リップヴァンウィンクルの花嫁 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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リップヴァンウィンクルの花嫁

 
 
【岩井俊二脚本・監督・編集『リップヴァンウィンクルの花嫁』】
 
抒情的な映像美が強調される岩井俊二だが、もちろん彼の脚本作成能力が図抜けている点も、ファンには周知されているだろう。たとえばことなる場所・時間にまたがって同一性がふくざつにからみあうかつての『Love Letter』の物語を、「語り口」そのもので観客に自然に納得させてしまったとき、そこには魔術に似たものをかんじるべきなのだ。ある原理がある。つまり岩井俊二がおこなうのは、分離を融合したのちのズレの拡張により、世界の視角をさらにひらくことだ。もし彼の作品が感涙をみちびくとすれば、それは世界構造に直面した感慨による。そこでは収斂と拡張を分離できず、それこそが世界構造なのだ。
 
拡張とは、まず「判明」の系が徐々にひろがってゆくことだ。収斂とは、それに物語のフックがかかり、全体のなかの一点に注意が集中してゆくことだ。これらが綯い交ぜになる。すると世界は横ズレのうごきをみせながら、ズレたその当面が中心になり、その中心がそれ以前の中心よりも真実味をおびだす。このことに視覚性があたえられていて、べつの言い方をすると、岩井の映画世界では、物語と映像が分離できない。あたりまえのことをしるしているようにみえるかもしれないが、このことを「収斂と拡張が分離できない」二重性によってしめしうるのは、かぎられた映画作家しかいない。
 
『リップヴァンウィンクルの花嫁』もまた、多重性世界の構造について、自然な納得をみちびく語り口がすばらしい。このばあい「多重性の鍵」となるのは、嘘=虚偽の錯綜だ。ネット上の見合いサイトで出会い、すくないオフ会で結婚に踏み切ってしまう男女には体験の短縮という虚偽がある。結婚式へ向かう段になる。結婚式では花嫁側の臨席者に問題が出てくる。まず、両親はすでに離婚しているのに、そうなっていないとする取り繕いがある。臨席してくれる親族の数も満足ではなく、それは特殊業者から、レンタルされてしまう。
 
結婚式用のレンタル親族の情報を花嫁が知ったのは、LINEをおもわせるSNSでの「親族が足りない」という自分のぼやきに、SNS上の友人が反応し、特殊業者の存在を示唆したからだった。この花嫁=ヒロインのSNSでの振舞は観客の共感をよばない。現実の未充足を無防備・不用意に「ぼやく」のが習いになっていて、それでネットで物を買うように夫を手に入れたことまでが無名性の存在、ハンドルネーム「クラムボン」を発信地として吐露される。この意味で花嫁は当初、日常の現れのもとで、それに離反する心情を隠す、「嘘の存在」ということもできる。
 
黒木華演ずるヒロインは、臨時教員で、生徒たちの残酷な、しかしさほど明示的ではない揶揄の対象になっている。うすぼんやりしている。意志表示のやりかたに魅力が乏しく、それが彼女の定位置にふさわしい外見まで伴っている。ところがなにか面倒な事態に直面したときには、もともとの小声は、不用意に不平の文脈をつぶやき、その物理性がゾッとさせる。原理的な驚嘆を亡霊のような共約不能の物理性で漏らすこともある。
 
黒木がすがった親族レンタルなどをする得体のしれない便利屋が綾野剛だった。黒木華のわかりやすい虚偽にたいし、物語をうごかす役割を担った綾野は、多重性がさらにふくざつだ。「市川RAIZO」という俳優名ももつという。黒木が男性他者にとる距離の無防備さが、ものほしげな欲望に起因しているかいないか、黒木の自覚をうながす際には、ビジネスを離れた良心的な人生の助言者のようにもみえる。陰謀家の奥行もある。この点はややこしいので、すこし説明に字数を費やさなければならない。
 
