詩の暗数
【詩の暗数】
「現代詩手帖」4月号の詩書月評で扱ったのは以下の詩集でした。
・吉﨑光一『草の仲間』
・平野晴子『黎明のバケツ』
・沢田敏子『からだかなしむひと』
・筏丸けいこ『モリネズミ』
・平井弘之『浮間が原の桜草と曖昧な四』
「現代詩手帖」的にいうと、有名性のあるのは筏丸さんくらいではないか。ぼく自身も筏丸さん以外読むのが初めてというひとたちでした。それぞれの詩作者の生年・出身地を原稿内にしるしましたが、みな初老以上という世代に属しています。版元も、ひとつも思潮社ではない。
毎月毎月おそらくぼくの家は、あたらしい詩書の集積地という点では、日本国内で随一をあらそう場所になります。予想されるように年長、一般には知られていない「地方詩人」の作品の割合がたかくなるのですが、大方は、自分の経験・感慨等がただ改行形でしるされていたり、詩観が旧弊で素朴だったり、という退屈な域にとどまっています。ところがなかに、書き方が峻厳だったり大胆だったり、省略や少なさ、中心性からのズレが戦略的だったりというゾクッとするような名手もまざりこんでいます。
そうした未知の名手、才能の幅広い分布にたいし畏怖をおぼえる。「詩の暗数」という概念・感覚がここでもたげてきます。それはひとまず空間的なのですが、第二義的には時間的なのです。実数のすきまに、あるいはその向こうに潜在する、みえない数。認知不可能な奥行。となると原理的に「詩の暗数」とは「詩の潜勢」そのものというべきなのではないか。老齢者によることが多いとはいえ、そういう領域がたしかに形成されている/いた。もちろん「論理的に」、「詩の潜勢」域である以上、その場所が詩の今後をほんとうにつくりだす。ただしこの奥行を強調しすぎると詩壇ジャーナリズムと対立的になってしまう。月評の書き方では、この点に注意するひつようがあるようです。
潜勢域というかんがえは、往年の毛沢東の革命路線とリンクせざるをえない。例の、革命は地方=農村から起こる、それが都市を包囲する、とした見解です。むろん多くの革命は都市を出火点としてそれが空間的につながってゆく。燎原の火。あるいはひとつの川筋が暴動域として電荷をおびるなどする。
もちろん現在の日本で地方は、疲弊化・破産化・過疎化・限界集落化・シャッターモール化などに浸食され、空間的暗数ではあっても、詩の潜勢などたたえていない。ただし老齢者には暗数状態がのこっている。それで詩の潜勢が時間性としてとらえられることになる。むろんこの時間は限定的だから、いずれは地方から中央への転覆の可能性がすべて途絶してしまうにちがいない。畏怖の念は、ほんとうはこの認識から生ずるのかもしれません。
「ないもの」(地方)が「浮薄なもの」(都市)に起こす転覆。この想像の図式はたしかに空転をかたどるが、空転そのものが「運動性の転覆」の域へも回収されてゆく。ユーラシア大陸の最深部から力が外延的に拡大しながら、モンゴル人たちの占拠は、すべて行く先々で同化した。かれらは占拠しながら、なにも支配しなかった。つまり外延志向と内包志向の弁別不能、それだけを崇高に現象させたのです。これを「ないもの」による転覆にも適用できるのか。できるとすれば、内包と外延が通底したように、一数と複数とが通底することが前提される。しかもその一数が破局的であることが。
まあ、以上がぼくの書いた原稿の暗流にあったはずの副筋です。とりあえずは本論を読んでいただけたら。畏怖すべき名手をとりあげたことはただちにおわかりになるとおもいます。五人の詩作者をつなぐ概念としては「浄化」、ならびに「可食物の出現」をもちいました。