近況・3月12日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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近況・3月12日

 
 
【近況・3月12日】
 
本日の北海道新聞夕刊にぼくの連載「サブカルの海泳ぐ」が掲載されます。今回串刺ししたのは、大森靖子+最果タヒ『かけがえのないマグマ』(毎日新聞出版)、三村京子『いまのブルース』(kiti)、それにETVで2月18日に放送された『岩井俊二のMOVIEラボ』中の1分スマホ映画『私は明日から恋をする』(井口崇監督)です。
 
『かけがえのないマグマ』は大森靖子の一人称語りおろしの体裁ですが、聞き書きを最果タヒがやっています。つまり最果さんの質問が消えて、大森さんの解答が連続している。そのなかで大森靖子の自己形成期と音楽活動が、赤裸々というしかない様相で語りつくされ、このときの「口語表現」に現在形の感情があふれかえっている。といえば最果さんの詩集『死んでしまう系のぼくらに』と内容に類縁性があるとわかるとおもいます。
 
三村さんの去年暮に出た新譜『いまのブルース』は愛聴盤のひとつになっています。曲がシンプルでうつくしい。彼女の学生時代、ぼくが最初に出会ったときはラグタイムブルースの華麗果敢な奏法に驚愕したものですが、このアルバムではアメリカンルーツミュージックからの影響を断ち切っています。アコギの弦の数本をゆるやかにはじきながら、おおらかに歌声を載せてゆく方向に舵を切っていて、そこにインディ系音楽の現在を感じます。「等身大」「身体性のひびき」ということです。
 
ぼくの作詞協力がなくなってから歌詞のありかたについていろいろと思索をふかめたようで、そのなかで三村さんに発芽してきているひとつが、「みんな」の「連帯」というテーマかもしれません。「すくなさ」の詩法で余韻をもつ――しかも可聴性を重視した歌詞が多いのですが、三村さんの魅力は逆説的にきこえようとも不安定さにあります。連帯を唄っても、歌詞の最初につくりあげた定着が、終局にむかってくずれてゆく。一貫性ではなく、唄われているその瞬間が目指されているともいえます。その機微がアルバムを聴きふかめるにつれわかってきた。
 
アルバムの「音」は基本的に彼女のアコギのみですが、ごくまれにほかの音、ほかのミュージシャンの音がたったひとつだけ寄り添うことがあります。これがフックとなり驚愕となる。アルバム全体は音響系として見事に設計されています。それでも清澄感のみの冷ややかさとはちがう。
 
井口崇の1分スマホ映画は細かいカットをつなぎ、女子の日常を追った一作で、神業といえるほどの瑞々しさがありました。音のズリ下げが、ケータイの会話などで多元的にもちいられています。1分映画というジャンルはあるのですが、ヒロインのすばらしさにより異様に感動してとりあげました。ひとつひとつの構図が神域にありました。そのなかでいつもヒロインの視線が「ごくみじかく」定着される。
 
コンテンツ産業のつくりだす「ガーリー」は、範例をつくって、その鋳型にガールズを嵌めようとする権威的な使嗾になっています。ところが大森靖子のガーリーは地上に多様に存在しているガールズのドキュメンタルな採取と共感だし、三村京子のガーリーはその不安定さによって鋳型を形成しない。井口崇の1分スマホ映画のガーリーは、ひとりの女子から多元的な時空が現れることでこれまた「鋳型としてのガーリー」を否定している。
 
コラムでは和泉式部《物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる》を引きました。この蛍は無限多数でしょう。オブスキュアなゆらめきが無名のままに自分のまなかいの下方にあふれていて、それらすべてが自分自身に淵源しているという見立て。さらに淵源の意識により、自己身体に稀薄化のよろこびがきらめく。この蛍=魂こそが、資本が定位できないガーリーなのではないでしょうか。
 
以上、コラムに書かなかったことを中心に補足をおこないました。本論についてはぜひとも本日の道新夕刊で。
 
あ、本日から女房が来札。ポスト、しばらく休みます。
 
 

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2016年03月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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