男性の抒情詩
【男性の抒情詩】
いいおくれましたが、今月(3月号)の「現代詩手帖」詩書月評では、男性による抒情詩集をあつかいました。ラインアップは以下。
・宗清友宏『霞野』(石風社)
・久谷雉『影法師』(ミッドナイト・プレス)
・久石ソナ『航海する雪』(私家)
・野村喜和夫『久美泥日誌』(書肆山田)
・相沢正一郎『風の本――〈枕草子〉のための30のエスキス』(書肆山田)
・冨上芳秀『蕪村との対話』(詩遊社)
これらの抒情性に共通しているのは、換喩的なうごきです。なにかをいいさして、発語がずれてゆく。このとき詩=詩文=詩行の直線性がたわみ、あらわれに容積のようなものができるのです。最も意欲的な若手女性詩人の詩が「ストレートな」「ゆがみや散乱」をいまヒリヒリと印象づけているのにたいし、男性的抒情には影をはらんだ含羞=恥辱がある。ぼくは詩作の原動力は自己流露ではなく恥辱だとおもっているので、今回あつかった男性詩作者たちの「手許の温かさ」をより掬したい気になっています。
引用部分からもおかわりのように、ぼくにとって未知の詩作者・宗清友宏の言語感覚がすばらしい。いまはちょうど、彼の別の「作品集」(そう、「詩集」とはよべない結構をもつ)『時量[ときはか]師舞う空に』(石風社)を読んでいて、そこでも学殖と狷介さがあらわです。読んだところまででいうなら、ラテンアメリカにまつわる民俗と地理が全篇に貫通し、空気をつくりあげている。それが「歌」ごとのスタチックな構造反復から光景の背脈としてあらわれるのです。
それにしても――もうじき〆切日の次回・詩書月評をどうしようかなあ。ネタ切れということでないのだけれど、とりまとめ(二号分のふりわけ)に何案かあって、構成を決めかねているところです。あまり知られていないだろう詩作者では青石定二詩集『形R』を最近読んで、瞠目しました。