綾野の役割は黒木の結婚式にレンタル親族を差配しただけに終わらなかった。結婚後、無気力のまま平凡な主婦の役割を選択した黒木は、室内に落ちているイヤリングをみつけ、夫が女を連れ込んだ痕跡ととらえてしまう。夫の浮気を疑った黒木は、綾野に調査を依頼する。そのタイミングで、夫が仕事にいって留守のとき、和田聡宏が自宅マンションに訪ねてくる。「あんたの夫に自分の女を寝取られた。あんたの夫は浮気している。それは元・教え子、ふたりが再会したのは去年のいついつの同窓会で、卒業アルバムがあるかい? そうこの女だ」。不用意に和田に入り込まれるままになって、黒木は夫の浮気の具体性を無理やりつかまされることになる。このとき和田の存在と、綾野の浮気調査の関連は、ドラマ上「不自然にも」不問にされている。黒木は疑惑の渦中に、偶然にも真実が飛び込んできたとおもっただろうか。
 
その後――不用意にも和田からの相談をホテルの一室で受ける誘いに乗った黒木。その場で和田は報復を提案する。自分たちもからだを交わせばいい、と。事態進行にたいし恐怖に駆られた黒木はバスルームに行き、ケータイで綾野に助言を乞う。「シャワーを浴びる」などといって時間をかせげ。そのあいだに自分が向かう。このとき、室内の黒木はいくつかの奇妙な固定画角で振舞をとらえられていて、隠しカメラの設置が印象づけられる。
 
黒木がシャワーを浴びているあいだ(不用意にもそれは「振り」ではなく、実際に動作されている)、清掃員姿の綾野が部屋に入ってくると、和田との乱闘ではなく任務継承がおこなわれる。和田が「間がもたなかった、もっと早く来てくれないと」とぼやくと、綾野はご苦労と和田を放免、しかも数か所の隠しカメラを回収していったのだった。その事実を知らず、バスルームにいるところをよばれ、不用意にも裸身にバスローブをまとっただけの黒木は、恫喝して和田を追い払ったという綾野のことばを鵜呑みにしてしまう。
 
法事の席で、夫の母親・原日出子に「両親離婚の事実」「親族レンタルの事実」さらには「和田とホテルの一室にいたときのやりとりの映像・音声の部分」を突き付けられ、黒木はその場から追放されてしまう。酔い寝している夫をよそに、深夜呼びつけられたタクシー。その運転手に原は岩手(黒木の実家所在地)までの大枚のタクシー代を渡して、黒木をなかへ押し込む。黒木はそれにしたがわず、夫とのマンションに戻った。
 
翌朝、夫とのケータイの会話となる。一方的に黒木を叱責する夫に、黒木は夫の浮気をもちだし反論する。けれども相手の名前をいっても夫は知らない。卒業アルバムを出して、当該の相手の写真を探そうとすると、架空の写真が剥がされたのか、当該の場所は男子の写真に「戻って」いる。浮気の事実を和田によって捏造されたとしかおもえない。すべては自分の不用意が呼んだ失態。これで黒木はキャリーバックを滑らせて、泣きながら新婚家庭から出奔するしかなくなる(どこともわからない場所を無意識にさまよう、その「ここはどこ?」と述懐される「場所」がすばらしい――この作品では「判明しないものがうつくしい」という第一法則がまずある)。
 
とつぜん流浪の身となった黒木は、蒲田の安いビジネスホテルに停泊(たぶん原日出子にあたえられたタクシー代が役立った)、やがて連泊のあいだにそのホテルの掃除係という生計手段を得てしまう。その段階で綾野が、浮気調査の結果が出た、と訪ねてくる。綾野の結論も多重性を結果させる。浮気の事実はなかったが、夫が頻繁に夕食を家で食べなかったのは、母親・原がこっそり上京、会食していたためだ。あなたの夫には浮気相手はいないが、ふかいマザーコンプレックスである点が疑われる。和田とのことで逆に浮気事実を捏造されたのは、「別れさせ屋」の仕業で、依頼者も原、あるいは夫ではないか。疑惑の発端となったイヤリングも原か夫が仕掛けた公算がつよい。まんまとあなたは罠にはまったのだ。
 
黒木は納得し、自棄気味の笑いまでうかべてゆくが、観客はそうおもっていない。「別れさせ屋」とはほかならぬ綾野のことで、綾野は多重の依頼をうけ、二重スパイのように夫婦間を行き来したはずなのだ。ところが綾野のしたたかさにすら問題は帰着しない。ネットの見合いサイトをきっかけに夫と結ばれた虚偽から黒木を解放した正義漢のようにも綾野はみえる。「生きにくく」、ときに弱気ながら気味悪い粘着と湿潤を表情に刻む黒木に、無償の愛着をしめしているようにもみえ、綾野はそうした段階を経て、奥深い多重性を発散するようになる。
 
