近況・3月9日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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近況・3月9日

 
 
どうやら、一詩集の詩稿が完成したようだ。去年、『束』用の詩稿がなってからの春ごろは、連作のモチベーションをなくし、依頼された詩を書くだけで(これには最大行数の設定があって詩篇が長くなる)、むしろふだん書きすぎる詩を書かないよう謹んできた。それが秋ごろ、ふと、たまにではあるがそれまで書いていた詩を活かすことのできる連作性をみいだしてしまった。形式的には単純で、二十行未満の詩篇。あとは、作者みずからがひそかに決めた語調をたもつこと。「減喩」にかかわる叙法を追究するのは『束』とおなじだ。
 
その気になると、詩篇はほぼ日録的にできてしまう。日常がさみしいからだ。朝、起きてあたまがはっきりしだすと、冒頭一行がうかんでいる。それなら終わりにむけ詩行をかさね、完成にみちびけばいい。十行ていどの詩篇なら、推敲をあわせて30分ていどの作業だろうか。
 
連作詩篇と自覚したものは、あるていど蓄積すれば、ワードへ縦書きにして、できた順に貼りつけてゆく。日録型の創作では「できた順」が物をいう。それにより日常や季節の推移を裏打ちされ、ながれに作者の身体が定位されてくるためだ。詩が日常の体験や感慨から離れた空論として出現することは、いまはまったくない。詩的なアレンジがあっても。
 
詩集のアナロジーはフルアルバムCDだという持論がある。CDの趨勢的な聴取時間40~50分ていどに詩集の繙読時間も設計されなければならない。そうであればこそ、読者の負担もかるくなって詩集がたびかさなる再読に供されるようになる。一枚のCDがくりかえし聴かれるように書物があること、これこそが単純に詩集の音楽性の条件なのではないだろうか。
 
20行未満の詩を意図して書きだすと、最長19行、最短5行、中心分布が10行前後という気配になってきた。こうしたものをあつめて繙読時間40分へいたるためには全体が100篇ていど必要なのではないか。それならば連句独吟よろしく実際に100篇をなし、最後の一篇を「祝言」にしてみよう。やがて雪の季節となり詩の表情が沈潜してゆくだろうが、祝言ではおとずれてくる春をことほいでみたい。だいたい50篇めくらいからこのように構想がかたまっていった。
 
ワードに貼りつけた詩篇のながれはたまに確認する。あたまから読んでいって、不用意なミス(助詞の斡旋に多い)を正したり、ながれを阻害している詩篇を割愛したりするためだ。どんなにSNSで「いいね!」を頂戴しても、あるいはもとになっている体験に愛着があったとしても、あまいものは詩集内のながれを膠着させる。そういうものはいさぎよく捨てる。改作などしない。やがては書いたことすら忘れてしまう(SNS上にのこっていることがあっても)。
 
さて今回は、99篇めの完成と自覚したところで異変が起こった。小池昌代さんの編著『恋愛詩集』に触発されて書いた詩篇「舌」が、出来に愛着があっても、祝言手前の99篇めにふさわしい余韻を発散しないのだ。このあたりになるとふくざつな余韻が交錯して、詩集がいよいよ感慨をもって終わる気色にならなければいけないのだが。とりあえず、100篇め、一学生への思いをこめた「乾杯」を完成させてはみたが、このながれでは詩稿が完成していない。
 
どうするか。昨日の午前のことだ。体調が冴えないのをむしろ奇貨として、しかたなく全体をあたまから読み返し、ながれを確認してみると、まだものほしげな表情を湛えたまずい詩篇があった。それを割愛して、なにかを足さなければならなくなったが、「乾杯」のあとにあらたに組み込むと、「乾杯」のもつ祝言の湛えがきえてしまう。
 
すぐ代案がうかんだ。三月初旬の雪あらしのとき、書こうとおもっていながら、なにかほかの用事にかまけて書く機会をうしなってしまった詩を「いま」書けばいい。幸運にも着眼と角度をおぼえていた。硝子を主題に、永田耕衣の名吟《白桃の肌に入口無く死ねり》を変奏するというものだった。その詩篇をつくり、三月初旬の位置へ組み入れた。以下――
 
【出口入口】
 
がらすのひょうめんじたいには
ことごとく出口などなくて
むこうのすけてみえることもまた
あかるく死へとちかづいている
桃のいりぐちをよむ仙人がいたが
ひかりと腐れのむつみぬれあう
いれものの肉こそめいだいで
がらすはこのあつみをもたない
ゆきのまいしきるうちらでは
ゆきのつらなりもこわれていて
がらすごしががらすをけしてゆく
入口めいたこころがおそろしい
 
これでまた100篇となったが、祝言へのながれという問題がまだ解決していない。どうするか。とりあえず詩集ぜんたいの目次をつくるうち、創作順の厳密をこわすことになるが、終わりのほうの詩篇のならびを入れ替えればいい、と気づく。じつは「祝言ちかくの余韻」を意図せずもってしまった詩篇がすでにあった。それらをいかし、結果的に終わり五篇のならびを、「椀物」「舌」「無内容」「遠浅」「乾杯」へと組み替えた。
 
詩篇群が満尾する手前、のこりわずかな詩篇をつくっているときの感慨はたしかに幸福だ。詩集設計がほぼなっているので、着々と満了に近づいて時空の眺望に飛躍が起こる。このときたとえば詩集前半の語彙の帰還といった、メインテーマ回帰のようなものまで出来してくる。なにか自分の身体が時空にうるおい、別物になってゆくような消滅の予感につつまれる。
 
あたまの痛いことがある。詩集が短詩100篇をおさめるとして、これを両起こしで収録したとすると目詰まり感がつよすぎる。横位置に頁をあわせる、高塚謙太郎さん『ハポン絹莢』のような体裁もかんがえ、左右それぞれの頁に一篇が余白たっぷりにおさまってはどうかと目算してみたが、どうもちがう気がする。読者が頁をめくることにより、詩篇が更新されなければならない。短詩篇をあつめた点で範例となるのは、江代充さん『昇天 貝殻敷』のような組みかたなのだった。
 
左頁が白となっても詩篇の見開き起こしを遵守する。となると短詩100篇を収めた詩集は総計200頁を超えることになってしまう。これでは製作費がかさみ、著者の自己負担もふえる。頁数に関係なく自己負担が低額で一定なのは思潮社オンデマンドくらいだが、そろそろあの刊行形式にも飽きがきている。字数のすくなさを勘案して自己負担額を軽減してくれる、詩歌専門、瀟洒な詩集をつくれる版元がないか。目下の悩みとはそこなのだった。
 
新詩集用の詩稿は、完成の昂奮がおちつく来週あたりにまた読み直して、出来を確認する。あとは、頼りにしたい版元に刊行のアプローチをしてみるつもりだ。ともあれこれでまた詩作の空白期が再開する。かわりになにかまとまりのある論考を、単行本用に書いてゆかなければならない使命がある。
 
 

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2016年03月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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