島影
【島影】
八丈島の清水あすかさんから個人誌「空〔から〕の広場」がとどく。掲載されている「あらわれる緑。」という詩篇がとてもよい。というか、清水さんはいつも良い詩篇しか書かない。
最近の「空の広場」は一篇しか載せていないので、全篇引用すると元も子もなくなる。それで書き出し、第一聯四行のみを転記しておく。
次にはまちがえず椎の木の一本になる。
目に入りきれずこぼれる色の数になる。
言わない声は石になり、やればよかったことを土にする。
なに一つを拾い残さず、見ているこの風景にする。
萌えはじめた新緑をまえにしての、からだのふるえのようなものがつたわってくる。まだはだら雪と枯れ木しかみえない札幌在住者にはうらやましいかぎりだ。
さて、「いつも良い詩篇しか書かない」ひとには、どんな条件があるのだろうか。
1) 語調がそのひとのみのワン&オンリー。だから身体の所在が一定している。
2) それでもそのことが反復を意識させない。なぜなら連辞に、書く事前から書いた事後への作用がくっきりまちまちに息づいているから。ようは展開の創意だ。
3) 「それ以外」を書かなかった慎み深い留保も詩篇のそこここにある。これが平面としていったんは顕現する詩を、この世の容積へまでつなげてゆく。
4) 詩そのものがその詩作者が在世していることの祝福になっている。それはとらえかえせば、その詩を読んだ者への祝福をも反射している。これこそが詩の互酬の正体だろう。
5) 詩は発語でしかないが、それでもそこに「性格」が関与している。この「性格」が詩作の一定性をつくりなす法則は峻厳だが、だれもが孤島のようにそうして海原に島影をあらわしているだけだ。
逆にいうと、いつも詩を、あるいは詩の方法を〈発案〉してしまうと、詩作は一回ごとの射幸的な賭けになってしまう。たしかに詩作の刻々では疲弊が襲うものだが、それを自分自身に柔和化させ無化しないと、神経的な痕跡が詩の世界現出よりもさきに読まれることになる。こういうひとの詩作には、おだやかな一定性などとてもかんがえられないだろう。