以上、字数を費やして、もうひとりのヒロインともいえるCocco登場まで、作品の前半の物語結節を追っていったが、それらはつねに空間結節の変化と相即している。これが岩井俊二の才能をあかしづける。ヒロイン黒木華の居場所はつねに仮定性に彩られていて、しかもその仮定が「AのなかのB」というトポロジーを色彩づけられる点に注意しなければならない。冒頭が見合いサイトで知ったのちの夫となる存在との、商店街を舞台にした初デート場面だが、相手がどこにいるのかわからず、ケータイで場所確認・存在確認のやりとりがなされる。このときの場所とは「ケータイのなかの実在地」なのだった。
 
以下、現れる空間を順不同になるかもしれないが列挙してみよう。「性悪な生徒の口車に乗って、マイク使用をしいられる黒木の授業の教室」では「生徒の悪意のなかの教室」が、「マイク使用の廉で教員契約の更新がなされなかった相談室」では「絶望的状況に移行する相談室」が、契約更新の打ち切りを寿退社という嘘で取り繕った黒木が餞別として女生徒たちに渡される花束では、「花束のなかのマイク」が現れる。家庭では、「自分のつくった朝食にまったく頓着しない夫によって多重化された朝の食卓・室内」「和田の闖入を受けたマンション室内」が、あるいは法事が終わり、酔い寝する夫のとなりの部屋に呼び出されて原日出子の尋問を受けるその空間で、「仮」であることがそのまま疎外につながってゆく熾烈さが黒木にあたえられ、それが無理やり押し込まれたタクシーの車内へとつながってゆく。
 
岩井俊二がしるしづけるのは、前置詞「in」「to」「beside」「for(代わりの)」などによって補足されることで第一義性をうしない、仮定状態に変化してしまった空間群、その連鎖で、これら空間が物語、あるいは人物の属性の多重化と完璧に相即していることに気づく必要がある。じつはCoccoが出現してくる作品の後半では、これら前置詞のおなじようにくくりつけられた空間が、希望と救済によって語りかえられ、意味変化がみちびかれるのだった。
 
いっぽうパソコンのスカイプ機能をつかい、ひきこもりの中学生女子を遠隔状態で「家庭教師」しているディテールも点綴される。このとき岩井演出はパソコン画面内の相手をとらえることを一切しない。「in front of」を予定された黒木の顔だけが、前置詞のない無媒介性で映し出され、このことで空間は第一義性からの変化を抑えられ、疎外にいたらない。その場所だけが黒木の、仮定ではない場所としてしるしづけられるのだった。
 
物語は、映画が登場人物の「顔の向き」をどう発見・定着してゆくか、その過程とも分離できない。Coccoは獰猛さを印象づける横顔がまず映画的だが、やがてその正面顔を俯瞰で捉えられる。このとき同性愛の予感を散らしながら、Coccoと添い寝する位置にいる黒木華は、天井を向いて「幸せの限界」について語りつづけるCoccoを見ることで、映画的な横顔をあたらえられる。Coccoへの驚愕と同意をクレッシェンドさせてゆき、同性愛的な精神の香気を画面につよめてゆく発信地は、ずっと無言のままでいる黒木の俯瞰された横顔、まさにそのなかの視線なのだが、このときの黒木の演技力は天才的というしかないだろう。表情変化が空間全体に、「ことばにならない意味」の浸潤を付帯させているのだ。
 
そういえば黒木とその見合いサイトで見いだされた夫の結婚式じたいが、多重性をもっていた。まず着ぐるみヒーロー劇というアトラクションの導入があり、いくつかの年齢幅をもつ男女の子役の導入により、両親への新郎新婦のことばは、たくまれた茶番劇となる。その現代的な演出の愚劣さにより結婚式のディテールが多重化されていて、それをまたレンタル親族の統括者かつ親族のひとりとして式場にいる綾野剛がさらに多重化している。「何々の中の何々の中の何々…」という意味の入れ子が結婚式に活用されていた。
 
