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トッド・ヘインズ、キャロル ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

トッド・ヘインズ、キャロルのページです。

トッド・ヘインズ、キャロル

 
 
【トッド・ヘインズ監督『キャロル』】
 
トッド・ヘインズ監督『キャロル』は、レスビアン心理劇を、まなざしという道具をもちい、ゴージャス、エレンガントに描いていた。叙法は「ある時点での対峙」からふたりの女が最初に出会うクリスマス・シーズンの、デパートのおもちゃ売り場のシーンへ遡行、やがてホテルのレストランを舞台とした前述・冒頭の「ある時点」へもどってゆき、さらにその後のふたりの帰趨も描かれてゆく…という、いわば「9の字曲線」をかたどる。
 
アイゼンハワー大統領の就任という話題がもちだされ、主舞台となるニューヨークが50年代前半と判明する。じっさいニューヨークはアメリカ内の唯一のヨーロッパだが、第二次大戦でハワイ以外は戦地とならず、戦争を勝ち抜いたことで、ヨーロッパ全体を出し抜いた戦勝国アメリカの、ヨーロッパを踏み台とした繁栄がとりわけ体現されている。
 
そのニューヨークでエレガントな富裕層の女は、大量消費の匂いをきらい、ヨーロッパ的な美徳を揺曳させる。それがアメリカ50年代の実相だろう。作品は終盤ちかくになって、同性愛カップルのうち年下のピースとなる「テレーズ」の、パーティ後の煉獄体験をわずかながらにとらえる。そこでアメリカ60年代の頽廃的・平俗的・キッチュなスノビズムの「萌芽」がひろがるから、作品の用意する対立軸は「貧富」「年長年下」のみならず、「50年代的なもの・60年代的なもの」の対があるとも理解される。
 
50年代ニューヨークの描写は絶品だ。往年のニューヨークと街並みが似ている現在のシンシナティがロケ地に使用され、それにたぶんCGによる加算と消去が施されている。50年代のクラシックカーが路上をとおり、50年代のアメリカン・プラクティカル、アメリカン・ゴージャスな紳士淑女が画面をよぎり…映画はある種の時代劇、コスチュームプレイ特有の閉域を全体化する。
 
このとき閉塞を打ち破るものがある。それが「まなざし」だ。時代色によりノスタルジーを築きあげる作品の視界のなかで、えがかれている視線だけがいまもふるびていない。これが作品の最大メッセージだろう。矛盾した言い回しになるが、「固定した」視線が「動態的に」とらえられる、このことによって視線がふるびないのだ。
 
デパートのおもちゃ売り場に毛皮のロングコートで現れた「キャロル」=ケイト・ブランシェットは往年のジーナ・ローランズをおもわせる獰猛なエレガンスに包まれている。「ある全体性」をもっていることは確かだが、瞳の開口部はすでに存在の亀裂をしめし、洞察力いがいに、不幸や瞋恚を湛えている気配もある。「ある全体性」とは、「タイプ」そのもののまとまりのことだ。同性愛では、タイプがタイプを選択する、効率性にとんだ交流法則がある。変更がきかない。運命的なものだ。「キャロル」=ケイト・ブランシェットの「タイプ」は、「テレーズ」=ルーニー・マーラの「タイプ」により、過たず選択された。逆もまた真だった。「タイプそのものが惹かれあう」ときの恋愛美学は、ふかい人生体験のなかでの「うすさ」への希求を表現しているはずだ。
 
ニューヨーク郊外の豪邸に住む裕福な家庭婦人「キャロル」ケイト・ブランシェットの、威厳のあるうつくしい外観については観客も予想済だろう。たいする写真家志望で、ステディとの結婚に踏み切れないでいる若い「テレーズ」ルーニー・マーラのまなざしにまずは心底驚愕した。彼女は異なるふたつの感情をひとつの顔にゆらめかせる見事な女優技量をもつのだが、まなざしについての真理をも繊細につたえてくる才能だった。
 
まなざしは相手の属性をかすめとるのではなく、相手に巻き込まれる自分の運命こそをうけとる。だから欲望を秘めてはいても、自己にたいしてもともと謙虚だといえる。みつめることのなかに、みつめられる期待があるとつづったのがベンヤミンだった。そうした瞳の二重性を、まなざしが微分するわずかな差延により観客に刻印してくるのがルーニー・マーラだ。そのルーニーの視線がケイトの魅力をまず射止め、運命によって停止しているルーニーの視線に、ケイトの視線が気づく。視線がサスペンスフルに交錯する。わくわくした。視線を自己装填することで「女になる」、その昂奮にみちびかれる。
 
誇り高いケイトの視線の質にたいしては大方の観客は類型をもたないだろう。ところがルーニーの外延と内包を交錯させる視線の質には見覚えがあるはずだ。少女の視線の理想だからだ。視を先鋭化・成熟化させてゆくうちに、翳りとパッションをおびてゆく共苦のひとみ。やさしさではない。そのひとみは残酷さに翻弄されているのだった。ルーニーの視線に表現性のある点は、作中、ルーニーの撮った写真をつうじさまざまに付帯的にしめされてゆく。彼女の写真は50年代調アメリカの最も素晴らしいものと溶け合っていた。そのなかで彼女が撮った一連のキャロルの写真が、対象への距離のちかさによって、極上の自然さをかちとっていた。
 
話をもどそう。デパート売り場では最初、ケイト・ブランシェットは愛娘用の人形を、売り子のルーニー・マーラに所望するが、あいにく品切れで、そのときケイトはルーニーの売り子の身分を越えた深域にむけ質問を発する。あなたは幼年時代、クリスマス・プレゼントに何をもらって幸せになったのか、と。ルーニーは、「鉄道模型」とこたえる。少年の符牒。そのとおりにケイトは娘へのクリスマス・プレゼントを選びなおし、売り場から消える。しかも手袋をルーニーの眼前に「忘れてみせる」。これを罠、あるいはラカン=ジジェクのいう「しみ」といってもいいだろう。
 
