・スペッソという名のスペインの架空の名匠は、意外なことにその実在性が稀薄なことでかえってつよい印象をのこす。実在をとらえられるかどうかはべつに、彼は三度画面に召喚される。スペイン―ポルトガルの隣接類推でオリベイラをもおもわせる彼の出番を、終わりから遡行してみよう。
 
彼の指揮のもと、砂漠で映画が撮られている。オーディションに落ちたはず(日本人配役の座を射止めたのは冒頭のイケメン俳優だったと間接説明される)の亀岡が、頭に鉢をかついで疲労困憊しながら砂漠を移動するすがたがロングからの望遠でとらえられている。監督の絶賛の声。存在ぜんたいが不毛性と接触しているこの感触はアントニオーニ『砂丘』やベルトルッチ『シェルリング・スカイ』にちかい。
 
そのまえは、亀岡と、宇野祥平ふんする宇野泰平(配役名から判明するように、もともと戌井昭人の原作小説で、宇野自身をモデルにして造型されたキャラクター)が山形の飲み屋で飲んでいる。「ブレイクしない同士」という前提で飲みあい、しかも宇野は先輩亀岡に敬意を払うが、どこかで「より売れてやるぞ」という自意識も垣間みえる。その自意識が亀岡の目立たないとはいえ着実にしるしている実績により打ち砕かれる反復が、じつは笑える。このときに、スペッソのオーディション(日活撮影所のがらんどうのスタジオが使用された)に亀岡が出た、という話題になって、スペッソの指導に俳優・亀岡が応え、麻生久美子とのダンスシーンをふくめ、あからさまなスクリーンプロセスをまえに、亀岡の演技が情熱的に白熱してゆく。やがてスクリーンプロセスが移動風景になると、ひとりカブにまたがった亀岡が、長野の麻生=安曇に会いに急行しているシーンへと、「平面展開のまま」変化してゆく。
 
砂漠でのロング(それが望遠レンズを介在させた映画内映画になると比較的近景となる)、平面的なスクリーンプロセスを背景にしたコミック的=セルアニメ的な亀岡の実在による遠近のわずかな二重性というふうに、この遡行過程が変化してきたわけだが、では日活のがらんどうの映画スタジオを舞台にした最初のオーディションはどうだったのだろうか。
 
ロングの位置にいるスペッソ監督は、ぎりぎりのシャッターの隙間からスタジオに入ってきた亀岡を、自分が愛着している俳優として呼びよせる。亀岡はがらんどうの空間を斜めに横切るが、監督の指定するエチュードに入るとき、スタジオの壁から離れられない存在へと変貌させられる。このとき亀岡のエチュードの相手役になるのが、ロマンティックなことに淑女のシェイプをもった影絵なのだった。奥行きへの「層」という点では、亀岡の実在と、この影絵が、騙し絵的に同一の奥行きに入って、いわば「虚実」を共演する。演出の遊びを超えた、演出の発想力・展開力に息を呑む。
 
ところがこの一連の最後で、同一の奥行きという基準が崩れる。照明投影されることで実現していた影絵が、より奥行きに入って、実在女性の完全に黒いシルエットとなるのだった。むろんこれはシルエットとはいえ実在だが、現れは影絵とほぼ区別がつかない。そのとき虚実の二層があるだけでなく、虚にも各層がある、という作品の映像哲学が告げられることになる。見事だし、ここでダンスシーンのフェリーニ『カサノヴァ』との共通性も交え、とりわけ作品がフェリーニ『8〓』に親炙しているような感慨が生じてくる。
 
じつは、虚実が複層化しているあらわれ、あるいは虚のなかに複層があるあらわれとは、それじたいが「内部的全体」とよぶべきものなのではないだろうか。その内部はぬくもりをもつ。この『俳優亀岡拓次』は、多様性の一括表現といってもいいのだが、その内部性のなかにある層の多さによって、内部的な温度をにじませている点が稀有なのだった。演出上の仕掛けやカットを割らない英断によってこうした印象が生じるのも確かなのだが、この内部性がじつは横浜組の現場のもつ、家族的な内部性とも並行しているのではないか。
 
横浜監督が数年前、北大内での横浜作品特集で来札したとき筆者は彼女と壇上対談したのだが、自分はカットを割れず、カメラマンにカット割りをまかせていると、彼女が語った。ただし創意的なカット構築を「誘導」しているのは、じつは横浜組の現場の内部性なのではないか。それはちょうど、亀岡役の安田顕の演技が、安田いわく「死んだ目」を通したとされながらも、眼に「死んだ目」以外を数々、非定着的にゆらめかすように「誘導=励起」されていたことにひとしい。いずれにせよこの作品で観客は、「内部性のなかの深度のちがい」を微妙に体験しわけ、それを幸福感につなげるようになるはずだ。反応の中心は、もちろん笑いだとおもう。
 
さて上述した「映画を撮る(撮れない/撮る直前の)映画」においては、中心化されるのが監督か主演俳優かプロデューサーだった。つまり脇役=端役俳優を中心に据えたこの作品は、その意味では同列に属していないことになる。それら先行作への不従属が、この作品に着実な結果をもたらした。つまり亀岡=安田の「俳優としての生」は短時間連鎖で複数的であり、このことが複数の舞台と層を作品に招きよせているのだった。複数の舞台(撮影地)は亀岡の移動そのものをもともと基盤にしていて、それゆえに作品では列車の車内風景、車窓風景が反復される。
 
これが移動のリズムをつくりあげていたとすると、やがて、スクリーンプロセスを配したオーディションスタジオから長野への移動、芝居現実的には山形から長野への移動というように、移動の真偽が定かでなくなる。あるいは終幕の砂漠への「跳躍」にいたっては、飛行船内シーンはあるものの、移動の実際すら脱落して、それにより虚実の判明までもが不能になる。これを「内部」が「外部」を併呑する過程が生まれたといってもいいだろう。作品の時空変異はそのように、挑発的・哲学的なのだった。
 
むろん付帯的な果実がある。可能性としては「あらゆる生」を、「目立たないがそこにいた」というわずかな保証で生きる亀岡がいて、その前提に反映されるように、一部の人物にも複数の生が湧き出す、いわば祝儀が生ずるのだった。亀岡が麻生=安曇に用意した紙おむつと花束が、モノあるいは生理の間接物としてどのように画面にすがたをのこしたか、それを秘匿したいので詳述はひかえるが、「安曇はじつは……だった」という判明は、ドラマ上は亀岡の失意を呼んでいるのに、その多様性が画面内では見事に謳歌されている。それは「宇野がじつは……だった」という一種の結末提示でもみられたことだった。
 
いずれにせよ、この作品では細部がすべて連絡しあって、有機的な時間=内部的全体を哲学的・躍動的・騙し絵的につくりあげている。たとえば人間の手には、てのひらのくぼみという「内部性」を幻想させる経緯があるが、作中、手を怪我した亀岡がその手を差しだし、安曇の手によって包帯を巻かれるシーンなどは、「内部と内部のやさしいたわむれ」とよぶしかない美しいディテールで、それもあって、ほんとうに見事な快作となった。
 
――2月24日、ユナイテッドシネマ札幌にて鑑賞。
 
 

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2016年02月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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