結婚式でまとった黒木華の花嫁衣裳は「罰せられる」。結婚式直前の控室で、新郎は新婦・黒木華に、SNSでの「クラムボン」の書き込みがあまりに自分たちに符合していることに気付いていて、「このクラムボンはおまえじゃないだろ?」と訊ねていたのだった。花嫁衣裳のなかの黒木華のなかのクラムボンあるいは嘘。この入れ子連鎖によって花嫁衣裳が罰せられる。作品はウェディングドレスそのものを救抜する展開をよびこむことになる。このとき、花嫁衣裳の数が1から2へとダイナミックに昇格し、それを黒木とCoccoという「女どうしが着る」通常性からのズレが生成し、そうした横方向の倍加が、歓喜にみちて赤のレンタカーを運転するCocco、助手席の黒木へのフロントグラス越しの縦構図を得るという、映画的展開をほしいままにしてゆく。岩井俊二の周到なダイナミズム付与は見事なものだ。ここでも収斂と拡張に、弁別がつけられない。
 
蒲田のホテルで清掃係をしているときの休日に、黒木は綾野剛の薦めでアルバイトに駆り出される。任務は勝手知ったるレンタル親族の一員になることだった。このとき姉役のCoccoの奔放な力強さに魅せられる。ところが中心女優のこの接近を演出する岩井の手法はこの段階では、四ツ谷駅前の光景を効率的につかったりするだけでオーソドックスだ。ふたりが駆り出された結婚式での新郎は紀里谷和明がふんしていて、実は妻子あることを秘密にした重婚をおかしている事実が父母役・弟役をふくめたレンタル家族たちだけにつたえられ、それが盛り上がりの動因となった。それでCocco、黒木たちは結婚式での「演技」を終えたのち、二次会にゆく勢いまで得てゆく。
 
四ツ谷駅で方向が別、と父母役、弟役と別れたCocco、黒木は、さらに飲み直す。カラオケのある飲み屋。ここで花束に仕込まれたかつての悪意のマイクは、現下のカラオケに使用されるマイクへといわば変化を遂げる。そうしてひとつの機械的な機能が救済されるのだ。黒木の唄う森田童子、Coccoの唄う荒井由実がとてもいい。役柄が唄っているからだ。退店のさい、持て余し気味にもっていた引き出物の袋をふたりは忘れる。店員が慌ててふたりを追い、引き出物の袋を渡す。場所は渋谷のスクランブル交差点の間近。店員とのやりとりに気をとられた黒木が振り返ったとき、人ごみの奥にCoccoの姿は消えていて、観客は気づくことになるが、これがのちの展開の「予行」なのだった。ともあれ、拡張と収斂の同時性は、時間連関を生き物のように有機化せざるをえない。それで作品の映像は、透明なのに、悲哀にみちた磁気をおびている。
 
Coccoは人ごみの「奥に」きえた。前置詞をつかうと「behind crowd」だ。作品はCoccoのいったんの失踪まで、前置詞類型のうち「behind」を禁欲していたが、このくだりから堰を切ったようにあふれだしてくる。綾野剛が、蒲田のホテルでの掃除係の仕事を強引に黒木に辞めさせ(このとき夫婦同士の演技を綾野が選択し、結婚が笑いのめされることで黒木の結婚の事実がやはり救抜される)、黒木にあらたな生計手段が紹介される。簡単にいうと、かつてレストランに使用されていた巨大豪奢な洋館があり、主の留守居をしながら清掃などして館を守ってほしい、身分はメイドで、報酬は月100万、メイドには先に雇われている者がもうひとりいる――という破格の申し出だった。ここにCoccoの多重の秘密が関わってくるのだが、未見の観客の興味の核心にふれることなので、その後に判明してくる展開については書くのを控える。なお綾野剛は黒幕で、すべてを知っている。
 
この洋館に黒木が入ると、閉じられた部屋が、そこに入るたびに「behind」を分泌するようになる。水を湛えられ、空気注入器を施された水槽群のならぶ部屋があって、「奥」の性質はとりあえずそこに代表されるだろう。水槽に養われている動物は、貝にしてもクラゲにしても猛毒をもっていて、水槽以外の空間にも毒サソリが存在していた。「奥」に「毒」が点在していながら、その毒に干渉されることがない――そのように空間は奥行によって価値を倍加される。このことがCoccoにあたえられた秘密の奥行とからみあってゆくのだ。性質の空間化、空間の性質化が、「拡張的な収斂」によってしるしづけられてゆく岩井の魔術に、観客はとりわけ洋館登場後、のみこまれてゆくことになる。
 