売り場のルーニーからケイトの自宅への手袋の郵送、お礼の食事、という自然のながれで、ふたりの恋が発芽してゆくが、そのような進展の物語と調和をなすのは、ケイトの家庭における不幸の昂進、いわば逆進展の力線だった。妻を社会にむけての「飾り」としかみなさない、開明性のみならず意志力もやさしさもない凡庸な夫は、暗示的ながら妻の同性愛の性向を口実に、離婚をまえにして娘の親権独占を、母親の指示もあって主張しだす。優雅な女、「キャロル」に隠されていたのは典型的な不幸の様相だった。その不幸に「テレーズ」ルーニーが同調し、一種の犠牲的な踏み台、架け橋として自己組織をおこなうことで、キャロルとテレーズは、施主・被施主から、いわば双対の関係になったのだった。それは性質がちがえど美をふたりがわかちもつ点にも後押しされている。テレーズの美は野暮ったさのひるがえりとして当初は現象しているが。
 
最初の食事のとき、キャロルがテレーズの姓名ぜんたいを訊き、そこから出自の由来を訊ねたディテール。「テレサ(アメリカの俗なひびきをもつ)ではなくてテレーズ」というファーストネームは、テレーズの東欧の出自に淵源していた。『嘆きのテレーズ』をもちだすまでもなくテレーズは運命的、ヨーロッパ的なファーストネームで、エレガンスがヨーロッパの範型へゆきとどくキャロルは、「ロ・リー・タ」の名を舌と上あごにころがすハンバート・ハンバートのように、その呼び名を口腔に増幅させる。
 
気づけば作品は、まなざしに代表される視世界のエレガンスとともに、聴世界のエレガンスとも連絡していた。キャロル=ケイト・ブランシェットとテレーズ=ルーニー・マーラの声音と口跡の偏差は、そのものがそのままに音楽的だった。ルックスではなく、音楽性こそが「天から降りてくる」。「あなた、天から投げ落とされてきたようなひと」という感極まる述懐は、キャロルからテレーズにむけ二度だされる。一度目は最初の会食のシーンで。二度目は、キャロルの離婚にむけた家裁の空白期、キャロルとテレーズとが宛のない自動車旅行をし、その旅先のホテルでついにからだの交渉となったとき、露呈されたテレーズのうつくしい乳房にむけて出される。「天からの降臨」という判定は絶対的かつ運命的なものだ。その讃辞を惜しげもなく吐露するときの不吉さ。泣けてしまった。
 
むろんニューヨークから西部へむかいつつ、やがて頓挫してしまうふたりの自動車旅行は、アメリカ開拓者の足跡の中断だった。やがてその軌跡は、ドアーズ「ジ・エンド」中の「ブルー・バス」が虚無の方向性として逆説的に定位することになるだろう。それと音声に基盤をもった「天上からの降臨」という恩寵は、音声そのものからしっぺ返しをくらうことにもなる。卑劣な小道具としてテープレコーダー、オープンリールが顔をのぞかせることになるのだった。
 
近年話題になったレスビアン映画としては、アブデラティフ・ケシシュ監督のフランス映画『アデル、ブルーは熱い色』があるが、心情がことばと愛し合う身体で果敢に語りつくされる『アデル』にたいし、『キャロル』は発語のすべてに暗示と抑制をふくみ、映画そのものの叙法がずいぶんと大人っぽい。発語的な抑制は、テレーズにかんしては性格のつつましさ・敬虔さから招来されているだろうが、キャロルにかんしては精神性からもたらされている。最後の家裁の場面で、夫や相手側の弁護士に、キャロルが啖呵を切る場面がある。そこでは共同親権の主張をかなぐり捨て、キャロルは自分の性向をみとめ、娘への限定的な謁見権利だけを要求するようになる。このときの性向のみとめかたに、発語のうつくしい寸止めがあった。このキャロルの発語の質は、のち、急速に自分と距離を置きだしたテレーズへのメッセージのみじかいが美しい文言のなかにも反映されるようになる。自らの美にたいして傲岸とみえたキャロルが慎ましさを基盤にしていたとわかるこれらの点にも泣けてきてしまった。人生の質感にとどいているためだ。
 
発語において寡黙であることが、映画の視世界がこまかい差延に富んでいることと拮抗する。適合しない適合の対が映画の奥行をひらくのだ。物語の帰趨そのものについてはここでは言及をつつしむ。けれども最後、まなざしの切り返しだけの無言によって描かれるラストシーンの劇的な例外性、そのしずかにみたされる衝撃性だけは強調しておこう。「みつめることの期待」と「みつめられることの期待」、その邂逅はベンヤミンによればひとつの瞳のなかで交錯するものだったはずなのだが、ここでは微妙に時空をたがえたふたつの瞳――つまり映画の詐術性が露呈する「傷口」でそれがなされるのだった。メロドラマが音楽性であると同時に、偏差であることを、感動のなかで痛感した。見逃しているトッド・ヘインズ監督の『エデンより彼方に』、観なくては。

原作はパトリシア・ハイスミス。サスペンス小説で知られる彼女が、別名で書いた先駆的な同性愛小説だが、貧困層の富裕層への同化という点で、『太陽がいっぱい』と構造に同一性がある。
 
――三月九日、札幌シアターキノにて鑑賞。平日午前の上映開始時間だったのに、中年以上の女性客でほぼ満席だった。
 
 

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2016年03月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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