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第3回北海道横超忌 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

第3回北海道横超忌のページです。

第3回北海道横超忌

 
 
【第3回北海道横超忌】
 
昨日3月19日の北海道横超忌の会合は、北川透さんの講演にしても、そのあとのふたつの懇親会にしても、とてもおもしろかった。
 
北川さんは吉本『言語美』の「自己表出」「指示表出」を、「価値表出」「意味表出」と読み替えた。この「価値」「意味」は、純粋思弁一辺倒だった哲学に「価値」「意味」をニーチェが組み入れたとするドゥルーズの見解を出発点としていて、北川さんはニーチェ、ドゥルーズ、それにフーコーをくわえた系譜学者たちのしめす「力への意志」が吉本にあったかを再考する。
 
ぼくじしんは「う」ひとつの音素のみで古代の海を現出させた吉本の自己表出論がそのままに詩作者的な「力への意志」だとおもうが、狷介な北川さんはそういった「起源」を信じない。ぼくも講演会場で質問したのだが、音素はひとつでは表現衝動直前の沈黙をゆたかにしないだろうとおもう。もんだいは構文にならない数音の音素連関のほうだ。それこそが口腔と舌に悦びをもたらす運動感覚の初源なのではないか。
 
北川さんの考察は『言語美』にむけられていて、のちの吉本『母型論』などは対象外になっていたが、泣く、呼吸する、母乳を吸う、喃語するなど赤児のエロチックで自己表出的な口唇口腔運動が、発語そのものの前駆になっているはずだ。こういった認識こそが吉本のいう「自然」だとおもう。仏教の「自然(じねん)」、とりわけ親鸞のいう「自力」が――つまりオートマティスム=「おのずからそうなる」が、「自己表出」中の「自己」の語にこめられている。そうした前提を定位して「他力」―「横超」をかんがえるべきだろう。このことで力は自己にたいしても外界にたいしても段階的決定になる。
 
北川さんの講演前半で吉本と学生運動渦中の北川さんがどう出会ったのかが語られたが、とりわけ強調されたひとつが、「大衆」としての吉本の原像だった。吉本とドゥルーズの共振はこの把握によって起こる。『千のプラトー』で爆発したドゥルーズ的な生成変化は、女になること、動物になること、遊牧民になることなど、すべて「マイナーになること」の圏域を旋回していて、これが吉本『最後の親鸞』の往相・還相と反響する。知をきわめたのち下降をえがきながら非知へとついにたどりつく親鸞の生の理想は、マイナーになろうとする「力への意志」そのものではないか。このマイナーと大衆に径庭がない(これがネグリのいうマルチテュードともつながる)。晩年の吉本は「老人になること」で還相を果敢に生きた感触がある。
 
「価値表出」「意味表出」に「力への意志」をくわえたニーチェ、フーコー、ドゥルーズのトリアーデ的な生の布置にたいし、『言語美』段階の吉本には一項を欠いた「自己表出」「指示表出」の対概念しかなかったというのが北川さんの総括だったが、吉本は内在的・予感的に「力への意志」の方向を織りあげていたのではないか。その「力」が、還相など、一見、通常の「力」とはちがってとらえられるとしても。
 
北川さんのとりわけ優秀なところは、「自己表出」―「価値表出」の力線そのものに「時間」がかかわっているとした点だろう。北川さんは起源論につき懐疑的だとしるした。ところが時間は切片ごとに「はじまり」を充填させている。その「はじまり」に、あらゆるものの表出がまつわるということだ。だから表出史が発現するまえに、時間そのものの厚みが潜勢態=可能態として意識されることになる。この「時間」と不即不離となって、個々の表出が開始されるのだろう。この時間把握はベンヤミンにちかい。
 
北川さんはかつて《真の伝統とは、過去から現在をつらぬいている価値ではなく、未来から現在へ、そして過去へとつらぬいている価値でなければならない》という鮎川信夫のことばを真摯に考察した。「力」をもって未来を意志すれば、それが過去=劫初への遡行を付帯させてしまう。ニーチェの「永劫回帰」の直観はそこにゆきとどいているはずだし、差異をふくむ反復こそがおなじものの反復の本来だとするドゥルーズの『差異と反復』も永劫回帰にさらなる「力」をあたえるものだろう。なぜ発語はあたらしくなろうとすると、混沌を招きよせながら、それじたいの様相が恐怖をあたえるほどに「ふるくなる」のか。とりわけ詩作の場合。
 
むろんちがう視座もひつようだとおもう。ニーチェの「権力への意志」は現在、「力への意志」という訳語に馴化されている。ただしぼくはかつて、ジョン・レノンの「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を「人びとに力を」ではなくやはり「人民に権力を」と訳すべきではないかとおもったことがある。フーコー、やがてはアガンベンが「死の権力」から「生権力」へとうごくパワーのシフト移行を分析した。ところがそこではパワーそのもののもつ外延性がただ内包性へと縮減してしまう不如意があらわれているのではないか。
 
ここでもあたらしい力のかたちを、ふるさからたぐりよせたドゥルーズが先駆的だった。たとえばチンギス・ハンの版図拡大では、力の外延志向がそのまま内包化までもたらす、平滑空間の特異性がかたられている。しかもその特異な空間のほうが普遍なのだ。この外延・内包の同時性はドゥルーズ的な「マイナーになること」、たとえば「女になること」「動物になること」などすべてに適用できるだろう。
 

 
北海道に詩壇というものがあるとして、それの良いところは、それぞれの詩、詩論がじっさいに「読まれて」、点在的な平滑空間のネットワークがひろがっている点だろうか。点在をむすぶ線ではなく(条理空間)、無方向な諸線のあいだに点在があるという、可能的な空間。昨日は工藤正廣先生、田中綾先生、小杉元一さん、海東セラさんといった旧知の面々にくわえ、眷恋のひと金石稔さんとついに出会うことができたし、長屋のり子さんという年長者の愉快さにもこころがうれしくゆれた。
 
平滑空間のつねとして、とうぜん可能的な不在者が話題になる。たとえば函館の木田澄子さんの才能の特異さ。それに肉薄しようとしたぼくの論が、ネットを使用できない老齢者たちにも打ち出しコピーの郵送によって幅広く流通しているのに驚いた。セラさんの暗躍による。長屋さんが自分のことのように、ぼくの木田論をよろこぶ。
 
金石さんがぼくの詩のひらがなづかいを絶賛してくれたのがうれしかった。その金石さんとぼくは「おカネもうけ」の秘策を謀りあったが、内容は秘密。それと、関西の倉橋健一さんがいらしていて、たのしい会話をかわしたのも光栄だった。
 
 

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2016年03月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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