そういえばひとつの忘れられない奥行がある。町歩きする黒木とCoccoがファッションブランド店舗の奥にウェディングドレスを最初に認めたとき、それが奥行に宝石の輝くような感慨をあたえたのだった。ふたりはウェディングドレスを試着し、それを買い上げた。うつくしい散財。さきほどふたりが添い寝する姿をとらえる俯瞰ショットのことを書いたが、ふたりはウェディングドレスをともどもまとい、結婚の擬制のなかにあるかのように高揚していた。むろん俯瞰ショットとは方向を変えた奥行の創造にほかならない。このように作品では「結婚」の近似形が何度も語りかえられる。
 
「behind」は空間の疎隔を予定しているが、それが膚接するとどうなるか。それがたとえばひとをひとが背負う行為になる。黒木華は病身のCoccoを背負った。ただし、黒木にたいしてCoccoが積極的に生産する前置詞が「beside」であるのはいうまでもない。結婚式の壇上であれ、ネットで知り合った夫をはじめ、ほかの人間が黒木にたいしてもつ「beside」の位置はすべて疎外態だった。黒木にたいし愛着と節度をしめす綾野剛は、いっかい不用意な黒木をbesideへ導いてみせ、しっぺ返しをくらわす。Coccoだけが黒木の隣でカラオケに興じ、添い寝をし、そしてbesideの最終形として横からの接吻をなしとげる。
 
物語の結末部に何が起こるかは書かない。ふたつだけ暗示的にいっておこう。りりィの登場するシーンがあって、それまで一人対一人としてつくりあげられていたbesideがそのシーンで初めて三人で形成されるようになる。このときびっくりする行動の飛躍があり、登場人物とともに観客が涙にかきくれるようになるはずだ。花嫁衣裳はCoccoと黒木華の初夜をとらえるような俯瞰ショットのあとは、ある儀式に名残として出てくるのみ。ところがそのあと、ひとりになった黒木が、新居の分相応のアパート一室でスカイプ家庭教師の女子生徒と話すとき、白いひかり、白いペンキの窓枠、壁等に囲まれて、まるで花嫁衣裳を着ているかのような擬制がうまれてしまう。
 
一瞬黒味が入り、今度は「ネコカブト」をかぶり、眼を消した黒木のイメージショットが入る。これは角隠しの変奏ともとれるのだが、ストーリーのなかに記入できないこうした換喩的な「部分」こそが、なんと作品のラストショットだった。異様な感動をおぼえる。つまり収斂とは部分化に負う換喩にあらわれるが、最終的にそれは、「物語」内部にある外部、空白地帯を形成するというのが岩井俊二の結論だったのではないか。このラストショットで時空論映画としての本質が現れでた。岩井のほどこした時空化は、大傑作だった『リリイ・シュシュのすべて』の達成すら超えた。
 
おもいかえせば『リリイ・シュシュのすべて』は第一部・第二部という二分法のなかで、時空論的には序破急をくりかえし、それらの緩衝地帯に、田園でヘッドホンをしながら林立する少年少女たちのたがいに離れたすがたを置いた。それにたいし『リップヴァンウィンクルの花嫁』では終始、緩徐調が保たれ、俳優の一挙手一投足の「生成」を時間切片、空間切片のなかで眺めるよう促されてゆく。たぶん黒木華という女優のもつ空気感が速さによって疎外されるという、岩井の見込みがあったからにちがいないとおもう。
 
この作品では「観察」が観察そのものによって刻々、救済されてゆく。とくに黒木の行動から歯がゆさがとれだした後半から。科白上の明示がないままに、観客が中心的に視るものがある。それが黒木の瞳に、あかるさや力感がましてゆく「領域のクレッシェンド」だった。この意味では収斂そのものが作品内で拡張している。これこそがbehindの属性だった。むろん岩井俊二がしめしていることを哲学的にとらえるべきだろう。たとえば希望の哲学として。
 
3月30日、ディノスシネマ札幌にて鑑賞。劇場内で笠井嗣夫さんと会う。鑑賞後、ふたりでいった焼き鳥屋等で映画話に興じた。
 
 

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2016年03月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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