雑感3月30日 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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雑感3月30日

 
 
【雑感3月30日】
 
遊牧民的な感性があるとして、その感性のなかで「数」はどう処理されているだろうか。たとえば「味方」はかぞえられる。員数がいくつで、それらの個性がどう分布しているのかは遊牧民たちの意識にみな点灯されているだろう。「敵」はどうか。それらは地平のむこうから現れてくるかもしれない暗数だが、現実的な遊牧民の感覚では、暗数もまた、「かぞえられない」が、なおかつ「実数」であるものとしてとらえられている。 
 
遊牧民たちは「かぞえられない数」がやがて出現してくるとはおもわなかったかもしれない。すなわち数が数そのものへと再帰的におれまがり、数である痕跡をみずから抹消してしまう、うごきや実在ですらないものを想到だにしなかったのではないか。そうした数の不能性が、「みずからのみを不当に運営する者」とよばれる。「こちら」に関わらない徴候や影。

たとえば詩でいえば、「他人のためにではなく、自分のためのみに書き、ひたすら他人の承認を待つ者」がそれにあたるが、こうしたひとたちのもとめる承認は、よくかんがえれば他人からのものではなく、自分からのものであって、この閉じた再帰性こそが、数にあるはずの現実的な外在性を破砕するのだ。
 
じつは、遊牧民ということばはネット市民を部分的に指している。同時に、味方/敵の弁別も、非対称性の観点へと昇華される。たとえば、「自分の書いた詩をネット的な挨拶をともなって評価しない他人」と「他人の書いた詩をネット的な挨拶をともない評価する自分」、それらのあいだの、敵/味方関係に似た非対称性。ところがこうした非対称性は、やがての対称性、やがての合致(相互評価)にむけられた可能性であって、この非対称性に憤懣をおぼえると、ネットでの振舞がなにひとつ不可能になる。自分自身との非対称性をえがく相手など、とりあえず「かぞえられない」と総括すればそれで済む。
 
こうしたことどもを前提に、ネットでおそろしいのはじつは「同意」のほうなのだった。相手が詩を書く。ときたま「だけ」その出来に同意する(ふだん良い詩が書かれていないためだ)。ところが相手はつねにその場での評価を出し惜しみ(たとえば書かれている詩篇が縦書きでないなどの理由で)、対称的な相互性の場へは参与してこない。このとき相手への賛辞の贈与そのものが、相手の硬直・不寛容・瞬間判断回避にたいする攻撃になってしまうのだ。「わたしの寛容はあなたの非寛容のようではない」、これが最後まで濾過された段階でのメッセージ内容となるだろう。
 
同意のほうがむしろ攻撃となってしまう逆転は、遊牧民の世界ではかんがえられない。遊牧民たちは同意を同意する。ならば現在的な価値錯綜の理由はなにか。「本質的にかぞえられないもの」を「かぞえた」逆転そのものが、じっさいあたらしい数となってしまう踏み外しがここにあるのではないか。この踏み外しが遊牧民たちの歩幅や乗馬にはもともと存在していない。自分と非対称の位置にある者を敵ではないとする寛容は、もう対称性のつくりだす座標空間そのものすら外れていて、この位相ぜんたいにひかりがあふれている。
 
 

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2016年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

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2016年03月31日 編集












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