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雑感・3月11日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

雑感・3月11日のページです。

雑感・3月11日

 
 
【雑感・3月11日】
 
「わたし」という把握の根本はちがうのではないか。「わたし」を前提に対象が感覚されるのではなく、対象を感覚した直後に、「わたし」が遅れ、あいまいなあつみとして逆照射されるだけだ。恋に似ている。そこに、なにごとかの鼓動めいた生物実感があるにしても、とりわけそれを再帰的に追究することなどできない。なにしろ「わたし」はことばではなく、ことばとまみれあった領域にしろもともと領域ではないのだから。
 
ふたつまえのポストに書いた。詩集を構想する過程で、ワードに貼りつけた既成詩篇をいくども読みなおし、そこに手を入れたり、割愛にふみきったりすると。こうした作業が自家中毒におちいらない要件とはなんなのだろうか。そこにたぶん、詩の発生の奥義や要諦がしめされている。
 
記憶力がわるいので、書いた詩篇などいったんはわすれてしまう。ところがそれぞれを再読すると、詩発想のもとになった実体的な日常や体験、思考がそのたびごとにうっすらとよみがえる。ところがそれは「わたし」への再逢着ではない。なにかそこに、「わたし」「以外」が書いてしまった逸脱(それは文法的逸脱や、つかっていなかった語彙により特化される)もしずかに貫通していないと承知がならないのだった。「わたし」以外のこの存在をつきつめると、あたまのおかしい、ほんとうの匿名ということになるだろうか。
 
自己の他者化・離人化といった、とおりの良い論理の都合をいうのではない。時間と空間の幅のなかでゆらぐ「わたし」は、それじたいが「くずれ」「ほころび」「敗走」「瀕死」といった負のうごきなのではないだろうか。それが感覚になかだちされた対象までをゆるやかにこわしてゆく――たぶんこのうごきの写しに、すでにままならない詩が発生している。
 
書かれたものは「わたし」と無縁ではないが、構造的に「わたし」と同致できない。詩は媒介性の無慈悲・不用意な侵入であって、この媒介性がひかりにこそ似てくるとき、詩の有限性が「有限状態の並立によって」、無限だという了解もえられてくる。詩の権能はこうしてすくなめにたもたれる。
 
むかしミクシィ全盛のころ、よくやりとりした詩友がいた。かれは自分の詩集のゲラを校正すると疲労困憊におちいる、といい、それは書きかたに無理があるためではないか、と応答した。これをつきつめると、詩篇は他人事の位置にいるやがての「わたし」の再読にたいし、向かいをやわらげる、なにごとかの馴化をふくみ、それが野心の抹消と相即する多元性をあらかじめもっているべきだ――そんな見解にもなる。未来の、わずかであれ衰えのましたみずからにやさしくあること。
 
この必要を世上では音韻的推敲や脱論理化などと要約するのだろうが、詩が詩であるためには、「やわらかさ」のみならず、「くずれ」なども湛えられるべきなのではないか。「減喩」をべつに規定するなら、そうなる。「くずれ」がスローモーションをかたどって詩篇を生き生きとさせ、しかも破局が最終顕在しない「手前そのもの」が、すきまの稠密さによって現れているのが良い。こういうものこそ、詩であると同時に、「時間」「空間」でもあるのだから。この感覚をゆらしていると、「わたし」以外への逸脱が起こる。
 
「わたし」は書く。ところが「書くわたし」に自明性の前提などない。そういえばこんど出る『詩と減喩』の一節に、カフカと石原吉郎をもじった、こんな箴言も書いていた。《わたしは身体だ――けれど〈この〉身体はわたしではない》。これは変奏も効く。《わたしは追悼だ――けれど〈この〉追悼はわたしではない》。
 
 

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2016年03月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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